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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

助け主聖霊 第2回

2016年08月31日 | 日記

1.勝つようにしてくださる方

 今回の記事の中で最も重要な思想は、新生、義認、聖化はすべて聖霊の力によってなされるということです。ローマ7章と8章のいくつかの聖句は、人間の救いのための聖霊の働きをよく説明しています。ローマ7章でパウロは、神様の律法の役割として、人間の絶望的な罪の状態を明らかにすることについて説明しています。

「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ7:14-20)。

 律法に拘束されている人間の状態について、パウロは次のような説明を加えました。 「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る」(ローマ7:22,23)。


助け主聖霊  第1回

2016年08月30日 | 日記

1)聖霊はどなたでしょうか?

 聖霊はある種の力や影響力でなく、人格的存在であられる神様です。

遅きに失した感がありますが、一般的にクリスチャンが聖霊について誤解している点を明らかにする必要があるようです。大多数の人が聖霊を、まるで神様から出てくる影響力や力、あるいは能力のような非人格的な物質として理解しています。しかし、イエス様は聖霊を一つの人格をお持ちの方として紹介されました。主は聖霊を「彼」、と呼び、ご自身と同等の人格を備えている個の存在として言われました。

 第2コリント3章17節でパウロは、「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」として、主の霊、まさに聖霊を人格ある存在として述べています。また、ペテロも「聖霊を欺き…」(使徒行伝5:3)と言い、聖霊を人格的存在として理解していたことがわかります。ヘブル9章14節は、「永遠の聖霊」と呼んでいます。また、詩篇139篇7節は、「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか」とあることからも、聖霊は神様の属性を持つ神様であられることを私たちは悟ります。

 また、イエス様がバプテスマを受けられたときに、父なる神様は天から、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなうものである」と言われました。イエス様がヨルダン川の水から上がられると、聖霊が鳩のような形で主に下ってきました。この事実からも聖霊が神様の属性を持たれる三位一体のお一人であるということを理解することが出来ます。そこでイエス様は、私たちが新しく信仰を持った人たちに、「父と子と聖霊」の名によってバプテスマを授けるように命じられたのです。これらの理解は、私たちが聖霊をどのようにとらえるべきかについて大きな助けを与えることになります。

 聖霊は人格的な神様です。イエス様が、人格的な個性を持った神様であられるのと同じようにです。従って、私たちはどのようにすれば、聖霊の力を受けることができるか知ろうと努めるより、どうすれば聖霊に用いられる人になれるかについて多く瞑想しなければなりません。聖霊は、従順な人々の中に存在しておられます。「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」(使徒行伝5:32)。


赦しの力 デイビット・カン説教より 第13回

2016年08月29日 | 日記

     イエス様に全てを捧げましょう

 神様に赦していただくために、私たちが何らかの形で神様の怒りを鎮めるようなことをしなければいけないと考える人がいます。しかしまず理解しなければいけないのは、神様が私たちを初めに、最初に愛して下さったということです。赦しを受けるというのは、神様の私たちの罪に対する怒りを鎮めるというものではありません。神様の大いなる平安、同情が私たちに向けられているということです。多くのクリスチャンが、罪の赦しを受けて罪の宣告から解かれたいと思っていながら、心の中にはその罪を継続したい、犯し続けたいと考えています。そして自分自身の利己的な思い、目的を隠しながら、内に秘めながら生きようと考えているのです。赦しを受けたいのです。救われたい、それは疑いの余地はありません。しかしそのように願いながら、世的な願望を抱えたまま生きようとしているのです。そして個人的な利益の追求に夢中になっています。全身全霊でイエス様に全てを捧げたいとは思っていないのです。

それはどうしてかというと、彼らは神様の愛を十分に理解していないからなのです。すべてをイエス様に献げたら、もうこの世の快楽も全てを得ることが出来ないと考えています。そうしたらもう刺激のない、退屈な人生になってしまうのではないかと思うわけです。しかし、心底、懸命に、イエス様の救いを求めるならば、それを心から欲するならば、そして神様の赦しだけを私たちが人生で願い、探し求めるならば、イエス様は皆さんの魂に向かってこのように言われます。「子よ、わが息子よ、娘よ、あなたの罪は赦された」と。その時直ちにすべての重荷から私たちは解かれます。かつて経験したことのない自由に浸ることでしょう。征服者、勝利者となります。勝利者だけがイエス様と共に、シオンの山に立つ事が出来るのです。

今日お話ししたことは、ごく単純な福音なのです。子供でも理解できるような概念です。とても容易に理解できる事柄です。イエス様の奇跡から、このような真理、教えを得ることが出来るのです。皆さん、皆さんが罪を赦された者となることを心から願い祈ります。イエス様が、神様が私たちを創り変えて下います。そして私たちを天国へ連れ帰って下さいます。それがイエス様の力なのです。そのことを体験しなければいけません。

救い、聖化、完全、栄化、そういった教理的なことに関して、たくさんの意見が飛び交っています。しかし赦しの真の意味は、私たちがそれを把握するならば、すべての疑問は解決するものなのです。神様の救いは単純なものです。これは創造の業なのです。この単純な福音を悟られ、皆さんお一人おひとりの心が変えられるように願っています。

この神様が天の聖所におられます。生ける神の印を持って、皆さん一人一人に印を押したいと願っておられます。

皆さんは残りの教会に属していますか?本当の意味で赦されていますか?

 お祈りしましょう

「天のお父様、このような単純な福音を与えて下さいましてありがとうございます。イエス・キリストの力強いカルバリーの福音を信じます。そのことを心から信じます。全身全霊をあなたに捧げたいと思います。私たちはあなたから赦しをいただきたいと思っています。私たちの内に新しい心を創造してください。正しい霊を私たちの内に回復させてください。あなたの完全な創造のみ業の一部になりたいのです。お父様、ますますこの世は闇へと突き進んでいます。艱難の時がやってこようとしているのを見ることが出来ます。あなたの翼の下に私たちを隠して下さい。私たちはあなたの子供ですから、あなたがこの子供たち一人ひとりを保護して下さるように、私たちの名前を覚えて下さい。イエス・キリストのみ名を通してお祈りを捧げます。アーメン」

 


赦しの力 デイビット・カン説教より 第12回

2016年08月28日 | 日記

皆さん、赦しには力があります。皆さんの思い、感情、魂を変える力があります。皆さんの思いを変えて、イエス様の思いと一つとなるようにする力があります。これ、力なんです。罪の縄目から皆さんを開放する力があります。今朝皆さんが抱えておられる問題は何でしょうか?皆さんの魂が抱えている問題は何でしょうか?本当の意味で赦されていますか?イエス様は私の罪を赦して下さったと言うことが出来ますか?

ではこの質問をしたいと思います。「あなたは罪の力から自由になっていますか?サタンの命令に対して、もう従わなくてよい状態になっていますか?イエス様の恵みによって罪の問題を征服することが出来ていますか?赦しと救いの真の喜びにあずかっていますか?」

これは感情的な喜びのことではありません。本当に罪から解放されて自由になったことに対する喜びなのです。それをお持ちであるならば、その時あなたは本当の意味で救われたのです。赦されているのです。これこそがイエス・キリストのカルバリーから出た福音です。

『祝福の山』という本から引用したいと思います。祝福の山143ページです。

「しかし、赦しは多くの人が考えるよりももっと広い意味を持っている。神が『豊かにゆるしを与えられる』という約束をお与えになる時、その約束の意味は私たちの理解出来るすべてを超えるかのように『わが思いは、あなた方の思いとは異なり、わが道は、あなた方の道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道はあなた方の道よりも高く、わが思いは、あなた方の思いより高い』と神は言い添えておられる。神の赦しは、罪の宣告から私たちを解放する法的行為であるばかりではない。それは罪の赦しであるだけでなく、私たちを罪から救うことである。心を変えるものは、あふれでる贖罪的愛である。ダビデは、『神よ、私のために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください』と祈った時、赦しということを正しく理解していた。また彼は、「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる」と言っている」。


赦しの力 デイビット・カン説教より 第11回

2016年08月27日 | 日記

罪の力から自由になっていますか?

 ある40歳代の男の人に会ったことがあるんですけど、彼は亡くなりましたが、筋委縮症と言う病気を抱えていました。この病気になって、彼は10歳の子どもぐらいにまで小さくなりました。私の集会にやって来た時には、13歳の息子に抱っこされてそこに入ってきたんです。しかしそういう状態で、彼はもう本当に素晴らしい伝道者となってくれたんです。彼の背中はひどく曲がっていて、もう枕が使えない状態でした。彼の体は本当に委縮していたんです。分厚いメガネを鼻にかけていました。彼は、時々隣人を呼んでいろいろ助けてもらっていました。病気になってから奥さんにも逃げられてしまって、彼は眼が悪くて見えないから、誰かに「ここを読んでくださいますか」とお願いするわけです。時々隣人が彼のために本を読んであげました。「エーと、どの本読んでほしいんだ?」。「あそこにある本読んでくれないかな―。ああ、『各時代の大争闘』と言う本、その本の何ページ読んでくれないかな―」。そのような方法で彼は隣人に、証をしていきました。ある時には隣人に頼んで、カセットテープを再生するようにお願いしました。「あそこの講義のテープを聞きたいから、これをカセットプレーヤーに入れて流してくれないか」と言うわけです。そして半分過ぎたら、「A面からB面に切り替えてくれないか」と言うわけです。「あそこにあるテープ、カセットテープ取ってくれないか」。「これ何のテープ?だれの話のテープ?」。「デイビット・カンと言う人が話しているテープなんだけど」。そうやって隣人にもテープを聞かせて伝道したわけです。

その人が私に時々こういう質問をしました。「カン先生、イエス様は本当に間もなくお出でになるのでしょうか?もう、すぐにイエス様に来ていただきたいと思っているんですけど。イエス様がお出でになったら、私の名前を呼んで下さいますね。私はその時立ち上がって、イエス様に向かって走っていくことが出来るようになっているんですね。自分の手と足を使って彼の所に走って行きますよ。鹿のように走って行くことでしょう。そして叫びます。もう生涯イエス様をお待ちしておりました。どうしてこんなに遅くなったんですか?」。その彼の言葉を聞いて、私は深い感銘を受けました。