またある人々は、9章12節を、ある翻訳聖書から、イエス様が復活された後、直接「至聖所」に入られたとして、聖所の経験、聖所の清め、なぜそのようなものが必要かと言います。
しかし、もともと、「至聖所」という言葉は、原語のギリシャ語では、「聖なる場所で最も聖なる場所」という意味です。そして、ある人々が指摘するイエス様が「一度だけ聖所にはいられ」という時の聖所と言う言葉は、聖所全体を表すときに用いる単語です。つまり、そこで言われているのは、至聖所のことではなく、天の聖所全体を意味しているのです。従って、そのような論理は合わないのです。
「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである(ヘブル10:1)。
ここでは、地球上の大贖罪日における経験について語っています。それは来るべき良いことの影、つまり比喩に過ぎないと述べています。では、大贖罪日の経験とは何でしょうか?大贖罪日の経験は、罪から分離すること、清められることの比喩でした。しかし、比喩では、彼らを本当の意味で、罪から分離し、完全に清めることができませんでした。
「もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである」(ヘブル10:2~4)。
イスラエルの人々は、毎年大贖罪日を迎えていました。もしそれによって彼らの罪が除かれていたのなら、毎年大贖罪日を迎える必要がなかったでしょう。むしろ毎年行われる大贖罪日を通して、彼らの罪が思い起こされていたのです。ですから、聖書はこのように続けています。
「それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった」(ヘブル10:5)。
こ の地球上の聖所は、ひとつの象徴であり、たとえでした。イエスの血を個人的に受け入れ、信仰によって清められる経験をするための比喩でした。