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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演14)

2012年09月30日 | 日記




   ひまわりさんより(9月30日)私の信仰の歩み 第2回

今まで私は、救いの確証ということが分からず、救われているような、いないようなあやふやなものでした。時々、外国人の宣教師の人が、「あなたは救われていますか。救われている人は手をあげてください!」などと言うと、どちらかわからず、手をあげたりおろしたりしていました。その後、『福音の解体新書』という本を読んで、福音には、主観的福音と、客観的福音の2面があり、客観的福音では、イエス様が死んでくださったという動かされない事実があり、それを体験していって品性が変えられていく(主観的福音)のですが、まだ体験していなくても、信仰によって「望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」(ヘブル11:1)だということが分かって、心に平安が与えられました。それから、この大きな恵みにどうやって答えていったらいいのだろうと思っていた時、沖縄の「サンライズ・ミニストリー」で出版しているいろいろな本を読み、セブンスデーアドベンチストだけに託されている尊い使命があるということに目が開かれ始めました。

   義とは何か(デビット・カン講演14)

義とは何でしょうか。ローマ2:13には、こう書かれています。「なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである」。ここにありますね。律法を行う者が義とされると。
イザヤ51:7には、「義を知る者よ、心のうちにわが律法を保つ民よ、わたしに聞け」とあります。聖書に一貫してはっきり言われていることは、神の律法を心に保つということです。それは、単に情報として律法を受け入れるのでなく、その律法を実践することであります。
次に申命記6:25 「もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう」。これは、モーセが言った言葉ですよ!イエス様と顔と顔を合わせた人物です。彼は、2枚の石の板を神様から直接いただきました。彼はその時、神様がご自分の指で、律法を実際に書かれるのを目撃したわけです。その人物が、義の定義を私たちに教えてくれているわけです。義とは何でしょう。神の律法、戒めを守り行うことです。律法主義に聞こえますか。このようなことを日曜教会の人に言ったとしますと、彼らはカンカンになって怒ります。怒鳴られますよ。「律法主義だ!」とね。「だからあなたたちSDAはカルトと呼ばれるんだ。私たちは信仰によって救われるんだよ。神様の恵みを通して」と・・・。




主は我らの義(デビット・カン講演13)

2012年09月29日 | 日記



   ひまわりさんより(9月29日) 私の信仰の歩み 第1回

私は、生まれる前からSDA教会に育ちましたが、小学生の頃、回りの大人たちや先生たちを見て、なにか本物ではないな、言ってることとやってることが違うなという思いを持っていました。それから、高校生の頃にはとても尊敬し、信頼する先生にお会いし影響を受けました。しかし、その後20年後ぐらいに、その先生から電話がかかって来たときには、具合が悪くなって自分の体の事しか考えない、自己愛たっぷりの姿になっておられ、年齢や信仰が進んで行ったら、本当は自己犠牲愛に満ちていなければならないはずなのに、そうではない姿を見せられて、?マークがつきました。20代の看護学生時代には、聖所の問題について研究しておられるG先生のもとで、学生を集めて修養会を企画したりしましたが、20年後に会った時には、聖所のことについて、全く関心もないような姿で、これはどういうことだろうと思いました。その後、Mさんとの出会いがあり、聖書の教えを生活に生かさなければならないこと、自己があってはいけないことなど教えられましたが、結局、自己に死ぬことはできないことに気がつかされて、「だめだ」となった時に、はじめて、このような自己に死ぬことのできない自分のために、イエス様が身代わりとなって死んでくださったのだということがわかり、心から感謝しました。

   奇跡に次ぐ奇跡の経験(デビット・カン講演13)

皆さんもご存知と思いますが、自給伝道牧師というのは、決して裕福ではありません。銀行口座も持っていますが、それは預貯金の口座ではありません。健康保険も入っていません。車の、必ず入らなければならない保険は入っていますが、その他の保険は入っていません。銀行口座にどれだけ入ってくるか、家内は私にあまり言わないのですね。ですから私は、今月十分お金があるのか、来月までもつのかわからないのですね。私の思いは、自分たちの、伝道機関の働きに集中しています。家族のための物質的な必要のためには祈りませんけれども、伝道活動の経済的必要のためには祈っています。私たちの伝道活動には120名以上のスタッフがおりまして、それゆえにいろんな困難もあります。そういった働き人に伴う家族もまたいるわけですね。彼らのために私はいつも祈ります。そして、私たちの伝道の働きの前進のために祈ります。私たちのミニストリーは、神様のそのような力に頼ることにのっとっています。特に私たちの思いは、中国伝道にあります。何百万部の書物を出版し配布していますけれど、これは奇跡です。お金がないのですから・・・。でも実際に起こりました。何百名もの、私たちのために働いてくださる文書伝道者が中国にはおられます。彼らの物質的必要にどうやって答えるのか、私にはわかりません。ただ祈ります。奇跡によって神様が用意し、備えてくださるんです。この伝道の働きにおいて、奇跡に次ぐ奇跡を経験してきました。そして、「神の国と神の義」に私は焦点を当てています。そして旅行をして、どこであっても、どのようにして義なるものとなるかということを語ります。





主は我らの義(デビット・カン講演12)

2012年09月28日 | 日記



   ひまわりさんより(9月28日)

今日は、11月から新しく一緒に介護事業を始める弟と、夫と共に、国際福祉機器展へ出かけてきました。毎年出かけていたのですが、今回は、新しく始めるデイサービスで使う、リハビリ機器や、入浴介助用品、椅子などの具体的な選定のために出かけたものです。私が今いる施設にも、立派な、高価なパワーリハビリ機器はありますが、あまりお年寄り向きではなく、一人でしょぼしょぼやるのは楽しくないらしく、いまひとつ人気がなく、これでは効果が出ないと感じていました。私は、お年寄りのリハビリは、若い人のリハビリと違って、何よりも、楽しいという気持ちになれるもの、気持ちいいと思えるものを中心にした方がいいと思っていました。また、ひとりで黙々とやるリハビリでなく、みんなとおしゃべりしたり、励まし合ったりしながらやれるものがないかと思って探してみたら、ちょうどそれにいいものが見つかりました。中央の四角い柱の4辺に、4つの運動器具が取り付けられていて、お互いに顔を見ながらリハビリができるのです。値段も手ごろでいい運動ができると思いました。でも、長年在宅支援をしてきて感じるのは、器具も必要ですが、まず、利用者様の心に寄り添うことができるかどうかということが一番大切なことで、利用者様の心が動けば、体が動くようになるのです。信仰もそれと似ていて、形や外見でなく、心が大切なのでした。
 
   まず神の国と神の義を求める(デビット・カン講演12)

そのような試練の時を、私たちは通っていかなくてはなりません。本当の意味で、どのようにして義なるものとされるかということを、理解している人たちだけが残るのです。神様は私たちの心をご覧になります。
義について長々と説明してきましたけれども、皆さんにとって必要だと思ったので、時間をかけて説明させていただきました。そして、これから「主我らの義」について勉強していきたいのです。私たちはどのようにして、義なるものとなることができるのでしょうか。
人間は、どんなに良いものばかり食べていても、運動しても、それでもいつかは死んでしまいますよね。私たちが永遠に生きるためには、神の義を受けることが必要なのです。大事な聖句として、マタイ6の31~33があります。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかといって思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらすべてのものは、添えて与えられるであろう」
これはよく知られている聖句です。最近何年か、私は家族のために、食べ物とか服とか物質的なもののために祈ることをやめました。そういったものを求めて祈らなくなりました。狂信者ではないと私は思っているのですが、そういった物質的なもののために祈るのをやめました。まず最初に、神の国と、神の義を求めるべきなのです。そうしている限り、神様は私のすべてを満たして下さると、私は神様に信頼しています。






主は我らの義(デビット・カン講演11)

2012年09月27日 | 日記




    ひまわりさんより(9月28日)

 今日は夕日がとてもきれいでした。ステーションの外に出てみたら、空がまっかに染まっていました。そして、ステーション前の花壇を見たら、ケイトウとサルビアが今までにないくらい赤く、輝いて見えたのです。空の色で、花壇の花まで赤味がましていました。花は、太陽の光を反射しているのですから、私たちも神様の光を反射して、柔和な人になりたいと思いました。(写真はイメージです)

    多くのSDAが獣の刻印を受ける(デビット・カン講演11)

土曜日礼拝者たちがイエスキリストを殺害しました。私たちの時代に歴史が繰り返されるわけであります。ですからホワイト夫人は多くの場合に、現代のセブンスデーアドベンチストが、古代イスラエル人にならっていると言っているわけですね。私は生まれた時から、セブンスデーアドベンチストでした。生まれてからずっとセブンスデーアドベンチスト教会に行っています。幼稚園も小学校も中学、高校、大学、大学院まで、生涯ずっとSDAの教会内で教育されてきました。そして、SDAの按手礼を受けた牧師として長年働いてきました。生涯SDAのメッセージを説いてきました。他のものは何も知らないわけです。
しかし、信仰の目が開かれた時に、福音の真理を本当に理解できるようになってきました。そして、聖書と証の書に書かれている、本当の神様の意図を理解しようとしました。そうしたときに驚きを覚えたのです。
多くの、大多数のSDA信者が獣の刻印を受けるということ。私が言ってるんじゃないですよ。預言者がそのように述べているのです。安息日遵守者の大多数が獣の刻印を受けるであろうと。そして多くのSDA の信者が、様々な試練によって一掃されてしまうだろうと。そして、そういった人たちが忠実な者たちを裏切るようになるんです。神の民を迫害するようになるんです。そのような時に、神様は外から残りの民を連れておいでになります。空いた席を、そのような外から来た人たちが埋めてくれるのです。これは恐ろしい光景であると預言者は言っています。



主は我らの義(デビット・カン講演10)

2012年09月26日 | 日記



   ひまわりさんより(9月26日)

今日の朝、いつものように鯉にエサをあげようと思って、まず、手をポンポンと2回たたいてみました。そうすると、一番すばっしっこい銀色(銀ちゃんと名前をつけました)が、上の方にさっと上がってきました。今までは、私が近づくだけで逃げ回っていたのに、毎朝、ポンポンと手を叩いてからエサをやっていたら、今日はエサをもらう前に、音だけで反応してきた、ように見えました。私はこれをみて、なんてかわいいんだろう、神様も、私たちが神様から呼ばれたとき、こんな風に反応したら、喜んでくださるのだろうなと思いました。

    安息日は神の印(デビット・カン講演10)

第2のペンテコステがやってこようとしています。「聖霊の後の雨」が注がれることでしょう。誰に? 二つのグループの人たちに、です。後の雨というのは第2のペンテコステであります。セブンスデーアドベンチスト教会の残りの者たち、バビロン諸教会の残りの者たち、これら二つのグループに属する人たちが、「主我らの義」という経験を本当の意味でするわけです。これが「第一天使の使命」であります。第一天使の使命は何と言っていますか? 一人の天使が中空を飛んで、永遠の福音を携えてきました。そして叫びます。何と言っていますか「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからである」。それからこのように言いますね。「創造主を礼拝しなさい」。「拝みなさい」と、そのように書かれておりますね。それは安息日を守るという経験を表しているのです。
私たちは、なぜ安息日遵守者なのでしょう。安息日遵守というのは、この地球の歴史において、何か、とても特殊なものを表現しているのです。最終時代、終末において安息日を守るというのは、神の印を表します。それは、何でしょうか。なぜ安息日を守ることは、神の印なのでしょうか。聖霊の印と神の印の違いは何でしょうか。『今朝私は、皆さんの頭をどんどん刺激しようと試みています。終末についての学びをしていきたいわけですね』。残りの民に属するということはどういうことでしょうか。教団、教派はこのような教え方をします。「教団や教派の一員になれば、教会員名簿に名前が載れば残りの民となる、そして、教団から除名されたら、名簿から名前が消されたら残りの民の資格を失う」と。これはローマカトリックの教えなのです。