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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

キリスト再臨の前兆  デビット・カン講演 第7回

2012年03月31日 | 日記




    ひまわりさんより(3月31日)
去年から、月に1度自然食品を、かなりの量、宅配で取っています。
今日はちょうど注文品が夕方届く日なので楽しみにしていました。
とくに私の好きなのは黒パンで、今回は干しぶどう入りの黒パン6個入りを4袋頼んでいました。
ところが届いたのは、干しぶどう入りではないものでした。
こういうことが起きると、今までの私だったら、ブリブリしてすぐに苦情を言って取り替えさせるのですが、
今回は、すぐに、「まてよ、こういう思いはよくないんだな」という気持ちが起きて、
「まあいいや、人は間違う事だってあるし、レーズンの入っていないパンを食べるのも意味があるかもしれない。
状況に自分を合わせよう」、という気持ちになったのです。
小さなことですが、私にはとても大きな心境の変化でした。

    心が痛むこと (デビット・カン講演 7 )

彼らが持っていた聖所のメッセージは、どのような理解かというと、彼らの理解では、魂を救うことができなかったのです。
神様の愛で自分の魂が救われていなければ、どうやって他の魂の救いに貢献することができるでしょうか。
神様が、彼らの伝道そのものを非難されました。私たちの伝道活動においても、ジレンマがあります。
私たちは今、たくさんの日曜教会の人たちと連絡を取り合っています。
韓国国内だけで2万部以上の三天使の教えを説いた雑誌を、毎月毎月発行しております。
それを日曜教会の牧師をはじめとする諸教会の人たちに配布しています。
そこで、韓国の日曜教会の大勢の人たちが私たちに連絡を取ってきます。
そして私たちの本や CD やいろんな資料を注文してくるわけです。
毎月毎月、日曜教会の牧師さんたちが、私の説教の CD をどんどん注文してきます。
最近1人の牧師さんが私の説教 CD を110枚一度に注文されました。
そして私が語ったことをそのまま受け入れて、日曜教会でいろんな牧師さんたちが語っていると言われました。
これは奇跡であります。しかし問題は、日曜教会の大勢の牧師さんたち、
信徒さんたちと私たちは連絡を取り合うのですが、せっかく伝道しても、彼らを連れて行ってあげる教会がないのです。
そういった貴重な尊い魂を、どこに私たちは連れていけばいいのでしょう。以前はSDA教会に彼らを紹介していました。
ところが、たくさんの人たちが私のところに戻ってきてこういうんですね。
「カン先生SDA教会へ戻りなさいと言わないでください。あの教会はとても冷たいです。
そして、大切なメッセージを語りません。説きません」。
想像できますか? SDAに語るべきメッセージがないなんて! 
SDAで聞かれるメッセージというのは、私が、長老教会、メソジスト、
バプテスト教会などで聞くメッセージよりももっと程度の低いものです。
ですから、せっかく真理に導かれた人たちが、もうこんなことだったら、もとの日曜教会に戻ったほうがましだというのです。
そういった人たちは、「私は、このSDA教会で聖霊のご臨在を感じない」と言ってきます。
そういったことを耳にする時、私は本当に心が痛みます。
何と答えていいかわからないのです。本当に悲しくなります。





キリスト再臨の前兆  デビット・カン講演 第6回

2012年03月30日 | 日記




   ひまわりさんより(3月30日)

今日3月30日は、しばらく前に安田火災(?)がゴッホの「ひまわり」という絵を、
たしか50億円ほどで購入した日だったそうです。夫はゴッホのファンで、家には立派な画集があります。
夫の受け売りでは、ゴッホは牧師の子供として生まれ、若いころには信徒伝道者のような働きをしたこともあり、
聖書が大好きだったのだそうです。私の中学時代の美術の教科書に紹介されていた、
ゴッホの代表作『馬鈴薯を食べる人たち』の背景には、よく見ると、十字架のキリストの額が掲げられていました。
彼の晩年の作品『星月夜』では、中央に教会が描かれており、その周囲には、明るく灯のともった家々が並んでいます。
でも中央の教会は真っ暗なのです。教会は、ゴッホの心に光を与えることができなかったのかもしれません。
私たちは、聖書から、真の光を得たいと思います。

   魂を滅ぼす伝道プログラム (デビット・カン講演 5 )

イエス様が来られた当時の、エルサレムの神殿から約1.6キロぐらい離れたところに、大きなスポーツの競技場がありました。
その中では、ありとあらゆる、ボクシングとかレスリングとか、いろいろなスポーツの試合が行われていたのです。戦車や馬車の競技とかね。
大祭司ほをはじめとして祭司たちも神殿の義式が終わったら、すぐに服を着替えてそのスタジアムに行ったわけですね。
そういった人たちが、どうやって聖書の預言を正しく理解することができたでしょうか。
教育制度の中に間違った制度を取り入れることによって、ユダヤ教会全体が堕落してしまったのです。
彼らは盲目的な状態になりました。そこでイエス様は、パリサイ人、律法学者たちは災いだと言われたのです。
当時の教会が行っていた伝道活動もイエス様は非難なさいました。あなたたちがいろんな魂を、海外からも色んな場所から、
世界中から連れてきて、あなたたちは人々を悪魔の状態に作り上げてしまうと言われました(マタイ23:15)。
彼らの救霊の働きは、かえって魂を滅ぼすプログラムになってしまっていました。ひどい状態でした。




キリスト再臨の前兆  デビット・カン講演 第5回

2012年03月29日 | 日記




ひまわりさんより (3月29日)
今日の日課の読み物の中でとても感動した文章をご紹介します。
「聖なる原則が人生を導く時、魂はその単純さのうちに美しいものとなる」
「信仰の祈りの感化は、永遠と同じように遠くにまで届く」(『キリストを映して』より)
子供たちのために祈ってきましたが、子供たちは(特に男の子は)、
その選ぶ伴侶によって人生が決まると言っても過言ではありません。
よい伴侶が与えられるよう、永遠の神様に届く、信仰の祈りを続けていかなければならないことを思いました。


メシヤを待ちながらメシヤを殺害した  デビット・カン講演5

 マタイ24章の背景を見ていきたいのですが、マタイ24章の背景となるのがマタイ23章です。
どうして背景を知るのかと言いますと、イエス様の再臨のしるしを理解するためには、
イエス様の時代の教会の状態を理解しなければなりません。
ほとんど4000年近くも、メシヤの出現を待ち望んでいたユダヤ人の教会が、
結局真理を見いだせなくて、メシヤを殺害するにいたったわけです。
彼らは聖書を持っていました。預言者もいました。聖所もありました。預言の霊も持っていたんです。
預言の霊とは何ですか。彼らにとって、それはモーセの言葉です。モーセの書は彼らにとって預言の霊だったのです。
証の書だったのです。彼らは健康のメッセージも持っていました。衣服改革のメッセージも持っていました。
預言も持っていました。私たちが証の書で学んでいるすべてのことを、彼らは持っていたわけです。
にもかかわらず、実際にメシヤが来られた時、彼らはメシヤを認めることができず、拒んでしまったのです。なぜなのでしょうか。
彼らはメシヤの到来を待ち望んでいたわけですよね。しかし彼らは、間違った期待の仕方、間違った観念を持っていたんです。
マタイ23章を勉強するなら、イエス様がユダヤ人の教会を非難されたことが書かれています。
彼らの教育機関を非難されました。ユダヤ人の教会は、当時の主流だったギリシャの教育システムを取り入れていたのです。
その結果彼らは、いろんな学位のような、そういったものを教育制度に取り入れて行ったのです。現代でもそうですね。
自分たちの学位や称号に従って、ガウンの色などが変わるわけです。
大学の卒業式などで、教授とか、博士号を持っている人とかが入ってくるときに、
いろんな形の帽子や色のガウンを着て登場しますが、自分たちの到達したものを見せびらかすためにやるのです。
そのような、誇り、プライドに満ちている人たちが、どうやって聖霊の声に耳を傾けることができたでしょう。
ギリシャの教育制度を取り入れることによって、教会全体が堕落してしまったのです。
その結果彼らは盲目の状態になりました。見えない状態になりました。





キリスト再臨の前兆  デビット・カン講演 第4回

2012年03月28日 | 日記




 ひまわりさんより(3月28日)

時々教会で、「なかなか世と切り離せないんですよね」という人がいます。
その人は、自分だけが信仰を先に進んで行ったら、家族をはじめ、世の人々に伝道できなくなるのではないか、
だから、その人たちと歩調を合わせることも必要なのではないかというのです。
しかし、ここで考えなければならないことは、伝道はどのようにしてなされるのかという事です。
伝道は、聖霊の御業であって、私たちがするものではありません。
私たちは自分をむなしくして、聖霊の神様の通りよき器になり、
人の心を変えてくださる聖霊様に働いていただくことが伝道なのです。
ですから、大切なのは、世と歩調を合わせることではなく、私たちが謙遜に徹することに心を注いで、
「へりくだる者と共に住」まれる神様の宮になっていくことだと思います。
「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊を生かし、
砕けたる者の心をいかす」(イザヤ57:15)

   誰でも真理を見いだせる(デビット・カン講演 4 )

 もし誰でも、真理を心から受け入れたいと求めていたならば、必ずその真理に出会って、
受け入れることができるようになります。
だれでも、誠実に真理を求めて聖書を学ぶなら、神様によって、
聖霊によって書かれたこの真理を認めることができるようになります。
もし本当に真理を知りたければ、心からそれを求めるならば、必ず真理を見いだすことでしょう。
これは理解困難なものではありません。
問題は理解したくないと思っているからなのです。
 もし、真理をそのまま受け入れるならば、自分が何をしなくてはいけないかということをはっきり知ります。
真理を受け入れるならば、真理に従わなければならないということを知ります。
真理を受け入れるならば、自分たちが今まで好んできた偶像を捨てなければいけないということがわかってきます。
そんなことはしたくないわけですね。ですから、彼らは真理を否定してしまうわけです。
 私たちが裁きの座に立った時、だれも「私は知らなかった」と、言い訳をすることはできません。
その時、神様はその人にこのように言われることでしょう。「それは問題ではない。
問題はあなたが真理を見いだすことを望まなかったことなのだ」と・・・。
神様は、その人が真理を求めないで、時間を別のことにむだに費やしてしまったことについて裁かれます。





キリスト再臨の前兆  デビット・カン講演 第3回

2012年03月27日 | 日記


     ひまわりさんより(3月27日)

今回のカン先生のメッセージは、ノアの箱舟の話から始まっていますが、
小さい時から、ノアの箱舟の話を聞いてきた私は、洪水のあと空にかかった虹の場面がとても好きでした.
虹を見るといつも、神様は私たちを守っていて下さるという思いを持ったのでした。
それから、転勤で父が沖縄で仕事をしていた時、3人の子供を連れて沖縄に遊びに行ったことがありました。
ある日、海水浴に出かけ、子供たちは波打ち際で遊んでいました。私は砂浜で子供たちを眺めていたら、
急に子供たちを包みこむように大きなきれいな虹がかかったのです。
私はそのとき、この子たちには何か神様の使命があるのだろうか、まじめに親をやらなければいけないな、
と思ったのでした。
その後は悲惨なことがたくさんありましたが、子供たちは、それぞれ信仰を持って、
神さまを第一に歩んでい(るように思い)ます。


     忘れ去られた箱舟発見(デビット・カン講演 3)

それから、発見したものを専門家に依頼して年代測定をしてもらった結果、
これらの物体は4800年前のものだということがはっきりしました。これこそノアの箱舟です。
 そして、これがニュースとしてアメリカでも放送されたのですが、
2日間このことが話題になって、それからまったく話題にされなくなりました。
人類史上最も偉大なこの発見が、たった2日でマスコミから相手にされなくなってしまったのです。
もうこれ以上このことについて見せたくなかったのですね。ニュースとして取り上げることはしたくなかったのです。
なぜでしょうか。問題を感じたからです。科学的な観念にとらわれすぎていたら、
この証拠を認めることができないのです。
 ノアの箱舟だという結論を受け入れてしまったら、次にどういうステップを踏まなければならないかというと、
聖書の真実性を受け入れなければならないということになるのです。
次のステップは、イエス様の再臨という事実も受け入れなければならなくなります。
論理的に考えていけばそうなっていくわけです。
そこで、マスコミの人たちは、ニュースでこれを取り上げなくなり、全く忘れ去られてしまったわけです。
 皆さん、考えてみてください。このようなことは間違ったことですよね。
使徒ペテロもそれについて述べています。終わりの時代に人々は、神様の創造のわざを捨て、
再臨のことを否定するようになって、ノアの洪水を否定するようになると・・・。(ペテロ第2の手紙 3:3~5)