SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 10

2013年05月31日 | 日記

 

   福音の道しるべ 10            事務所に飾られていたユリ

Ⅱ.聖所に関する最初の幻

 シナイ山の頂上から、神はモーセに、天の聖所に関する幻をお与えになり、原型にのっとった幕屋を建てるようにとお命じになった。「彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、『山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい』と言われたのである」(ヘブル8:5)

 創世記3章において、神は、単純化した聖所の儀式を通して、アダムとエバに贖いの計画を啓示されたのであった。この事は、創世記3章の20節、21節に記述されている。神はアダムとエバに死と苦しみを、地には呪いを宣告なさったばかりであった。アダムは自分の妻をエバと名づけたが、それは、「すべての生けるものの母」という意味であった。ほんの少し前に死を宣告されたアダムが、なぜ、このような楽観的な名を彼女につけたのだろうか? アダムが妻の名前をつけたのは、罪を犯す前ではなく、犯した後のことであった。この行為をとおして、私たちはアダムの信仰をかいま見ることができる。

「主なる神は人とその妻とのために皮の着物をつくって、彼らに着せられた」(創世記321

皮の衣を作るためには、動物が殺されねばならなかった。彼らの裸の体を覆うために、生き物が犠牲となったのであった。彼らを皮で覆われたときに、主は、次のような説明をなさったはずである。将来、救い主の義の衣が、彼らのように罪を犯して、光の衣を失った多くの人を覆うであろうと。アダムたちのために犠牲となったその動物の死に、彼らは神の贖いの計画を見たことだろう。アダムは、自分の罪のために神の小羊が殺される時を、信仰の目で見たことだろう。

 


福音の道しるべ 9

2013年05月30日 | 日記


   福音の道しるべ 9 第2のペンテコステの必要

歴史上の最後の大いなる戦いにおいて、このように備えをした者たちだけが、この大戦すなわち迫害と試練を耐え抜くであろう。聖霊の力を注がれた彼らは、出て行ってみ言葉を宣べ伝えるのである。ついには、全世界が真理の大いなる叫びを聞くであろう。全地が騒乱状態に陥るとき、福音のメッセージが地の果てまで宣布されるであろう。全宇宙が、真理のメッセージを聞くであろう。各人が自らの運命を決定し、こうして福音の働きは完成するのである。

現在、世界中で、1日に千人以上の人たちが、バプテスマを受けて真理の教会に加わっているが、1日に生まれる赤ん坊の数は33万人にものぼる。現状では、世界人口の増加率に対して、どんなに努力をしたとしても、キリストの来臨に世界を備えさせることはできない。

 私たちは、どうやって主の来臨を早めることができるのか? 私たちは、再臨を待望する民を活気づける、第2のペンテコステ、聖霊の大雨を嘆願しなければならない。後の雨が降らなければ、自らの召命を果たすことはできない。なぜ私たちは、民として、約束された後の雨を受けていないのだろうか? それを解くかぎが、聖所の中にあるのである。神に全く降伏し、全世界の前で神とそのご品性を擁護する民を通して、真の救いがどのように遂行されるかを、聖所は詳しく説明している。さらにすべての人々を、神の聖所へと招いている。 

神よ、あなたの道は聖所にあります(詩篇7713―欽定訳)。 

また、過去の経験は主の導きによるものであると、堅く信じた人々もあった。そして、彼らが、神のみ心を知ろうとして、待ち、見守り、祈ったときに、彼らは、彼らの大祭司が、奉仕のもう一つの業を始められたのを知った。そして彼らは、信仰によって彼に従っていき、教会の最後の働きをも知るに至った。彼らは、第一と第二天使の使命を、いっそう明瞭に理解した。そして、黙示録14章の第三天使の厳粛な警告を受けて、それを世に伝えるよう準備させられた。

 


福音の道しるべ 8

2013年05月29日 | 日記

   

   福音の道しるべ 8 神の栄光と戒めの前に立つ人

 神の言葉の目的は、人を神のみかたちへと完全に回復させることである。このことが、聖所の儀式において明示されている。罪の赦しを受けるため、子羊を伴って聖所にやってくる罪人が信仰によって最後に行き着くのは、至聖所である。そこで彼は、契約の箱に納められた十戒の前に立つのである。つまり、これらの儀式によって象徴された各段階をとおして、神は私たちのうちにご自分のみかたちを回復なさり、み前で永遠に生きられるようにして下さるのである。私たちを神のみもとに戻すことが、聖所の背後にある目的なのである。しかしながら、罪のうちにとどまっているならば、私たちは神を見ることができない。神のシカイナの栄光は、あらゆる罪を、罪人もろとも焼き尽くしてしまうからである。聖所の制度は、私たちの心のうちにある罪の問題を解決するための段階を示してくれている。聖霊に全く屈服した民だけが、神の栄光と戒めの前に立つことができるようにされるのである。

 

 もう罪を犯してはいけない 44 最終回

救われたキリストの忠実な民からは、堕落によって呪われた罪の痕跡が消えて、精神と肉体に神様の完全なかたちが反映される。彼らは、「主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて」( コリント人への第2の手紙3章18節)いるのである。 

もう間もなく、イエス様が、神様の忠実な民を迎えにお出でになる。その時、この冊子を読んでおられるあなたが、救われる群れの中にいることを望みます。福音の力を体験し、神様の恵みの力を受けて罪に勝利し、神様に忠実な歩みをして、回復した美しい故郷に共に入りましょう。 

人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである(ヨハネの黙示録21章4節) 

天には、病気や苦痛、死などない。そこには失望もなく、罪もなく、葬列も、争いも、嘆きも、別離もなく、傷つくこともない。

 ただイエス様がそこに臨在され、完全な平和が広がっている。

 

 


福音の道しるべ 7

2013年05月28日 | 日記

  

  福音の道しるべ 7 仲保者なしに立つ信仰

再臨運動の先駆者たちは、まだ主の再臨の備えができていなかった、というのである。新たな責務を明らかにするために、新しい光が啓示される必要があった。 

天の聖所におけるキリストのとりなしがやむとき地上に住んでいる人々は、聖なる神の前で、仲保者なしに立たなければならない。彼らの着物は汚れがなく、彼らの品性は、血をそそがれて罪から清まっていなければならない。キリストの恵みと、彼ら自身の熱心な努力とによって、彼らは悪との戦いの勝利者とならなければならない。この働きは、黙示録14章の使命の中にさらに明瞭に示されている。この働きが成し遂げられると、キリストの弟子たちは、主の再臨を迎える準備ができるのである。 

 つまり、神の民の側で、主に会う備えができていないために、イエスはおいでになれないのである。キリストがおいでになる少し前に、神の恵みの期間は閉ざされる。その時、天に仲保者がおられなくても罪なくして生きられるほど徹底的に清まっている民、罪との戦いにおいて絶えず勝利できるほどの品性に到達した民が、現れねばならない。

   もう罪を犯してはいけない 43

イエス様は、両手を広げて、人類の始祖アダムを抱こうとされる。神様によって創造されながら罪を犯し、その罪のために主の体に十字架の釘あとを残すようにしたそのアダムを、主は抱こうとされる。しかしアダムは、主の釘あとを見て、その胸に抱かれようとせず、謙遜に主の足元にひれ伏し、「ほふられた小羊こそは、栄光と賛美とを受けるにふさわしい!」と叫ぶのである。

その時イエス様は、憐れみをもってアダムを抱き起こし、長い間追放されていたエデンの園を、もう一度眺めるように言われるだろう。イエス様は、人類の失敗と堕落を贖われた。アダムは、自分が追い出された時よりももっと美しくなったエデンの園を見ることだろう。そして彼は、感激しながらあたりを見回し、神様の園に立っている、大勢の救われた彼の子孫の群れを見ることだろう。


 


福音の道しるべ 6

2013年05月27日 | 日記

    

 福音の道しるべ 6 もう一つの使命が示される

Ⅰ.聖所とわれわれの使命

 1844年、キリストの再臨を宣布し、大宗教リバイバルを呼び起こした再臨信徒たちは、信心深い人々であった。「使徒時代以来のすべての大宗教運動の中で、1844年秋の運動ほど、人間の不完全さとサタンの策略に妨げられなかったものはない」と当時をよく知る人は語っている。彼らは、自らの心を吟味しへりくだらせ、世への愛着を捨てた。そして、神に是認されているという確証を第一に求めた。毎朝、神から認められているとの確証が得られるまでは、食べ物を口にしなかった。主をお迎えし、死を味わわずして天に移される用意ができていた民がかつていたとしたら、それは彼らであった。にもかかわらず、次のような興味深い引用文がある。

しかし、人々は、まだ主に会う準備ができていなかった。まだ、彼らのためになされねばならぬ準備の働きがあった。彼らは、まず光を受けて、天にある神の宮に心を向けねばならなかった。そして彼らが、そこで奉仕しておられる彼らの大祭司に、信仰によって従っていくときに、新しい義務が示されるのであった。もう一つの警告と教えの使命が、教会に与えられるのであった。

 もう罪を犯してはいけない 42

    エピローグ 

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう(テサロニケ人への第1の手紙4章16,17節) 

やがてイエス様が再降臨なさって、罪に勝利し、主に忠誠を尽くした人々を天の故郷に連れて行かれる。贖われた人々が天の宮殿に受け入れられ、歓喜の声が高く空中に満ちる時、救われた聖徒の前に、感激的な光景が広がるだろう。それは、イエス様とアダムが再会する場面だ。 

 「アダムよ、アダムよ!」 

ああ、神様が、「あなたはどこにいるのか」(創世記3章9節)と彼を呼ばれた時から、こうして光輝の中で、再び彼の名を呼ぶようになるまで、神様がどれだけ忍耐して、待ち続けてこられたことか。