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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 91

2014年01月31日 | 日記

 

 福音の力を体験せよ 91

父に追いついた私は、彼をしっかりつかんだ状態で、「神様、私は今、父に何を言うべきでしょうか?」と祈りました。互いに気持ちが落ち着いたとき、イエス様が私の心に言うべき言葉を下さいました。

「お父さん、私たち兄弟が実家に帰ってくるたびに、お父さんの神経がいらだつのは、罪悪感を覚えることなく私たちの顔を見ることができないからです。子供の頃、お父さんが私たちにどれほどひどい仕打ちをしたかを、だれかが口にするのではないかと、お父さんは恐れているのです」。

私は続けて、「お父さんは自分の子供に対して、あまりにも間違った接し方をしていました。もし間違わなかったとすれば、この私に対してだけです」と言いました。父はしばらく考えてから、「マーガレット、私はお前に対しても、多くの間違いをしてしまった」と言いました。

私は心の中で、天の父なる神様を賛美しました。父の生涯で、初めて自分の罪を認めた瞬間でした。さて、自分の非と自分の罪を認めることができたときに、神様はさらなる次の段階へと導いてくださいました。

私の父が他人を恨んでばかりいる間は、神様は罪を悲しむ心を注ぐことがおできになりませんでした。

    主の幕屋の中へ 25

 一方、信仰中毒に犯された人は、熱心に祈れば祈るほど、自分の義を誇るようになり、 聖書を熱心に読めば、人を批判する目だけが肥えて、高ぶっていきます。そして、相手が自分の標準に達していないと、それを言ってあげないと、気が済まないようになります。教会での奉仕においても、自分が中心になって取り仕切っていないと、気が済みません。毎日、決まった時間に聖書を読んだり、お祈りしたりしているのに、見るからに近寄りがたい怖い雰囲気を持った人。自分だけが忙しく働いているのに、他の人と和合しない人。教会の中の姿と、外での姿が全然違う人。自分の熱心が、本当に人のため、教会のためになっているのか、それともただ邪魔をしているのか、全然気付きもしない人。 教会の中で、いい役割を争う厚かましい人々が、まだたくさんいます。

イエス様は、自尊人を傷つけられた時、一度も腹を立てられませんでした。他の人が言った一言で、どうしてあれほどまでに傷つくのか、腹を立てるのか、これらすべてのことは、自分が真に死ぬ経験をしていないためです。完全な燔祭のいけにえとして、捧げられなかったためです。


福音の力を体験せよ 90

2014年01月30日 | 日記

  

   福音の力を体験せよ 90

インドから帰国して、実家の両親を訪ねたことがありました。私の兄弟たちも、そこに集まってくれました。久しぶりに家族が勢ぞろいしたところで、いつしか兄弟たちと信仰による義についての研究会が始まりました。

父はそのとき、自分は何かが間違っていることに気付き始めました。その夜、兄弟たちの間で、「さあ!もし家族の間に何か気まずいことや、つまずきになることや過ちがあったら、お互いに洗いざらい告白し合おう」ということになり、皆で輪になってすわりました。み言葉を研究していた間に、心の中にある罪を全部捨てたいとの思いが生じたのでした。そして私たちは、さらに深い悔い改めに入っていきました。皆で輪になって祈りながら、罪を告白しました。

その時、妹の一人が父を見ながら言いました。妹は今、父との間にある大きな問題を解決しようとしていたのです。父は、娘たちに対して、とても間違った接し方をしてきました。もちろん、息子たちに対しても同様でした。

妹は、なんらかの許しを求めていました。ところが、父も自分の責任と罪を認めなければいけないのに、素直になることができませんでした。父は、むっくと立ち上がって、外に飛び出したのです。私は、直ちにあとを追いかけました。

私は幼い時から、父が家を飛び出したら、あとを追いかけて彼を捕まえることがしばしばありました。家族のだれかが父に向かって、「これはお父さんの責任ですよ」と言おうものなら、父は、それを我慢することができませんでした。ある時は、「自殺してやる!」と脅かすこともありました。父は、自分が恨まれることに耐えきれない人でした。自分が間違っていることを、決して認めませんでした。

   主の幕屋の中へ 24

   信仰と信仰中毒との違い

 

カール・マルクスは、宗教は阿片だと非難しました。宗教も誤ると中毒になることがあるのです。今私たちは、宗教中毒を抜けているでしょうか?真の信仰を持っていることと、中毒は確かに違います。しかし、私たちは正しい信仰生活を送ることと、中毒との見分けが、できない時がしばしばあります。

  イエス様を信じるということは、全人格的な成熟を意味します。真実の信仰生活を送る人であるならば、人格的な変化がもたらされるはずです。私の中で神様の形が回復することが信仰です。失われた神様の形を、回復する作業が信仰です。そこで、中毒ではない信仰生活をするとすれば、まず、人格の変化が起きなければなりません。イエス様に似ていなければなりません。それこそが本当の信仰です。

 


福音の力を体験せよ 89

2014年01月29日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 89

私の父は、ただの一度も自分の非を認めたことがありませんでした。父はしばしば子供である私たちを怒りましたが、そのたびに、責任を子供たちに負わせました。母と口喧嘩をしても、母に責任を転嫁しました。隣の人ともめたときには、いつも隣人のせいにしていました。父は絶対に、自分の非を認めませんでした。よく聖書の言葉を用いてガミガミ言っていた父のおかげで、私は聖書の言葉をたくさん覚えるようになりました。

“この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。”(マタイ18:7) 

父はこの聖句を語りながら、自分がまちがっているときでさえ、常に相手の責任にしました。私の父は、たとえそれが小さな過ちであっても、他の人の過失によって傷つき、根に持つ人でした。一方、自分に非がある場合は、言い訳ばかりし、できれば相手に責任を押し付けようとしました。

    主の幕屋の中へ 23

しかし、新約聖書時代の多くの人々も、相変らずこの真理を知ろうとしませんでした。心が新たにされることを願いませんでした。聖所の本当の目的が、彼らの中に成就して、神様が、彼らのうちの住まれるようになることを願いませんでした。そして、この真実の道を教えて下さるために、親しく身近に来られた方を拒みました。それゆえ、また、破壊以外に彼らの救済方法はありませんでした。再び、彼らの都は異邦人が占領し、神の宮は燃え尽き、人々は、捕虜になって散らされて、結局「もろもろの国民のうちに、さすらい人と」(ホセア9:17)なったのでした。

  私たちの人生において、時には神様が介入されて、事業に失敗したり、子供たちが問題を起こしたり、人間関係や健康問題において問題が生じることが起きてきます。そのような問題を通して、私たちは、自分の不信仰を悟り、神様のもとへ帰って行きます。そして、そのような問題が、私を生かすための神様の特別な恵みの働きであることが分かります。ではその後、私たちは、自分の聖所を正しく回復したのでしょうか?私たちは、時間がたつと、いつの間にか、そのような問題があったことを忘れて、形式的になり、見せかけだけの信仰に陥ってしまっていることはないでしょうか。聖所の目的と意味を忘れて、義務的な信仰生活を繰り返してしまっていることはないでしょうか。そのようなことを繰り返しているとすれば、もはや、破壊以外には他の救いの方法が全然ない、そのような状態にいるのかもしれません。

 人は、ほんの少し愛の鞭を受ければ、我に返って真剣になりますが、しばらくすると、再び汚れにふけってしまうのです。そのようなことでは、もはや、皆さんを救う方法が他に全くありません。その時は、永遠に見捨てられる、辛い結果が待っているだけです。


福音の力を体験せよ 88

2014年01月28日 | 日記

     

    福音の力を体験せよ 88

仮に今、前にすわっている人と、口論になったとします。すると、とてもやりきれない気分になります。しかし、この人と友だち付き合いを続けていきたいと願っているために、私が、「すみませんでした。でも、あなたがあのようなことを言わなければ、私もあのように言うことはなかったはずです」と言ったら、どうでしょうか?

この場合、私は自分の罪の責任を感じていますか?いいえ。私はただ、自分の罪の言い訳をしているだけです。このようにしていては、神様から悔い改めの賜物を受けなくなることでしょう。このようなやり方は、ただの世的な悔い改めであって、ほとんどの人が、このような悔い改めだけで済ませています。それ故に、新しい心を受ける経験にまで導かれないのです。そのような悔い改めで済ませる人たちは、律法主義に流れていくしかありません。

   主の幕屋の中へ 22

「わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。  わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう」(レビ記26:11、12)

これが聖所の奉仕の結果です。この思想は新約時代も変わりありません。 

「あなたがたは知らないのか、自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(第一コリント6:19、20)

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(1コリント3:16、17)


 福音の力を体験せよ 87

2014年01月27日 | 日記

   

   福音の力を体験せよ 87

そのようなわけで、私は長い間、義を知らずに過ごしてきました。もちろん、善行と言われるものはたくさんしました。私は姦淫を犯さず、盗まず、人を殺しませんでした。しかし心の中で、神の愛が私を主導していたでしょうか?

皆さん、義とは、神の愛が心を主導することです。私は、そのことについての確信がありませんでした。

私は、夫や子供たちのせいで面倒に巻き込まれたときや腹を立てたときには、いつも彼らを恨み、言い訳ばかりしていました。しかし、み言葉を研究して、自分が主をどれほど多く失望させていたかを悟りました。主の義は、私のうちにありませんでした。私の服は、ただの汚れたぼろきれでした。私は、裁きの備えができていませんでした。

私たちは、聖霊の働きを通してのみ、自分が救いの道に立っているか、それとも滅亡の道に立っているかを知るようになります。聖霊が、正確に罪を悟らせてくれるのです。同じく、義と裁きについても悟りを与えてくれます。では、その段階で私たちがなすべき分は何でしょう?そのように悟ったとき、私たちは何をすべきでしょうか?聖書には次のように述べられています。「ただあなたは自分の罪を認め、あなたの神、主にそむいてすべての青木の下で異なる神々にあなたの愛を惜しまず与えたこと、わたしの声に聞き従わなかったことを言いあらわせと、主は言われる」(エレミヤ3:13)。

   主の幕屋の中へ 21 

     聖所が指し示す方

 やがて、聖所とその奉仕の中心であられるイエス様が、ご自分の地へ来られた時、イスラエルの民は、昔と同じで、少しも変わっていない状態でした。心の中では、キリストを迫害して殺そうと思うほどでしたが、人々からは、敬虔な人物に思われるように、異邦人であるピラトの宮廷の入り口を、越えないように気を付けていました。

 民に対してなされる神様の訴えは、昔も今も少しも変わりはありません。 各々の生涯において、聖所の本当の意味を見つけ出し、彼らを倒した致命的な傷から解放され、そのような罪を、二度と繰り返さないことを願われました。

聖所が示している大きな目的は、神様が聖所に臨在されるように、各々のうちに住まれることでした。聖所におられる神様が聖であられるように、人が聖なる者となり、真に生きておられる神様の住まいになって、神様がその人を通して、すべてのみ業を行いたいと思われたのでした。