SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いの全行程を示す聖なる幕屋  第14回

2016年06月30日 | 日記

罪祭に現されたキリストの愛

 イエス様が十字架で私たちの罪を代わりに背負われたということが果たして何を意味するのでしょうか?ペテロの手紙第一2章24節は、私たちにそのヒントを提供しています。 「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた...」。どのように、主が私たちの罪をご自分の体に感じることができたのでしょうか?その身体に私たちの罪を代わりに負われるということが果たして何を意味するのでしょうか?

 このように考えてみましょう。私たちが罪を犯したときに、私たちの体にどのような反応が表れるでしょうか?たとえば、私たちがある兄弟に大きな嘘をついたとします。道を歩いているとその兄弟が向こうの方からやって来きます。その時に、私たちの体にどのような反応が起こるでしょうか?突然不安と焦りが襲って心臓が早く鼓動し、冷や汗が流れながら、恐怖が心の中に押し寄せて来ませんか!さらには、神の審判の恐怖が胸を埋めてくるのです。十字架の上でイエス·キリストがまさにそのような方法で罪を指示は経験を経たのです。私たちの罪がまるであなたが造られた罪のように、主に襲われてきました。一度も罪を犯してみない方が罪悪感を私たちに代わって経験痩せたものです。

 私たちが罪を犯したときに感じる体の反応が突然イエス様に出てきたものです。人類の無数の罪が一度イエスの魂の中に押し寄せてきたので、彼の心はその時まで全く感じ見られなかった罪悪感を感じるようになったのです。十字架上でのその苦悩は言葉では表せない程のものでした。文字通り、私たちの罪を代わりにご自身の体に負われたのでした。従って第二コリント5章21節には「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。と言われたのです。

 詩篇22章全体と、40章では、イエス様が十字架に掛けられたときに遭われた心的苦痛がどのようであったかあらかじめ預言した章です。詩篇40章12節には、次のような言葉が記されています。「数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました」。キリストが十字架上であわれる深い苦悩を預言しながら、「それ(不義)はわたしの頭の毛よりも多く」と表現していることに注目する必要があります。イエス様は、罪が全くない神様でした。一体何の罪が追い迫って物見ることができず、また髪の毛よりも多く感じられたのでしょうか?そうです!!それは明らかにの代わりに背負ってくださった私たちの罪を指しています。 「私の心は消え失せるばかり」という英語の聖書の表現は、「Therefore my heart failed me」です。つまり、「私の心が止まった」という意味です。


救いの全行程を示す聖なる幕屋  第13回

2016年06月29日 | 日記

聖所制度における犠牲の血がどのように処理されるかを詳細に調べる必要がありますが、その理由は、その血の中に象徴的に転嫁された罪が含まれているからです。油そそがれた祭司が罪を犯した場合や、イスラエルの民全体が罪を犯した場合は、血が幕の中に運ばれて注がれますが、一般市民である個人が罪を犯した場合には、犠牲の血は聖所の中に入らず、外庭の祭壇の周囲に注がれました。そして罪は他の方法で運ばれ、とりなしの祈りをささげるようになっていました。なぜでしょうか?そこには確かな感動的な贖罪の物語が内包されています。

 罪祭を持って聖所の庭に入ってきて、いけにえをささげた人は、祭司がその供え物の血を持っている聖所の中に入ります。そしてたれ幕の前に降り注ぎ、代わりにとりなしの祈りをしてくれることを期待します。ところがむしろ祭司は、その罪祭の血を聖所の庭にある祭壇の角に塗って、その周りに血をかけた後、残りを地面に注ぎ込んでしまうのを見て驚きます。それで罪祭を持って来た人はこう言うでしょう。 「いや、祭司様!どういうことなのでしょうか?その血をそのまま聖所の外庭に注いでしまうなんて!聖所の中に入って幕の前にかけた後、私のために祈っていただく必要があり、それによって私の罪が赦(ゆる)されるのではないでしょうか??私は今、どのようになるのですか?"驚いた罪人に祭司は慈愛に満ちた笑顔を浮かべてこう言うのです。「兄弟よ!贖いの制度は、神様がご自身の民に特別に教育するため、大いなる希望について重要な教訓を込めて制定されました。この罪祭には、やがて来られるメシアを通して、神様がどのように私たちの罪を代わりに背負われ、私たちが許されるようになるかについて教えるための貴重な実物教訓が込められています。あなたが罪を告白した時に、あなたの罪がどこに行ったのでしょうか?"

 「はい!私の罪が燔祭の羊に転嫁されましたね!」「確かに、その通りです!ではこれからすることをよく見ていて下さい!」そう言って大祭司は、その罪祭の動物の肉を少しナイフで切り取り、口に入れて噛んで飲み込んでしまったです!そして、このように質問したのです。「兄弟よ!今、あなたの罪がどこに行ったのでしょうか?」その時何が起こっているのかに気付いた罪人は震えながらこう答えたのです。 「はい!大祭司様!私の罪がすぐにあなたの体に転嫁されたのですね!象徴的な意味で、私の犯した罪が、まさにあなたの罪になってしまったのですね!"その時、大祭司はこのように言うのです。 「今私はあなたの罪ではなく、自分自身のものとなったこの罪を持って聖所に入ります。神様の臨在の前に、私は、あなたの罪としてではなく、私の罪として許しを請うために祈るでしょう」。罪人は、涙を浮かべながら聖所の中に入って行く大祭司の後ろ姿を見送るのです。聖所制度は、私たちの罪の身代わりとなって死なれたイエス·キリストの十字架の犠牲を教えてくれる、驚くべき力ある実物教訓なのです! (レビ記6:25-30参照)

 


救いの全行程を示す聖なる幕屋  第12回

2016年06月28日 | 日記

罪祭では、犠牲の動物全体を祭壇で燃やすのではなく、その脂肪を取り除きましたが、その理由は、脂肪が罪を象徴するものだったからです。聖書には、「しかし、悪しき者は滅び、主の敵は牧場の栄えの枯れるように消え、煙のように消えうせる」と言われています(時37:20)。その残りの死体は、イスラエルの陣営の外で指定された場所に運びだされ火で焼き捨てられました。それは罪と分離されていない罪人は、最終的に新しいエルサレムの門の外で、硫黄の火によって滅びを受けることになることを象徴したものでした(黙示録20章を参照)。

 罪祭において、油そそがれた祭司が罪を犯した場合とイスラエルの民全体が罪を犯した場合には、その両方を、同一の罪として扱われ、このような場合には、犠牲の血を聖所の中に持って行って、至聖所の前にある垂れ幕の前の床に七回も注がれました。その血によって罪人が告白した罪が象徴的に聖所に移されるが、祭司がその罪のために神の前にとりなしの祈りを上げなければ罪を許し受けられることを表象するものでした。レビ記は、このように記録しています。 「そして、油注がれた祭司は、その子牛の血を会見の幕屋に携え入り、祭司は指をその血に浸し、垂幕の前で主の前に七たび注がなければならない。またその血を取って、会見の幕屋の中の主の前にある祭壇の角に、それを塗らなければならない。その血の残りはことごとく会見の幕屋の入口にある燔祭の祭壇のもとに注がなければならない。またそのすべての脂肪を取って祭壇の上で焼かなければならない。すなわち祭司は罪祭の雄牛にしたように、この雄牛にも、しなければならない。こうして、祭司が彼らのためにあがないをするならば、彼らはゆるされるであろう」(レビ記4:16~20)。

 聖書は、大祭司が聖所で罪の贖罪、つまりとりなしの祈りを通して、罪が赦(ゆる)されると言っています。それは象徴的に聖所の中にまかれた血は、罪人の罪が聖所の中に移されたことを意味していました。したがって、それは最終的に罪人が告白した罪が天の聖所にある罪の記録の本から移され、天聖所におられる大祭司であるイエス·キリストが父なる神様の前に罪人のために執り成して下さり罪を赦してくださることの一連の過程を表象しています。したがって、人間の罪を許す過程が十字架の死で終わったのだと考えてはいけません。主が十字架で亡くなられたゆえに、人類の罪のための許しを備えられました。そしてまた、贖いを開始されたのです。聖所の祭壇に表象された十字架の上で、ご自身の死によって許しを与える権限を備えられた後に、ご自身の血を携えて天の聖所に入り、私たちのための大祭司となられ、私たちの罪のためにとりなしておらるご自身の血による恵みと力を提供して下さっているのです。


救いの全行程を示す聖なる幕屋  第11回

2016年06月27日 | 日記

罪祭に見る聖所の外庭の経験

 罪祭は罪人が自分の罪を赦し受け取るためにささげるいけにえとして、最も重要ないけにえといっても過言ではないでしょう。罪祭は、罪のないイエス様の血によって、私達の罪の身代わりとして贖罪されることを実物教訓から明らかに罪人に実感させるいけにえです。救済とは英語で"Redemption"ですが、その単語は"代価を払って、買い取る"あるいは、"代価を払って、返してもらう」という意味があるようです。血はその生涯に沿って価値が生じるものです。罪を犯した私たちの血では罪に打ち勝つ力がありません。しかし、罪を一度も犯したことのないイエス·キリストの血は血潮となって、私たちのすべての罪を洗い清める泉となるのです。律法を制定した創造主の罪のない血が、私たちの罪の代わりに流され私たちが再び新しい生命の中で生きるようになるのです。

 なぜ神は聖所の外庭で動物を殺して血を流すいけにえをささげることによって罪を許されるように計画されたでしょうか?血を流す場面を見るのが気に入っていたからでしょうか。?そんなわけがありません。神様が血を流すいけにえの法則を与えてくださった理由は、神様の許しがどんな代価を払うことによって、可能になるかについて人間の心に深く印象づけるためでした。そうです!悔い改めた罪人を神様はいつも寛大に赦しをお与えになります。しかし、その許しを与えるためにカルバリの十字架の代価を払う必要がありました。神様は動物が血を流す場面を直接目撃するように聖所制度を考案されました。罪人が救い主の愛と犠牲について切実な感謝の気持ちを抱き、それに結果よって、人間が罪を憎み、義を愛するようにするために犠牲制度を下さったのです。

 しかし、残念ながら、ユダヤ人たちは、聖所を、動物を捕まえて処理する場のようにしてしまいました。犠牲制度をまるで罪が許される免許証のように使用するようになってしまいました。神様は彼らの罪をやめさせることを願い犠牲制度を下さったのに、彼らは罪を犯しても羊一匹で済むかのように、何度も羊を聖所に連れて来ては罪を犯し続けました。今日のクリスチャンが十字架の赦しを、まるで罪を犯し続けることへの保険証のように考え、罪を犯すことを恐れていないかのように…。


救いの全行程を示す聖なる幕屋  第10回

2016年06月26日 | 日記

聖所における儀式の一つ一つは、イエス·キリストの生涯と働きを意味すると同時に、神様を信じる者たちの救いの経験と段階がどうあるべきかを説明してくれるのです。燔祭は悔い改めと新生の経験を実物教訓に示された犠牲制度です。罪を告白した罪人は、それで終わることはありません。燔祭は神様の指示どおりに犠牲の動物の皮を剥がすことになります。なぜそのように指示されたのでしょうか?それは悔い改めた人間が自分自身の聖や義に対して無価値であることを悟って、自己義認の服を脱いで、イエス·キリストの義の服を着るという願いを象徴するものです。自分の醜さとどうしようもなさを骨身にしみる感じを合わせた表現です。そして、腹、その中にあるすべての内臓を取り出し出すのです。そして、それらを水できれいに洗うことでした。それはまた、何を意味するものだったでしょうか?

 罪を告白しましたが、心の中にまだ隠れている罪を探るために、自分の心を大きく開いて「神様!私の中に隠れた他の罪がないかどうか調べて下さい。私は神様に全ての心を捧げたいと思います。私の考えと思想が主に受け入れられることを願っています」と祈ることを象徴するものです。そして、中の内蔵と腸までもすべて水できれいに洗うのです。聖書でいう水は、聖霊と神様の御言葉を象徴します。ですから、悔い改めた罪人は、罪を告白して終わるのではなく、罪を一つ一つ告白した後、放棄して、捨て去り。出してしまっても、神の御言葉の中にある真理の御言葉に従って、誤った部分を是正し、改革することが必ず伴わなければならないのです。

 形式的な悔い改めと簡単に過ぎ去る表面的な悔い改めではなく、実際に自分の心を内省し、罪を放棄し、間違った生活を真理に沿って変革する徹底した悔い改めを教える時にいけにえが燔祭として捧げられました。このような神の救いの青写真に照らして見る時、今日多くのクリスチャンの悔い改めがどれほど表面的でしょうか!もっとはっきり言えば、どれほどのように安っぽいでしょうか!今日のキリスト教会の真の問題は、ほとんどの教会の信者に真の新生の経験がないことにあります。私たちは、神に受け入れられる悔い改めをささべるべきです。