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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

最後の民の召命と使命 第7回

2018年01月31日 | 日記

このような中にアレクサンドリア学派のユティケース(375-454)が登場し、 イエスの神性と人性を持って戦うことなく、イエスは「神性と人性が結合されて第三の本性に変化した方」として第三の本性という単一本性を強調しました。 しかし、これも一性論といって451年カルケドン会議で誤びゅうとされました。このカルケドン会議で「イエス様はどんな本性を持っておられたのか」ということに対する論争は終結しましたが、その結論は次のようです。

「われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。

同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。

同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。『罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである』。神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。この結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格、唯一の自立存在に共存している。彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである」(カルケドン信条、ウイキペディアより)。


最後の民の召命と使命 第6回

2018年01月30日 | 日記

キリストの神性と人性に関して、初期の教会には大きく分けると二つの理解がありました。人性を強調するグループと神性を強調するグループです。そして人性を強調する人たちの中にも、アンティオキア学派と、非常に強く人性を強調するエビオン主義(キリストは神格化された人間だとか、単に預言者の一人とする立場)があり、神性を強調するグループにも、アレクサンドリア学派と、あまりにも神聖を強調する仮現主義(ドケティズム、キリストが肉体で来られたことを否定する)がありました。

アレクサンドリア出身の、バシリデス(Basilides、活動時期117-138)は仮現主義の創始者として、事実上ドケティズムを一番先に紹介した人物です。彼は「キリストは苦難を受けないで、クレネ出身のシモンがキリストのために十字架を背負って行くように強要され、その瞬間、シモンは、キリストの姿を持ち、兵士たちはシモンをキリストと思って十字架につけた。 そしてイエス自身はクレネ人シモンの姿を取ってそこにいて、その事実を知らない人たちをあざ笑った」と言いました。このような非聖書的な主張が教会に与えた害悪は全てを紹介できませんが、逆説的にこのような論理に反対するため、キリスト教神学は発展することになりました。

前の質問に戻って、「キリストが神様なら彼の本性は人間か神か?」という問題は依然として解決すべき課題でした。 ニケア公会議後、依然としてキリストの神性に対する意見が分かれていた当時、アポリナリウス(310-390)は352年に人の形で来られた神様(単一神性)を強調しましたが、360年アンティオキア学派とカッパドキア教父から仮現主義だと宣告され、その後、381年アンティオキア公会議で三位一体が完成されたとき、アポリナリウスは異端だと弾劾されました。

アポリナリウスはイエス様の単一神性を強調し、異端となりましたが、コンスタンティノポリスの総主教だったネストリウス(Nestorius)は、単一神性や、単一人性を強調すれば異端になるため、キリストは神性と人性の二つの本性をもっているという養成論を提起しました。その理由は、当時、「マリヤは神様の母親か? 人間の母親か?」という論争が起き、神性を強調するグループは神の母だと主張し、人間性を強調するグループは人間の母だと主張しました。そこでネストリウスは神性と人性が混合されない二つの本性に区別されて存在すると主張し、マリヤは神様の母親でもなく、人間の母でもない"キリストの母"(Christotokos)という理論を主張しました。

この見解は431年エペソ宗教会議で当事者のいない状態で異端(養成論者として)と決め付けられました。しかし当事者が出席していない状態で一方的に断罪した異例の会議だったため、ローマ教会監督のシックストゥースは、ネストリウス不在で開催されたエペソ会議は公正ではないので修正しなければならないと提案しました。そのため、人性を強調するアンティオキア学派と神性を強調するアレクサンドリア学派が連合して信条を作るよう要請し≪連合信条≫を作成することになります。しかし、この信条は二学派とも納得できる内容ではありませんでした。


最後の民の召命と使命 第5回

2018年01月29日 | 日記

02 キリストの受肉と私たち

 

イエス・キリストの再臨が目前に迫っている今、次々と成就されていく最後の預言についての研究ではなく、「2千年前にこの地に来られたキリストの受肉についての研究」は時代状況に合わないのではないか、という疑問が起きるかもしれません。そうです。米国と教皇権の行動や新世界秩序主義者たちの動きをはっきり認識し、最後の時代の準備をする研究ではなく、なぜ、「キリストの受肉」なのでしょうか。あまりにも生真面目なテーマと思われるかもしれません。

しかし、この研究はこの最後の時代に必ず理解されなければならず、また、伝えなければならないとても重要な真理なのです。受肉についての研究は、終末の事件である後の雨、黙示録18章の第四天使のメッセージ、完全、信仰による義、三天使の使命などと切り離すことのできない関係があるだけでなく、これらのすべてのテーマの核心であることをこの研究を通して確認することになります。

私たちが現在信じているキリスト教の教理の基礎である聖書は、66冊が正典(Canon)として定着するまで、数世紀にわたって論争と弁証、研究と会議を経て、今に至るようになりました。そこでは、特に「神様」と「神性」についての理解、つまり父なる神様、キリスト、聖霊の神格と個性、その本質と存在に対する見解が、多くの異端を産んだ代表的な主題でした。

本格的なキリスト論の論争は4世紀にアリウスの出現で始まりました。 彼はイエスが神様の子であるため、生まれる前には存在しなかったと言いました。つまり、すべての被造物より先に存在していたとしても、被造物であり、神様ではないと主張しました。これに対してコンスタンティヌス皇帝(274-337)が開催したニケア公会議(325年)で、神様の子であるイエス様は、父なる神様と本質が同一であると主張したアタナシウスの見解を採択し、アリウス派を異端と定めました。しかし、イエス様の神性に対する論争は簡単にはおさまらず、東ローマのテオドシウス皇帝(346-395)によってアリウス論争を終結するために、 381年アンティオキアで公会議を開くことになりました。この会議で、父である神様と子であるイエス・キリストは同一本質(Homoousios、ホモウシオス)であるというニケア宗教会議の決定を再確認し、聖霊についても、その本質は神様であり、聖霊の個性を認め、聖霊は父と子とともに、礼拝を受けるというニケア・コンスタンティノポリス信条が確立されました。

アタナシウスの父と御子が同一の神様であるという同一本質論はキリスト教の救いの教理を確立させ、神様を礼拝する原則を提示し、キリスト教の土台を立てたと評価されています。しかし、このホモウシオスという単語の中には、キリストが父から派生(generation)されたというオリゲネスのギリシャ哲学的な概念があったため、すべての人から歓迎されたのではありませんでした。

とにかくこのような過程を通して「イエス・キリストは神様である」という真理に到達した頃、もう一つの問題が発生することになりました。それは「キリストが神様なら彼の本性は人間なのか神なのか」という問題です。その方が神様なら本性は神様でなければならず、人間なら本性は人間でなければならないのではないか、「人として来られたイエスは一体何者か」という質問が自然に生じました。 


最後の民の召命と使命 第4回

2018年01月28日 | 日記

私の経験では、真理を悟ることができないようにする最も大きな壁は、偏見と誤解です。従って、謙遜な心で救いの計画を調べられることを願います。

本書を通して真理に対する単なる知的な同意、または教理や神学の中の神様ではなく、人を救って下さる神様の力を実際に体験されることを願います。私たちと共におられる神様のお助けによってキリストの十字架を正しく見るようになり、聖霊の導きによって福音の真実を体験されることを、お祈りいたします。

私たちがイエス様に似たものとさせられるのは、"受肉されたキリスト"の愛を眺めてそこに深い感銘を受けることによるのです。

 イエス・キリストの再臨が近づきました。再び来られるイエス様を迎えるために、私たちを目覚めさせ準備させるこの永遠の福音を、サタンは極端や妄信、無関心というカバーで隠してきました。しかし、神様も働かれて、生きて働くこの永遠の福音を通して、召命と使命を持ったキリストの証人たちが準備されています。

闇の勢力が、現代のキリスト教会をいくら深い霊的眠りに陥れようと活動しても、私たちの主はご自分の民を持っておられます。光が神様の偉大な王座からこの地の隅々にまで、暗い私たちの心の奥底まで強力に照らされます。神様の子供になる力を受けるために、各人にこの光が照らされています。人の子として生まれた私たちが、神様の子として生きることができるようになるために、この光が臨んでいます。

 皆さんはキリストの品性が私たちを通して表される秘密を、栄光の望みとして持っておられますか?私が誰なのか召命が不確かなために、命をかけなければならない使命もなく生きておられるのではありませんか? この最後の時代に私たちは自分の使命を悟り、その使命が私たちの生き方になるようにしましょう。

み言葉を慕い真理を大切にする私たちが、人生の中で罪から救ってくださる神様の力を味わい、触って見るようになることを 切に願います。

罪を赦してくださる神様の愛と、罪に勝利させて下さるキリストの恵みと真理である聖霊の御力が、永遠に皆様と共にありますようにお祈りします。

 


最後の民の召命と使命 第3回

2018年01月27日 | 日記

使命を持って遣わされた人たちを新約聖書では"アポストロス・使徒"といいます。"送られた者”という意味です。皆さんは送られた者ですか。

"神様は私を召されたのでしょうか?" 神様の召命を確信して立ち上がる時、伝えなければならない使命を悟り、そのことのために命を捧げます。使命感がなければ神様のために生きるのではなく、自分のために生きます。召命を受け入れる時、使命を持つようになります。召命なしに使命だけがあれば狂信になります。呼んでくださる主体がないのに、自分の熱心だけだと魂を負傷させます。それは響きのない音であるだけです。使命は、召命から来ます。

イエス様を信じているという多くの人たちが、その生涯にこれほど力がなく、軟弱で、罪に敗北しながら暮らす理由は、召命と使命がないからです。どうして召しを受けたのか、何のために送られたのかを悟っていないのです。

 この小冊子は"キリストの受肉"に関する研究です。この研究が終わったら、皆さんは、召命と使命をプレゼントとして受けることになります。神様がなぜ私を呼び出されたのか、私に何の仕事を任せられたのか明確に分かるようになります。

 

"キリストの受肉"、この高貴な真理は、堕落した人間が無限の神の子のみすがたに一致するようにするテーマです。人間に与えられた"キリストの義"のゆえに、人がその方と同じように創り変えられる可能性があることを教えてくれる永遠の福音です。

それは神様が定められた日の直前に起きる、世界的な善と悪の大戦争に備える勇士たちを呼び集める厳粛な福音です。そのためサタンはこの福音を何の効力もないようにするために力を尽くしています。しかし、憐れみ深い神様は、心貧しく神様に叫び求める魂をそのままにしておかれません。主は約束の助け主を遣わしてくださいます。それは真理の御霊です。御霊は真理を明らかにしそれを保ってくださいます。