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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

 聖所 第9回  デイビット・カン講演

2016年02月29日 | 日記

現代のアブラハム

 アブラハムが、モリヤの山を目指して出発する朝、妻サラを起こさなかったことには、アブラハムの複雑な思いがあったことでしょう。イサクはモリヤの山に登る途中で、父に「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」(創世記22:7)と尋ねました。その時の、アブラハムの心境を、世の父親たちは、想像出来るでしょうか?「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」(創世記22:8)というアブラハムの答えの中に、私たちは信仰とは何であるかを知ることができます。信仰というのは「どうして?なぜ?」と尋ねません。信仰というのは神様のみ言葉に、全心霊で応答し、心と思いと、命さえもかけて、「はい」と答えることです。

アブラハムは、ついにモリヤ山の頂上へ着き、息子イサクの手を取って、神様がお前を燔祭として捧げるように命じられたのだ、と告げます。その時イサクは、全く素直に、父の言葉に従います。イサクは、常に従順に神様に従う父親の姿を見ていたので、父を通して、神様がどのような方であるかを知っていたのでした。イサクは、震える父を手伝って自分を縛り、祭壇の上に横たわりました。このイサクの従順は、自ら進んで十字架に架かられた、イエス様を象徴するものでした。

ところで、神様は、現代において、これほどの犠牲を要求されるようなことはないと考える人がいるかもしれません。しかし、読者の皆さん、ローマ人への手紙12章1節を読んでみましょう。

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」

と言われています!私たちの礼拝は、まさに、私たちのすべてを、供え物として捧げる行為なのです。

アブラハムは、イサクを殺すふりをしたのではありませんでした。彼は刃物を取り、息子の若々しい肉体に、それを振り下ろそうとしたのです。その瞬間、主の使いの声を聞きました。「アブラハムよ、アブラハムよ・・・わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとりの子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記22:12)

「イサク!」「お父さん!」。涙で抱き合う父と息子の耳に、羊の泣き声が聞こえてきたのです。彼らが目を上げて見ると、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいました。二人は、その雄羊を捕え、喜びのうちに燔祭のいけにえとして捧げました。

後に、この場所が、エルサレムの神殿の祭壇の位置になったと、聖書は書いています。「ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた」(歴代志下3:1)。

アブラハムの経験は、信仰とは、従順であり、自己犠牲であることを表しています。


  聖所 第8回 デイビット・カン講演より

2016年02月28日 | 日記

燔祭とアブラハムの経験

 燔祭についての説明を終える前に、私たちは、モリヤ山で、自分の息子を燔祭として捧げるように言われた、アブラハムの経験に目を向けてみましょう。

「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、『アブラハムよ』。彼は言った、『ここにおります』。神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」(創世記22:1、2)。

 これは本当に衝撃的な言葉です。ほんとうに神様がこのようなことを言われたのでしょうか。「彼を燔祭としてささげなさい」。神様はアブラハムに、彼のひとり子イサクをほんとうに燔祭として捧げなさいと命じられたのでしょうか?モーセはもしかして、神様の言葉を聞き違えたのではないでしょうか?

これまで学んできたように、燔祭というのは、そのいけにえの腹を切り裂き、あらゆる内臓を取り出して水で洗い、頭と足を切り分け、祭壇の上に置いて焼くことです。それである人は、こう言うかもしれません。「たぶんアブラハムは、燔祭の捧げ方の明確な手順をその頃は、よく知っていなかったのだ」と・・・。

しかし、創世記15章で、アブラハムは神様の命令として、雄牛、山羊、鳩など、つまり、燔祭の時使う動物を持ってきて、二つに裂き、裂いたものを互いに向かい合わせて並べました。そのとき神様は、ご自身の栄光の炎で、裂いたものの間を通り過ぎ、その燔祭のいけにえを直接焼いてくださることで、アブラハムの献身を受け入れ、彼と契約を結ばれました。このことから、アブラハムはすでに、燔祭の方法や意味を知っていたことが分かります。神様の命令を聞いたとき、アブラハムはどんなに驚き、苦痛を感じたことでしょうか!

しかしアブラハムは、神様を心から愛していました。神様との長く親しい交わりを通して、彼は自分の不信仰と失敗を悔い改めていました。今は、神様を全く信頼していて、主の命令がどれほど不可解で、厳しいように思えても、神様に完全に従う用意が出来ていました。

神様は、イサクから、一つの大いなる国民を起こすと約束しておられましたが(創世記15:4、5)、そのイサクをいけにえとして捧げなさいというのは、全く理解できない命令であったことでしょう。20年間も愛情を注ぎ、心を込めて育ててきた最愛の息子を、殺すだけでも胸が張り裂けそうなのに、腹を切り裂き、火で燃やすなどという、この世にこれほど残酷なことがあるでしょうか?「殺してはならない」と律法で命じておられた方が、息子を殺しなさいと言われるとは!

しかし彼は、神様を信頼していました。神様には、何かはっきりした計画と目的があることを、彼は信じました。彼は神様を信頼し、かつて、不可能と思える中で、息子を与えて下さった神様は、必要なら、また自分の息子を復活させて下さるに間違いないという、真心からの信仰を持ちました。

私たちはよく、アブラハムを「信仰の父」と呼びますが、果たして私たちは、アブラハムの信仰を引き継いでいる者でしょうか。もし私たちが、アブラハムのような信仰、すなわち、ヤコブの手紙が語っているような(ヤコブ2:21)、「行為によって証明される信仰」、神様の命令であるなら、何ものも惜しまず捧げ尽くし、神様に従う信仰、愛によって働く信仰を持っているなら、私たちは、間違いなくアブラハムの子孫であり、彼を「信仰の父」と呼ぶことが出来るのです。そのような人は、もろもろの罪に勝利して余りある、真の信仰者と言うことが出来ます。このアブラハムの信仰に立つ人こそ、イエス・キリストに属する人であり、神様のイスラエル、すなわち、真の神様の教会であると呼ばれるのです。


聖所 第7回 デイビット・カン講演

2016年02月27日 | 日記

愚かなおとめたち

 もう一つ、私たちが、明白にしておかなければならないことがあります。それは、多くの人々が、新神学の影響で、福音に対する理解、つまり、「信仰による義」についての理解が間違っていることです。私たちが、いくら真剣に信じていたとしても、それが真理と一致していなければ、私たちを救うことはできません。多くの人が、真剣に偽りを信じていながら、自分は救いの道に確実に立っているかのように、勘違いしています。それは、実に恐ろしいことです。聖書に出ている、一つのたとえ話で、私たちはそのことを知ることができます。 

『キリストの実物教訓』からの引用です。

「思慮の浅い女たちによって代表されている種類の人々は、偽善者ではない。彼らは、真理に関心をもち、真理を擁護し、真理を信じる人々に引き付けられてはいるが、聖霊の働きに自分自身をゆだねていないのである。彼らは、岩なるキリスト・イエスの上に落ちて、彼らの古い性質がくだかれていない。この種の人々はまた、石地の聴衆とも言われている。彼らは喜んでみ言葉を受けいれるが、その原則をかみしめて自分のものとはしないのである。その感化が永続しない。聖霊は、人が心の中に新しい性質の植えつけられるのを望んで、同意するのに応じて、人の心にお働きになるのである。ところが、思慮の浅い女によって代表されている人々は、表面的の働きに満足している。彼らは、神を知らない。

彼らは、神の品性を学んでいない。神と交わっていない。であるから、彼らはいかに神に信頼し、ながめ、生きるべきかを知らないのである」。(387p)

マタイ25章1節から13節で、イエス様は、十人のおとめのたとえを語られました。このたとえに出てくる愚かな(思慮の浅い)おとめと言われる五人は、偽善者ではありませんでした。彼女たちは、真理に関心を持ち、真理を擁護し、真理を信じる者たちにひきつけられていて、花婿がおいでになることを待ち望んでいる、賢い(思慮深い)おとめたちと合流した者たちでした。しかし、彼女たちは、聖霊の導きに従っていませんでした。彼女たちは、岩なるイエス様に落ちて、古い性質が砕かれていませんでした。「すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」(ルカ20:18)という経験を持っていなかったのです。

 また、思慮の浅いおとめに代表される人々は、石地へ落ちた種として描写された人々も表しています(マタイ13:1~9)。それらの人々は、真理のみ言葉をすぐに受け入れましたが、そのみ言葉の原則に従って、それを生活に生かそうとしませんでした。真心からの屈服と悔い改めの経験が不十分であったため、み言葉の感化力は長続きしませんでした。聖霊は、人が心の中に新しい性質が植え付けられるのを望んで、同意するのに応じて、心を新しくして下さるのです。ところが、思慮の浅いおとめたちや、石地の聴衆は、表面的な信仰で満足していて、本当の意味で神様と出会うことがなく、神様の品性を知らなかったのです。そのために、完全に神様にゆだねることもなく、どのように日々神様と交わり、神様と共に生きるかを知らなかったのです。そして彼らは、神様の品性を反映していなかったために、「あなたがたを知らない」(マタイ25:12)と言われてしまうのです。


聖所 第6回 デイビット・カン講演より

2016年02月26日 | 日記

   義認と聖化の始まり

私たちは、ここで一つ確実に理解しておくべきことがあります。私たちが、罪を告白して悔い改め、自分自身の全生涯を神様にゆだねる時、心は再創造され、実際に義なる者となったので、神様はその人を、義と認めて下さるということです。しかし、誤った新神学の教えでは、私たちは、真理に同意したり、イエス様を救い主と信じれば、義と認められる、つまり、私たちの罪が覆い隠されると言います。その後聖化の長い過程を通して、罪が一つずつ解決されていくと言うのです。神様によって赦されて、救いを受け取り、それから少しずつ成長しながら良くなっていくという考えは、聖書の義認の教えではありません。神様は、心に不義や罪を持っている人を、義と認めることはお出来になりません。新神学では、そのありえないことが起こると言います。

人は、真実に悔い改め、全的に献身する時、罪の力から解放され、罪を犯すことが出来ないようにされます(1ヨハネ3:9)。そのように、心が全く新しくされる恵みを義認と呼び、その歩みを、聖霊の助けによって、日々続けていくことを聖化と呼ぶのです。そしてこの聖化の歩みでは、イエス様を模範として目の前に置くので、悔い改めはますます深くなり、そのぶん、愛はますます増し加えられていくのです。このような歩みを続ける人は、豊かな聖霊の実、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22、23)を結ぶようになります。

もちろん、思わぬ失敗や、弱さのために倒れることもあるでしょう。そのような時には、神様の赦しと助けが用意されています。わたしのたちよ。これらのことをきおくるのは、あなたがたがさないようになるためである。もし、があれば、のみもとには、わたしたちのために、すなわち、なるイエスキリストがおられる」(1ヨハネ2:1)


  聖所 第5回 デイビット・カン講演

2016年02月25日 | 日記

 全的献身の象徴

次の段階は、その動物の皮をはぐことですが、それは、これまで自分の欲望と名誉のために生きてきた、高慢の皮をはがして、神様の義の衣を着て、神様のために再び生きる誓約をすることを意味します。この燔祭の儀式は、悔い改めを通して、真に生まれ変わる経験を表しています。

次に、いけにえの腹を上から下に切り裂き、その中にある内臓を全て取り出し、きれいな水で洗います。それは、私たちの全身全霊を、神様に捧げることを意味しています。「神様!今まで私は自分を喜ばせるために、タバコの煙を入れてきました。これからはこの肺を、神様が喜んで下さることのために用いていきます。神様!私はこれまで、胃腸の中に、自分の好きな物を好きなだけ入れて生きてきました。主よ、私は悔い改めます。これからは、飲むにも食べるにも、また何事をするにもすべて神様の栄光のために生きます」。

そのように、内臓の一つひとつを洗いながら、罪人は、自分の全身が、洗い清められなければならないことを感じます。また、水は聖書では、聖霊と神様のみ言葉を象徴しています。それゆえ、私たちは、水と聖霊によって新しく生まれ変わるように教えられているのです。新しく生まれるとは、神様の真理のみ言葉と、聖霊の造り変える力を通して、罪が洗い清められ、自由にされ、そして新たな心を授かることです。

いけにえの頭と、二本の足は切り離されました。頭を切り離すということは、私たちの思考や、感情、心の動機まで、全てを神様に捧げること、これからは自分の考えではなく、神様に頼って、み言葉によって生きることを意味していました。

二本の足は、私たちの生活や行動を象徴しています。足の向くまま、自分の行きたい所へ行き、やりたいように行動してきた私たちの生活習慣を捨て、聖書と聖霊によって清められ、真理に従って生きるようになることを表していました。

 

その後、全ての部分を祭壇の上に並べて焼き、燔祭としなければなりませんでした。その焼かれる香りは、神様に「ささげる香ばしいかおり」(レビ記1:9)と言われていますが、その理由は、罪人が完全に屈服し、罪を捨てて神様に全的献身したことを象徴していたからです。神様は動物の脂肪が焼かれる香りを好まれるのではなく、罪人が罪を放棄して御前に進み出ていくことほど、神様が喜ばれることはないからです。