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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

赦されることのない罪とは 第3回

2015年03月31日 | 日記

    

 許されることのない罪とは 第3回

  ≪聖書と聖霊を汚す罪≫

皆さん、説教とは何でしょうか、イエス様にある教理を伝えていくこと、イエス様の愛を証明することなんですね。あるとき、いろんな教派の牧師たちのセミナーを開きました。牧師たちの前でみ言葉を伝えようとしたんです。説教というのは本当に論理的でなければなりません。誰が聞いても、だれが読んでも、ああ、この御言葉は正しいものだと思えるような、論理的なものがなければなりません。聖書自体を伝えなければなりません。

人がどんなに良い言葉を並べても、聖書から離れたり、聖書を正しく証ししていなければ、それは説教ではないんですね。それで私は、今日、皆さんに訴えたいんです。御言葉は、赦されることのない、聖霊を汚す罪についてどのように教えているか、しかし、今日このことを学ぶときに、本当に聖霊の恵みが私たちに必要なんですね。聖霊様がこの御言葉を伝えるときどれほど喜ばれるか、この御言葉を伝えようとするとき、私の言葉ではなく、聖書の真理そのものが、聞いておられる方に確信と力を与え、もう二度とそういった罪を犯すことのない状態に導いていってほしいと願っています。そのために聖霊様に働いていただく必要があります。

聖霊様は深い罪から私たちを救って下さり、救いから落ちてしまうことがないように、恵みの中へ導いて下さるのですね。聖霊様が御言葉を通して、皆さんの心に深く、深く、感動を与え、導いて下さることを信じています。


赦されることのない罪とは 第2回

2015年03月26日 | 日記

   

許されることのない罪とは 第2回

その後は、どんなに教会へ行って礼拝して讃美していたとしても、食べて生きているかもしれませんけど、恵みの期間が終わり、赦しがなくなって、イエス様のとりなしを受けることが出来なくなっているのです。

皆さん、ヨハネの黙示録3章の7つの教会の中でラオデキヤの教会に対して、あなた方は熱くもなく冷たくもないので吐き出すと言われていますね。

ラオデキヤの教会は、本当は貧しいのに貧しくないと思っています。裸なのにきれいな着物を着ていると思い込んでいるのです。そのようなどうしようもない偽善の状態なので、神様はもう気持ちが悪くて吐き出したいと言っておられます。吐き出すとはどういう意味かというと、「もうあなたのために執り成すことが出来ない」ということなんです。この人々は、もう恵みとか恩恵を受けることが出来ない状態に陥っているということです。だからもう吐き出されるしかないのです。もう聖霊の恵みを受けることが出来ない、そういった恐ろしい状態を黙示禄3章14節からのラオデキヤ教会のメッセージは伝えています。これは本当に恐ろしい言葉です。

では、人はどのような状態になれば、聖霊を汚し、聖霊を拒否し、救いを得ることが出来ない、赦しを受けることが出来ないようになるのでしょうか。

罪をたくさん犯すので、たくさんの罪を犯したので、聖霊の声を聞くことが出来なくなり、聖霊を拒むことによって、救われることが出来ないようになるのでしょうか。それとも長い間罪を犯し続けてきたので、そうなるのでしょうか。それが聖霊を汚す罪になるのでしょうか。それとも最も恐ろしい大きな罪を犯したので、その罪が大きいので、あるところまでは赦すことが出来ても、その大きな罪は赦すことは出来なくなるというのでしょうか。許されない罪とは、罪の大きさでしょうか、罪の量でしょうか。罪の期間でしょうか。罪の大きさでしょうか。何が許されることのない罪なのでしょうか。

私がなぜこのようなことを説明するかと言いますと、この危険な罪に陥ることがないように助けたいからです。また、不必要な悩み、不必要な不安に縛られることがないように願うからです。そして聖霊の力と助けを受けて、本当の救いを体験し,聖霊の証印を受ける人たちに、なっていただきたいと願うからです。


赦されることのない罪とは 第1回

2015年03月24日 | 日記

  赦されることのない罪とは 第1回

  ≪聖霊を汚す罪とは?≫ 

「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」(マタイ12:31、32)。

 

私がよく受ける質問の一つが、「赦されることのない罪って、何でしょうか?」という質問です。恐ろしい質問ですね。これは実際に簡単に答えることが出来る質問ではありません。赦されることのない罪、イエス様を信じる人々の中で、ある人たちはその心に、もしかしたら、私は「聖霊を汚す罪」を犯していないだろうか?そういったことを考える方もいらっしゃるかもしれません。皆さんはどうでしょうか?皆さんは、信仰生活をしながら、自分は聖霊を汚していないだろうか、そのような思いを持つことはありませんか?

ある人はこのように言うんですね。「私には長い間、もう何年もの間、解決できない罪があるんです。どうやって解決しようとしても出来ません。そうやって長い間来たんです。もしかして私はもう赦されることのない罪を犯しているのではないでしょうか?」。そのような質問をする方に会ったことがあるんですね。多くの人がこのような罪悪感を持っていて、解決されない罪の問題をもったまま教会生活をしているので、本当の意味での喜びや感謝をもっておられないのです。

ある人はこのように言われました。「牧師先生、私ちょっと変なんです」。「何が変なんですか?」。「私の心の中に感動がないんです。聖書を読んでも、お祈りしても、賛美しても感動がないんです!」ある人は、祈りたい心や、賛美したい心も起こらないと言いました。「聖霊様が私から離れて行ってしまったのでしょうか?私が聖霊を汚す罪、赦されることのない罪を、知らないうちに犯しているんじゃないでしょうか、長い間祈らないから、聖霊様が私の心に働かれないのでしょうか?」

また、「牧師先生、私の心が変なんです。昔は本当に聖霊のすごい感動があったのに、今はないんです」。そのような質問をする方が多くあるんですね。

いったい、聖霊を汚す罪とは何でしょうか。どうすることが聖霊を汚すことでしょうか。神様も赦すことが出来ないそういう罪とは何でしょうか。これは本当に深刻な問題ですね。私たちが本当に知るべき問題ですね。私たちは色々罪を犯したり、失敗したり、過ちを犯したりする者ですが、そういった罪は、心から悔い改めれば許されます。しかし、聖霊を汚すものは赦されないのです。聖霊を汚すならば、救われることは決してないんですね。その時、その人の運命は終わってしまうのです。


罪から逃れる道 第20回 (最終回)

2015年03月23日 | 日記

 

 罪から逃れる道 第20回 

終わりに一つの讃美歌を歌いたいと思います。これは韓国で多くの人たちが好きな賛美歌です。これはもともとイギリスの民謡ですね。スコットランドの民謡「アニ-ローリー」のメロディ-です。そのメロディ-に韓国語で歌詞をつけました。

皆さんは、ウイリアム・ワルローと言う牧師先生をご存知ですか?1920年代に韓国にやってきた宣教師です。1920年代から何十年と韓国で伝道していた方です。この人が宣教師として働いていた期間は、日本とアメリカが戦争をしていて、韓国ではキリスト教は本当に迫害されていました。そして、多くの韓国のクリスチャンが苦難を受けました。そういった苦難の中で、肉における苦難を受けた人たちの間で、希望を与える賛美歌としてよく歌われました。

 

天国の光、希望に満ちた天国の栄光、

それが私の目の前にあるゆえに、

私たちがどのような苦しみにあっても、苦難にあっても、

天の栄光に比べれば、

そのような苦しみや、すべての暗く重いものが

イエス様の栄光によって光となる。

私が存在しているこの世界も、私たちの内にある心配も、

外にあるいろいろな苦難も、

そういったものがあったとしても、

イエス様の血はその全てのものに勝利を与え

イエス様と共にあるなら、すべて成就することが出来る。

 

私は讃美を歌いながら、本当に自分が足りないものであると思います。しかし私たちの目の前には、栄光の御国、父の家があります。その御国を仰ぎ見ながら、聖霊の恵みによって、肉における苦しみを、喜んで受ける者となることを心から望んでいます。

  

  お祈りいたします。

慰め深い私たちの救い主なるイエス様、今私たちの世界は、本当に暗い闇が来ようとしているそのような時代です。このような暗い、本当に神様が見えないような暗闇の中にあって、真理の光を照らして下さい。私たちが、真理の光を照らすものとなることが出来る者とならせて下さい。私たちが聖霊の恵みによって、肉における苦難にあずかり、罪を終わらせることが出来るものとならせて下さい。私たちは本当に足りないものであり、弱い者であります。私たちは、肉につけるものとして、主のみ前に心から切に嘆願するしかありません。私たちの切なる願いと祈りとを受け取ってください、私たちの内に、父なる神様の御心を行って下さい。イエス様のみ名によって心からお祈りします。 ア-メン。 

  罪から逃れる道は最終回です。お読みいただきありがとうございます。罪から救われる道を選び続けて頂きたいと願います。



罪から逃れる道 第19回

2015年03月22日 | 日記

 

    罪から逃れる道 第19回

私たちの救いは一度受ければ、一度神様の前に悔い改めるならば、それがずっと続くのではありません。私たちは主がそうであったように、日々、肉において苦しみを受け、私たちの内にある肉の働きを殺し、サタンの攻撃や誘惑に対してそれを否定していくのです。このような歩みをしていく中で、批判、非難、迫害や苦しみ、困難が起きてくることもあるでしょう。家族の中の誰かが亡くなったり、病気にかかったりすることもあります。私たちは、いつ起きるか分からないこのような肉における苦しみに対して、日々御霊によって歩み、心を武装していく必要があります。神様の子となった人たちは、サタンの憎しみの的となります。サタンに支配された人間によって迫害されたり、サタンの巧妙な誘惑が襲って来るでしょう。しかしそのような中で、自分の思いではなく、聖書のみ言葉に従い、聖霊によって歩むなら、私たちの心は完全な平安と喜びで満たされるのです。「キリストと苦難をも共にしている」人は、その苦しみの中にあって、キリストの栄光にあずかるようになります。

 

皆さん、この世界には誤解と過ちと欺瞞(ぎまん)が満ちています。しかし私たちは真理の御霊によって満たされることが出来ます。欺瞞と偽りが充満した世の中で、私たちは御霊が充満された人になるべきです。罪の世界の中で、御霊によって歩む道を選ぶ時、心に戦いが起きます。それが肉における苦しみです。しかし、そのような選びをするなら、その人にとって罪が終わります。このようにして罪に終わりを告げた人は、死から復活した人、神様の再創造の恵みにあずかった人として、その喜びを多くの人に伝え、人びとを救いに導くようになります。