7、従順:愛の試金石
ある人たちは、律法が養育掛として罪人をキリストに導いて、罪の赦しを受けさせる目的を達成した後では、もう律法は必要ないと、ガラテヤ書3章24節25節を用いて言うかもしれません。それはどのような意味なのでしょうか。養育掛としての律法と、キリストにある自由との関係を私たちは正しく理解しなければなりません。律法は私たちの罪を指摘しキリストに導きますが、キリストを受け入れた人は、心に養育掛の教えが刻まれ、喜んで律法に従うようになります。外面から厳しく罪を指摘する律法から離れたのは、心に律法が書かれ、律法の要求がその人の中で確立されたからなのです。
律法と恵みはお互いに競争し合っているのではなく、完全な協力関係にあります。律法は罪を指摘して、恵みは罪から救います。律法は神様の御心であり、恵みは神様の御心をなし遂げる力です。私たちは救いを得るために律法に従うのではなく、救われたゆえに従うのです。その二つの真の関係をもっともよく表現した美しい聖句が、ヨハネの黙示録14章12節です。「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。信仰と行いについての完全な描写ではありませんか?信仰と行いの美しい調和が、イエス様を信じる聖徒たちを通して現されるのです。
従順の行為が愛の真実のテスト(試金石)です。行いは真のクリスチャンであることを証明するものです。「行いのない信仰も死んだものなのである」(ヤコブ2:26)。どんな男性であれ、口先の言葉だけで女性の心を得ることはできません。花を贈ったり、献身的な行動も起こさず、愛のプレゼントもしないなら、純粋で知恵ある女性は、そのような男性の心を信じることはありません。イエス様は言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)。