ひまわりさんより(11月30日)
私は小さい時から、聖書の「まず神の国と神の義を求めよ」(マタイ6:33)という言葉を聞いてきました。そしてそれは、安息日に教会へ行くことや、祈祷会に出席すること、什一献金をすること、などと教えられ、自分もそれを、他のなによりも第一にすることが大切だと思ってきました。でも心の中では、何かしっくりこないものも感じていました。今日、デビット・カン先生の、「主は我らの義」のテープを聞いていて感じたのですが、「まず神の国と神の義を求める」とは、イエス様の義、信仰による義を求めるということで、それは、聖所の経験で言うと、外庭の経験であり、罪を告白して、自分自身を祭壇で焼きつくし、自我を放棄して、100パーセントイエス様の義で生きるようになることだと思いました。そのことを概念としてではなく、体験として、自己がイエス様の前に完全に屈服させられること、「自分の栄光が塵に伏させられ」、ただみ言葉によって生きるようにされること、そのような信仰による義の体験を、まず求めなさいと言っておられるのだと思いました。
完全とは知っている罪に勝利すること(デビット・カン講演4)
では、完全を信じることとは、完全とはどういうことでしょうか。できるだけ単純に説明したいと思います。私たちは天国に行った後も、もっともっと成長しますか? 救われて天国に行っても、永遠に成長し続けるのではないでしょうか。だとするならば、完全というのは、私たちが到達してそこでおしまいというものではないですね。天国に行ってもさらに、もっと親切に、もっと愛情深くなっていくものですよね。もっともっと忍耐強くなり、柔和になっていきます。さらに成長していくわけです。ですからそこには、もう到達すべき地点に達した、というところはないわけです。そのようにいう事が完全主義です。そのようなことを私たちは信じていません。
ではクリスチャンの品性完成とは何でしょうか。これはその人の状態なんですね。私がどのようなものであるか、私の心が神様との関係においてどのような状態であるかということです。あるレベルに達するというよりは、その人の存在の状態なんです。では聖書による完成とは何でしょう。神様の戒めに完全に従うということです。それでも少しはっきりしないところがありますね。それについては何といえるでしょう。すべての知っている罪に勝利するということです。知らないことについては、神様はそれを罪とはみなされません。私たちがすべての知っている罪に勝利するならば、神様はその人を完全とみなされます。