14万4千人 第27回
ここで皆さんに申しあげたいことがあります。この危機的状況にあって、私はなんて祈ったら良いのかわかりませんでした。この突如として起こった状況にあって、私は言葉を失ってしまったのです。もう死が目前に迫っていました。生涯初めての経験でした。結局このような祈りをしました。「神様、私の魂をみ手に委ねます!」。これ以上どんな祈りが出来るでしょうか、この短い時間に、神様に、どんなお願いが出来るでしょうか。もう罪を告白する時間はありません。「私の魂を救って下さい」と神様に一生懸命お願いするしかありません。
皆さんだったらどのようなお祈りをされますか。私は単純にこう言ったのです。「神様、私の魂をみ手に委ねます」。この短い間に私はハッキリと思い出したことがありました。「ああそうだ、私は罪人だ、私にはたくさんの弱さ、弱点がある。今までたくさんの過ちを犯してきた、永遠の命を獲得するための功績は自分には何一つない。自分が救われるとしたら、これは神様の恵み以外の何ものでもないだろう」。そのことを、私は心底、心の底から分かったのですね。
主の日は盗人のように 第24回
ある場所では、そこが一つの園のように整えられていて、園の丘の上に、十字架のキリスト像が立てられています。その像から血が浮き上がってきます。しかも、その浮き上がった血が140日間も固くならず、そのまま生々しく流れ続け、手から、額から流れるのですね。そしてその像を触ると脈が感じられ体温も感じられるというのです。
サタンは全世界を、ハルマゲドンの戦いに向けて召集しています。私は大丈夫だ、安全だとは言えません。こういった奇跡的なことに接すると、それが神様から来たもののように思えて、そこで教えられることを信じるようになります。「主が私に見えるような形で、ご自身を表して下さった。私は主の奇跡にあずかった。私は主に導かれている。私の信仰は本物だ。このような、奇跡を行うことが出来る教会は本物だ。この教会の教えていることに誤りはない」。このように考えてしまうのです。
み言葉で自分を見つめ、み言葉によって自分が罪人であることを告白して、主の前にひれ伏すのではなくて、「今日は私にこういったことが起きた。これは神様からの声だ」、このような、不思議な現象を信頼して、神様を信じていく場合があります。そのような現象を信仰の拠り所として、そこで教えられること信じていくなら、聖書の真理が語られても、聖書の教えよりも、自分の体験を優先していくということになってしまいます。聖書の言葉よりも、自分の経験を信頼してしまう結果になります。たとえ、自分が間違っていることが理解出来たとしても、感覚的、感情的には抵抗することが出来ず、偽りの中にとどまり続けて、最後には、「あなたを知らない」と言われてしまうのです。