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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

後の雨に備える(デビット・カン講演4)

2012年11月30日 | 日記



     ひまわりさんより(11月30日)

私は小さい時から、聖書の「まず神の国と神の義を求めよ」(マタイ6:33)という言葉を聞いてきました。そしてそれは、安息日に教会へ行くことや、祈祷会に出席すること、什一献金をすること、などと教えられ、自分もそれを、他のなによりも第一にすることが大切だと思ってきました。でも心の中では、何かしっくりこないものも感じていました。今日、デビット・カン先生の、「主は我らの義」のテープを聞いていて感じたのですが、「まず神の国と神の義を求める」とは、イエス様の義、信仰による義を求めるということで、それは、聖所の経験で言うと、外庭の経験であり、罪を告白して、自分自身を祭壇で焼きつくし、自我を放棄して、100パーセントイエス様の義で生きるようになることだと思いました。そのことを概念としてではなく、体験として、自己がイエス様の前に完全に屈服させられること、「自分の栄光が塵に伏させられ」、ただみ言葉によって生きるようにされること、そのような信仰による義の体験を、まず求めなさいと言っておられるのだと思いました。

    完全とは知っている罪に勝利すること(デビット・カン講演4)

では、完全を信じることとは、完全とはどういうことでしょうか。できるだけ単純に説明したいと思います。私たちは天国に行った後も、もっともっと成長しますか? 救われて天国に行っても、永遠に成長し続けるのではないでしょうか。だとするならば、完全というのは、私たちが到達してそこでおしまいというものではないですね。天国に行ってもさらに、もっと親切に、もっと愛情深くなっていくものですよね。もっともっと忍耐強くなり、柔和になっていきます。さらに成長していくわけです。ですからそこには、もう到達すべき地点に達した、というところはないわけです。そのようにいう事が完全主義です。そのようなことを私たちは信じていません。
ではクリスチャンの品性完成とは何でしょうか。これはその人の状態なんですね。私がどのようなものであるか、私の心が神様との関係においてどのような状態であるかということです。あるレベルに達するというよりは、その人の存在の状態なんです。では聖書による完成とは何でしょう。神様の戒めに完全に従うということです。それでも少しはっきりしないところがありますね。それについては何といえるでしょう。すべての知っている罪に勝利するということです。知らないことについては、神様はそれを罪とはみなされません。私たちがすべての知っている罪に勝利するならば、神様はその人を完全とみなされます。






後の雨に備える(デビット・カン講演3)

2012年11月29日 | 日記



ひまわりさんより(11月29日)
今日の日課の言葉をご紹介いたします。「第三天使は、そのメッセージをささやくような調子で、あるいはためらいがちに宣布するのではない。第三天使は、速やかに中空を飛びながら、大いなる声で叫ぶのである。このことは神の僕たちの働きが熱心に速やかに成し遂げられるべきことを示している。彼らは真理のための勇敢な承認でなければならない。彼らの表情に恥じるような様子はなく、頭を上げて、輝く明るい義の太陽の光線が彼らの上に輝き、自分たちの贖いが近いことを喜んで、彼らは世に対する最後の哀れみのメッセージを宣布するために出ていくのである。」これが私の信仰だと思いました。その私の叫びが11月10日に書いた証です。まだ読んでおられない方はご一読ください。

完全主義と完全を信じることの違い(デビット・カン講演3)
完全主義とは何でしょうか。完全主義の人は、自分たちは完全にならないと救われないと説きます。完全になることを救いの条件とするわけです。完全主義とは、神様のすべての言葉を、その通りに従わなければ完全にはなれないということです。そのような完全主義にはたくさんの努力を要します。パリサイ人たちは、完全がなければ救われることはないと信じるわけですね。そして彼らは神の律法の一点一画も、もれなくそれに従おうとしたわけです。それは間違いです。聖書が教えていることではありません。





後の雨に備える(デビット・カン講演2)

2012年11月28日 | 日記



     ひまわりさんより(11月28日)
夫は今日、千葉で研修を受けた後、お茶の水で開かれている星野富弘さんの「花の詩画展」に行ってきたそうです。私も久しぶりに星野さんの作品を見せてもらいました。星野さんは、今年65歳ということでしたが、相変わらず素晴らしい作品を生み出しておられます。作品はどれも素敵なものでしたが、特に私が心を動かされたのは、今回の詩画展のタイトルにもなっているオダマキの絵につけられた詩でした。 『いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった』 ちなみに、夫の気に入った言葉は、『 笑顔で挨拶を交わし 小さなことにも喜び 嘘を言わず 悪口も言わず すべてのことに感謝し 人の幸せを祈る 1月1日の気持ちを 皆がみんな 12月31日まで 持ち続けていられたら 美しい国になる 』だったそうです。

    クリスチャンの品性完成とは?(デビット・カン講演2)
クリスチャンの品性完成とは何でしょう。間違いを犯さなくなるということですか。弱さがなくなるということですか。全然倒れなくなるということですか。イエス・キリストのように完全になるということ、品性完成とはどういうことでしょう。皆さんどのように理解しておられますか。
ある人達は、完全主義と品性完成を混同してしまっているかもしれません。私たちは完全主義を信じるわけではありません。これはパリサイ主義と同じです。完全主義ではなく、品性の完成を信じています。





後の雨に備える(デビット・カン講演1)

2012年11月27日 | 日記



   ひまわりさんより(11月27日)

私は毎日、夫が管理者をしているデイサービスへ、体操の指導に出かけています。出かけるといっても隣の部屋なのですが、そこでは、まず最初に「笑う健康法」と私が名づけた、とにかく馬鹿笑いをする、おかしくなくても笑う、ということを一緒にやっています。私が大声で、馬鹿笑いをすると、ほとんどの人はつられて笑い出します。中には全然笑わない人もいましたが、今では、「笑う健康法」をやりましょう、と言っただけで皆さん笑い出されます。おかしくなくても笑うことで、皆さんが本当にいい笑顔になっておられるのを見ると、聖書にある「すべての事について、感謝しなさい」(1テサロニケ5:18)というみ言葉は、感謝なことがないから感謝できないというのではなく、感謝なことを一つ一つ数えていくと感謝になっていくのではないかと思いました。

 後の雨に備える       
  品性完成はいつ?(デビット・カン講演1)

これから、「後の雨に備える」という題でお話したいと思います。できるだけ簡潔にこのお話ができるように努めます。あまり詳しく話さないようにしますけれども、旧約聖書ゼカリヤ書第10章1節に、「あなたがたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ」とあります。
聖書によりますと、私たちは野の草のようであります。成長して生き続けるためには、雨が必要なのです。聖書の中では神の言葉は雨を表しています。私たちは今、「前の雨」の時代ではなく、「後の雨」の時代に生きているのです。ですから、私たちは今のうちに雨を求めなくてはいけません。では「後の雨」の目的とは何でしょう。皆さんに、このような質問を投げかけてみましょう。
品性の完成というのは、後の雨のもとで実現するものでしょうか。前の雨で実現するものでしょうか。手を上げていただいていいですか。前の雨で品性完成に至ると思う方? 手を上げるのは怖いですか。では、後の雨のもとで品性完成に到達すると思う人は? 皆さんのほとんどは後の雨ですね。
皆さんをちょっとがっかりさせましょう。私たちの品性完成というのは、前の雨のもとで実現されるものなのです。皆さん、後の雨のもとで、と答えられましたけども、それには理由があると思います。後の雨は神の印と関係しているからですね。ですから後の雨だと答えられたのだと思うのです。しかし実際には、品性完成というのは前の雨のもとで実現されます。そして、神の民の品性が完成されたときに、印が押されるわけですね。
そこで、質問が出てきますね。ではクリスチャンの品性完成とは何でしょう




なぜあなたは主に従うか(デビット・カン講演26)

2012年11月26日 | 日記



     ひまわりさんより(11月26日)

弟夫婦と一緒に、小さなデイサービスとヘルパーステーションをやることになり、毎日忙しくしています。今日は、その義妹が、最初に会社を立ち上げてから今まで、気の休まることがなかったという話をしてくれました。たまに休みはとっても、働いているヘルパーさんからの問い合わせや、緊急の呼び出しなどがひっきりなしにあり、結局家にいるよりは、仕事場にいたほうがよっぽどいいということになり、夜は遅く、休みなしの日々だったといいます。そして、「義姉さんが来てくれて、時間の余裕がもてるようになり、本当に感謝しています」と言ってくれました。私がこの職場へ来ることには意味があったのだと、あらためて感じました。

     なぜあなたは主に従うか(デビット・カン講演・この演目最終回)

「私は神様に仕えます。神様を礼拝します。安息日を清く守っています。毎日毎日、私の心をイエス様に捧げたいと思います。神様のために生きています。喜んで神様のために生きたいと思います」。そういうことを言ったら、「なぜですか」と聞かれるかもしれません。皆さんだったらどのようにお答えになりますか。「なぜなら、私は神様を知っているからです」、と答えることができるでしょうか。神様は、すばらしい神様であられるから、はかり知れない愛を私に注いでくださったから、たとえ地獄に行くことになったとしても、天国に行けなくなったとしても、それでも私達は、神様に信頼すると言えるでしょうか。神様はすばらしい愛の方であるから、それが私たちの主に従う動機となるべきであります。それこそが私たちが神様に仕える理由となるべきであります。
お祈りしましょう。
「天のお父様。本当の意味で、あなたを知りたいと思います。聖霊を通して私たちに教えてください。あなたの美しい品性を示してください。あなたのすばらしい愛を教えてください。私たちのうちに何が起こっても、正しい理由、正しい動機をもってあなたにお仕えしたいと思います。十字架上であなたが払ってくださった驚くべき犠牲を、再びここで
感謝したいと思います。そして今、あなたの安息日に入らせていただきました。私たちの罪をおゆるしください。私たちの心を清めてください。あらゆる汚れ、罪から清めてください。安息日が清い日であるように、私たちを清いものとしてください。神様、この安息日を守ること、これこそが、生ける神の印であります。私たちを、あなたの聖なる休みに入らせてください。時が短いのを知っています。ですから、私たちの品性を備えて下さい。イエス様の御名を通してお祈りいたします。アァメン」