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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 119

2014年02月28日 | 日記

   

  福音の力を体験せよ 119

“キリストが私の心の中におられるどうかが、どうすれば分かるのか?とあなたは言うであろう。もしもあなたが自分のやり方を批判されたり誤りを指摘されたりしたとき、また物事が自分の思い通りにうまく運ばないとき、批判や指摘を甘んじて受け入れるのではなく、かんしゃくを起こしてしまうならば、それは、キリストが心の中に宿っておられないということである。”(RH1887,7,12) 

「その実によって彼らを見分けるであろう。」もしも間違った実が結ばれるなら、その根底に間違った霊がいるということです。皆さんは、ふたりの主人に兼ね仕えることはできません。どんなに聖霊の実を結ぼうと思っても、ふたりの主人に兼ね仕えていたら、たとえ何年努力したとしても、正しい実を結ぶことは決してできないでしょう。

    十字架の誤解 5

彼らの不従順が、この世界をこのような破滅へと引きずり込んだのです。それゆえ人間が再び回復され、全人類がエデンの園へ、神様のもとへと戻る道は、もう一度、神様を愛し尊敬し、その律法を尊重して従順な者になる事です。

ところで、堕落した人間は、もはや自分の力では、戒めにしたがうことが不可能となりました。なぜなら、その心が悪に染まり、不従順に慣れてしまったからです。

「なぜなら、肉の思いは神に適するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:7)。

それゆえ神様は、サタンによって告訴された、ふたつの問題を、全宇宙に対して明らかにしようとされました。ひとつは、神様は利己的な方ではなく、人類の平和と永久の幸福を願われる大いなる存在であることです。ふたつめは、神様の戒めは、宇宙の秩序と平和のために大切なもので、神様の愛情の表現であるゆえに、もしそれを無視して壊せば、世界には破滅と悲しみがもたらされる事です。


福音の力を体験せよ 118

2014年02月27日 | 日記

  

    福音の力を体験せよ 118

“あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、偽物として見捨てられる。”(Ⅱコリント13:5)

自らを吟味するようにと、神様は言われました。ある人は、「そんなことをする必要はありません。ただ、イエス様が完全な生涯を送られたことを信じなさい。自分を見て心配する必要はありません」と教えます。

しかし皆さん、聖書はそのように教えていません。聖書には、「キリストがあなたのうちにおられるかを吟味しなさい」と書かれています。イエス様が受肉なさって、完全な生涯を送られたか否かだけが重要なのではなく、私たち自身も、適性なくして天国に入ることはできません。ですから私たちは、その適性があるか否かを吟味しなければなりません。

   十字架の誤解  ④   

   神様かうサタンの挑戦状 

この戦いで、地に落とされたサタンが人類を惑わした方法は、神様の律法、命令を守る必要などないという偽りでした。サタンの惑わしは、その後現在にいたるまで全く同じです。サタンはまず、エデンの園でエバに、神様が食べてはいけないと言われた実を、取って食べても大丈夫だと惑わしました。すなわち、神様の律法を守らずそむいても別に問題はなく、永久に生きることができると偽りを信じこませたのです。神様がアダムとエバに、他のすべての木の実を食べるのは良いが、善と悪を知る木の実は食べてはならないと言われたのは、善と悪を知る木自体に毒が含まれているからではありませんでした。善悪を知る木は、神様の権威の象徴であり、宇宙の調和と秩序を保つ、神様の律法に対する従順のテストとして与えられたものでした。神様とその戒めに対する、愛と尊敬の心が、この世界の平和と命を永遠に保つ条件でした。社会に法と秩序がないことはありえない話だからです。ところがサタンは、人類の先祖であるアダムとエバに、神様の命令など守る必要はないと惑わしたのです。

さらに進んで、悪魔は神様を利己的な方であると告訴しました。その事実は、『創世記』3章で発見できます。サタンは、アダムとエバがその禁断の実を食べると、目が開けて神様のようになると言い、それを神様は知っているので、食べないように禁じられたのだと偽りを言いました。そして、神様は利己的な方だから、善悪を知る木を食べないようにされたのだと言ったのです。そのような欺瞞に、人類の先祖はすぐにだまされてしまいました。


福音の力を体験せよ 117

2014年02月26日 | 日記

   


 福音の力を体験せよ 117

皆さん、子供でさえ、自分のやっていることが分かっています。子供であっても、母親に対する反逆の精神が生じれば、すぐにそのことを感知します。また逆に、母親の精神がまちがっていたら、すぐにそれを察します。こういったことは、分かりにくいものではありません。自分自身の心の状態は、容易に自覚できることです。天で裁きを受けるとき、私たちが抱いている精神に応じて、正確に裁きを受けるのです。

これらの事は、私が自分で考えだしたものではありません。私は、自分はクリスチャンであると思って生きてきました。私は、だれを恨む権利も持ち合わせていません。すべての罪や過失は、自分自身の責任です。ではここで、明日になってもつまずかない秘訣を述べたいと思います。皆さん、この最後の段階は、非常に大事な点であります。

      十字架の誤解 ③

これらのみ言葉によれば、サタンの堕落は、高慢から由来したことが分かります。彼は被造物の中で最も美しい存在であったに違いありません。彼は神様と自分自身を比べながら、神様よりも自分を高めたい心を表し、他の天使たちを惑わして反逆を起こしたのでした。サタンは、全天の三分の一の天使を惑わすことに成功したと、『ヨハネの黙示録』12章には啓示されています。「その尾(龍の尾―筆者注)は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。・・・さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された」(黙示録12:4、7~9)。ここで、ミカエルはイエス・キリストを象徴し、龍はサタンを象徴しています。

 


福音の力を体験せよ 116

2014年02月25日 | 日記

   

 福音の力を体験せよ 116

“あなたは、これらの恵みを所有しない位置にいるのだろうか?誰かがあなたを怒らせたり、あるいは感情を害したりすると、すぐに心の中に恨みの感情、反逆の精神が込み上がってくるだろうか?もしあなたがこのような精神を抱いているならば、あなたはキリストの霊を持っていないことを覚えなさい。それは別の霊である。”(RH1886,12,21)

それゆえに、イエス様は言われました。「あなたがたはその実によって彼らを見分けるのである」と(マタイ7:20)。

ではここで、みたまの実について考察してみましょう。私が兄弟に対して怒ったとしたら、愛はどこにありますか?喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和そして自制はどこにありますか?兄弟に対して怒るとき、私は異なる霊に支配されることになります。

皆さんは、同時に二人の主人に兼ね仕えることはできません。私たちは、これまでずっと、外面の言動や功績だけを見て、人を評価してきました。

私たちは、一日に何人もの人たちに、聖書研究をしてあげることができます。しかし、自宅にいるときに異なった精神を抱いていたならば、キリストは私たちのうちにおられないのです。私たちは皆、聖霊の実を結んでいるか否かによって自己吟味することができます。また、そうするように勧められています(Ⅱコリント13:5、マタイ7:16-20参照)。

   十字架の誤解  ② 

    十字架じたわけ 

十字架が生じた理由は、サタンが神様に対して、天で反逆し、戦を起こしたことから始まります。サタンはもともと美しい天使(ケルブ)のひとりでした。エゼキエルは、サタンの堕落について次のような啓示の言葉を記録しました。

「あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために供えられた。わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった」(エゼキエル28:13-15)。

またイザヤは、次のようにサタンの堕落を説明しています。

「黎明の子、明けの明星(ルシファー)よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った。『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落とされ、穴の奥底に入れられる」(イザヤ14:12~15)。


福音の力を体験せよ 115

2014年02月24日 | 日記

  

   福音の力を体験せよ 115

“どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように。また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに超えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。”(エぺソ3:16-19)

イエス様は、彼を心から愛し、信じるクリスチャンのために、すべてのお膳立てを整えておられます。イエス様は、「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」と言われました(ヨハネ15:4)。さらに、「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」と言われました(ヨハネ15:5)。 

“信仰によって神のみ子を常に食するとき、みたまの実はわれわれの生活の中に見られ、一つとして失われることはない。”(DA676)  

    十字架に対する大きな誤解 (デビットカン聖書研究シリーズ) ①

なぜ、キリストの十字架が必要だったのでしょうか?人類の救いのためなら、何か他の方法があったのではないでしょうか?無限の知恵で満ちておられる神様が、御子イエス・キリストの犠牲を通してでなければ、人間の救いを成し遂げることはおできにならなかったのでしょうか?神様は、別の計画をお用いになることはできなかったのでしょうか?

≪宇宙を支配なさる神様が、人間をもと通りの状態に回復するためには、別の方法でのプレゼントを準備することはできなかったのでしょうか?人類の身代わりとして、天使が死ぬことはできないことだったのでしょうか?≫

イエス様がカルバリへ行かれたのは、他の道が全くなかったためです。イエス様が死なれた理由は、人類を彼らの罪から救うためだけではありませんでした。そこには、サタンとの全宇宙的な規模の争闘が含まれています。神様とサタンとの闘争は、十字架において最高潮に達しました。しかしその戦いは、十字架で始まったのでもなく、終わったのでもありません。十字架は、人間の創造以前から、神様の心に秘められていたものでした。もしも、自由意思を与えられた人間が、その選択により神様に反逆して罪を犯した場合には、イエス・キリストの十字架の犠牲と恵みを通して、もう一度救いを与えるための計画が、永遠の昔から神様のみ胸に秘められていたのでした。