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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

大贖罪日 第10回

2015年11月30日 | 日記

またある人々は、9章12節を、ある翻訳聖書から、イエス様が復活された後、直接「至聖所」に入られたとして、聖所の経験、聖所の清め、なぜそのようなものが必要かと言います。

しかし、もともと、「至聖所」という言葉は、原語のギリシャ語では、「聖なる場所で最も聖なる場所」という意味です。そして、ある人々が指摘するイエス様が「一度だけ聖所にはいられ」という時の聖所と言う言葉は、聖所全体を表すときに用いる単語です。つまり、そこで言われているのは、至聖所のことではなく、天の聖所全体を意味しているのです。従って、そのような論理は合わないのです。 

「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである(ヘブル10:1)。  

ここでは、地球上の大贖罪日における経験について語っています。それは来るべき良いことの影、つまり比喩に過ぎないと述べています。では、大贖罪日の経験とは何でしょうか?大贖罪日の経験は、罪から分離すること、清められることの比喩でした。しかし、比喩では、彼らを本当の意味で、罪から分離し、完全に清めることができませんでした。

「もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである」(ヘブル10:2~4)。

イスラエルの人々は、毎年大贖罪日を迎えていました。もしそれによって彼らの罪が除かれていたのなら、毎年大贖罪日を迎える必要がなかったでしょう。むしろ毎年行われる大贖罪日を通して、彼らの罪が思い起こされていたのです。ですから、聖書はこのように続けています。

「それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった」(ヘブル10:5)。

こ の地球上の聖所は、ひとつの象徴であり、たとえでした。イエスの血を個人的に受け入れ、信仰によって清められる経験をするための比喩でした。


大贖罪日 第9回

2015年11月29日 | 日記

「すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している」(ヘブル9:2-8)

前方の幕屋とは何を指していますか?それは、モーセによって建てられた地上の聖所のことです。

「この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない」(ヘブル9:9)。

つまり、子牛とやぎの血によって清められるのではなく、将来に来られるメシアの血を信じることによって、やがて流されるメシアの血によって清められることを意味しています。 

「それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない」(ヘブル9:9)。 

何を改革する時まででしょうか?手で造った地上の聖所ではなく、本物の天の聖所に、本当の大祭司イエス様が、私たちのために流された血を持って、とりなしの祈りをするために入って行かれる、その改革をされる時まで、ということです。地上の聖所は、イエス様が天の聖所に入って行かれる時まで、その任務を任されていた比喩だということです。

かしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブル9:11,12)。

あまりにも明らかです。しかし、まだ「私はイエスを信じる!私はイエス信じた!イエスの功績によって、私はすでに救われた。私はただ最善を尽くせばいいのだ。私はこの罪あの罪を犯しても悔い改めれば大丈夫。私は主の命令を守らなかったことによって救いを失うことはない。私はすでに救われた」と考えている人がたくさんいます。神様を愛し、その御心のままに生きる者、主の前に完全に屈服する人々は、聖霊によってそのような確信を持つことができます。しかし、このみ言葉のように、大贖罪日の真の経験なしに、祭壇に自分自身を捧げる経験なしに、通俗的な福音によって、ただイエス信じるだけで審判を避けることができると信じる人は、今後大変な経験をするようになるでしょう。私たちは大贖罪日を経験すべきです。イエス様がすぐに来られるからです。


大贖罪日  第8回

2015年11月28日 | 日記

もともとこの地上の聖所制度は、神が私たちをどのように救われるかを示す福音でした。実物教訓です。聖所制度と儀式を通して、神様が私たちをどのように救わるか、実例で示してくださるのです。聖所は神様が私たちを救われるときに、どのような方法で、どのような段階を踏まれるかを教えてくれます。つまり、皆さんと私たち罪人の心に、カチカチにこびりついた隠れた罪を、どのように溶かし、取り除き、再び私たちを罪と関係ないものとしてくださるのか、その過程と福音の働きを示したものが聖所制度です。

 この聖所制度はどのように制定されたでしょうか。モーセが、地上の幕屋を建てる時に、神様は、人の手によって作られたものでない、天にある聖所を、啓示を通して教え、それを模して作るように命令されました。かつて、神様はノアには寸法まで指示し、箱舟を作るように命じられました。どんなに主を信じるといっても、箱舟に入らなければ救いがなかったように、今日も、「主よ、主よ」と言うものが天国に行くのではなく、主の御心の通りに生きる人だけが救われるのです。つまり、聖所を建て、その聖所制度に示された福音の段階を踏み、主のご計画された通りに罪から清められた魂にしか、救いはないのです。

 

ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる」(ヘブル8:6)。 

少し説明を加えたいと思います。

(ヘブル9:1-12)

さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった(ヘブル9:1-12)。

初めの契約とは何でしょうか?旧約聖書に記された、モーセによって伝えられた様々な教えです。


大贖罪日 第7回

2015年11月27日 | 日記

ところが、この世で罪を憎むこともなく、真心から悔い改めて罪を捨てる経験がなくて、その人の心にも行為にも罪が残っているのに、天でその人の罪の記録を消すなら、それは詐欺です。欺きです。偽りなのです。そこで、この地に住む人々の真の悔い改めと罪から分離される経験が、必ずなければならないのです。今、その経験にあずかりからなければなりません。

 

これはあなたがたの永久に守るべき定めであって、イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度あがないをするものである」。彼は主がモーセに命じられたとおりにおこなった。』(レビ16:34)

 

今この時間、大きなテーマを扱っています。この短い時間で説明するのが非常に困難な主題について話をしています。できるだけ簡単に説明しますので、よく聞いてください。

皆さん、小さな角、獣の勢力が中世にありました。その勢力は5000万から1億人の殉教者を生み出したと言われています。その勢力は真理を地に投げて踏みつけ、天の聖所を打ちこわしたのです。それによって、真心からの悔い改めをもたらす大贖罪日の意味や、審判を通過する必要があることを伝える重要な真理を教会に教えず、偽りの教えを持ち込んだため、人々がその真理を理解できずに長い時間が経ちました。最近の教会が、これらの真理を正しく教えない理由を、ここから知ることができます。

 

そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる」(ヘブル8:4-6)


大贖罪日 第6回

2015年11月26日 | 日記

 完全に罪を捨てる経験

罪のない完全な品性を説教したジョン·ウェスレーに、ある人が来て苦情を言いました。その時ジョン·ウェスレーがその人に言った有名な言葉があります。「兄弟、兄弟はなぜそんなに罪を愛するのですか?どうして、それほど罪が好きなのでしょうか?私たちが神様の前に完全に罪を悔い改め、完全に罪を捨て、主のみ力によって、完全に勝利することができ、また勝利しなければならないという、その言葉をどうして嫌悪するのですか? 」。

私たちの悔い改めは、大贖罪日の悔い改めでなければなりません。私たちの毎日は、大贖罪の日でなければなりません。その日一日を通過すると、その次は仮庵の祭り、幕屋週がやってきました。仮庵の祭りは、イエス様が私たちを迎えに来て下さり、天へ向かっていく旅を表していました!そして荒野の道を歩き回っていたその日を振り返る日でした。収穫物を倉庫に蓄え、その収穫をお祝いする日でした。イエス様が来られて、救われた人々が雲に乗って天に上げながら、仮庵の祭りを祝うのです。この世界で苦労したことを覚え、仮庵の祭りを祝うのです。徹底的に罪を赦され、罪とはもはや関係がなくなった者たちに、主は印を押され、御国に連れて行ってくださるのです。

 

これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。油を注がれ、父に代って祭司の職に任じられる祭司は、亜麻布の衣服、すなわち、聖なる衣服を着て、あがないをしなければならない。 彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない』(レビ記16:31~33)。

 

人々のためだけにあがないが行われるのではありません。聖所自体をあがないます。「会見の幕屋」とは「至聖所」と「聖所」両方のことを言っています。「祭壇」とは、聖所の境内にある「祭壇」のことです。つまり聖所の建物自体もあがないをし、そして人々も清め、あがなうようにと述べられています。なぜそうするのでしょうか?天の聖所がなぜ汚れたのでしょうか?天に汚れたところがあるのでしょうか?なぜ天の聖所が清められる働きが必要なのでしょうか?

私たちが罪を告白したときに、その罪は残らず天の聖所に移され、そこに罪の記録として残ります。主が私たちの罪に対する悔い改めを見て、私たちのためにとりなしをしてくださっていますが、私たちの罪が記録された天の記録の書物のために、罪と反逆のすべてを知らない天の神聖な場所が汚されているのです。ですから、主が罪の記録自体を消し去り、聖別される必要があるのです。