ひまわりさんより(9月30日)私の信仰の歩み 第2回
今まで私は、救いの確証ということが分からず、救われているような、いないようなあやふやなものでした。時々、外国人の宣教師の人が、「あなたは救われていますか。救われている人は手をあげてください!」などと言うと、どちらかわからず、手をあげたりおろしたりしていました。その後、『福音の解体新書』という本を読んで、福音には、主観的福音と、客観的福音の2面があり、客観的福音では、イエス様が死んでくださったという動かされない事実があり、それを体験していって品性が変えられていく(主観的福音)のですが、まだ体験していなくても、信仰によって「望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」(ヘブル11:1)だということが分かって、心に平安が与えられました。それから、この大きな恵みにどうやって答えていったらいいのだろうと思っていた時、沖縄の「サンライズ・ミニストリー」で出版しているいろいろな本を読み、セブンスデーアドベンチストだけに託されている尊い使命があるということに目が開かれ始めました。
義とは何か(デビット・カン講演14)
義とは何でしょうか。ローマ2:13には、こう書かれています。「なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである」。ここにありますね。律法を行う者が義とされると。
イザヤ51:7には、「義を知る者よ、心のうちにわが律法を保つ民よ、わたしに聞け」とあります。聖書に一貫してはっきり言われていることは、神の律法を心に保つということです。それは、単に情報として律法を受け入れるのでなく、その律法を実践することであります。
次に申命記6:25 「もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう」。これは、モーセが言った言葉ですよ!イエス様と顔と顔を合わせた人物です。彼は、2枚の石の板を神様から直接いただきました。彼はその時、神様がご自分の指で、律法を実際に書かれるのを目撃したわけです。その人物が、義の定義を私たちに教えてくれているわけです。義とは何でしょう。神の律法、戒めを守り行うことです。律法主義に聞こえますか。このようなことを日曜教会の人に言ったとしますと、彼らはカンカンになって怒ります。怒鳴られますよ。「律法主義だ!」とね。「だからあなたたちSDAはカルトと呼ばれるんだ。私たちは信仰によって救われるんだよ。神様の恵みを通して」と・・・。