世界的には死刑制度廃止に向かっている
国際アムネスティによれば、2020年12月現在で、
すべての犯罪で死刑を廃止した国、108
通常犯罪のみ廃止の国、8
(軍法下の犯罪や特異な状況における犯罪のような例外的な犯罪にのみ、法律で死刑を規定)
事実上廃止の国、28
(殺人のような通常犯罪に対して死刑制度を存置しているが、過去10 年間に執行がなされておらず、 死刑執行をしない政策または確立した慣例を持っていると思われる国。死刑を適用しないという国際的な公約をしている国も含まれる。)
存置国、55
となっている。
死刑制度の存置国は、イスラム圏、アフリカ、中国などアジア地域の国が多いが、OECD加盟国では、アメリカと日本のみである。そして世界の方向性は、明らかに死刑廃止に向かっている。死刑廃止国の推移は、1977年16ヶ国、2001年76ヶ国、2011年97ヶ国、2020年108ヶ国と年々増加し、確認された死刑執行数も2015年が1634件に対し、2020年は483件と大幅に減少している。(国際アムネスティによる)
死刑制度に合理的な理由はない
上記のように世界的には死刑制度廃止に向かっているのは、死刑制度に合理的な理由はないからである。死刑制度が凶悪犯罪の抑止に繋がらないことは、研究者からかなり以前から指摘されており、逆にそれが、人命軽視を助長するのは、国家による殺人を容認している制度に過ぎないことを考えれば、明らかである。
「死刑はんこ」発言での日本のメディアの愚かな論調
このような世界の趨勢の中で、死刑執行の命令書のはんこを押すことを「地味な役職」と発言した法務大臣が更迭されたが、それに対する日本の主要メディア、新聞・テレビは、死刑の重大性を軽んじていると批判するだけで、制度そのものに対する是非を論じるものは、極めて少ないと言っていい。
そもそも、日本のメディアは、概ね、死刑制度存続の論調で貫かれているのである。新聞に限れば、死刑廃止方向の論調を載せているのは、東京新聞と琉球新報など一部地方紙、赤旗ぐらいで、極右の産経新聞などは、『「死刑廃止」は被害者の人権侵害』などという福井義高青学大教授の馬鹿げた意見を載せる始末である。
日本のメディアが死刑制度存続の論調を変えないのは、内閣府の世論調査で「死刑もやむを得ない」が8割を超えているので、営利的観点から、世論に合わせるという編集方針で臨んでいるためだと考えられる。
しかし、内閣府の世論調査は、常に政権の意向に沿うような答えが多く出るように仕組まれている。内閣府の世論調査は、単に「死刑に賛成」と聞いているのではなく、「死刑もやむを得ない」に、わざわざ、「場合によっては」と付け加え、この回答が多くなるように仕向けた質問をしているのである。「場合によっては」とは、通常は反対だが、「よく分からないが、そんな場合もあるかもしれない」と日本人特有の曖昧さに付け込んで、答えさせているのである。その逆の死刑廃止には、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」 と問い、死刑廃止への強い意思を持つ者だけが答えるような質問になっている。これを単に、あなたは死刑制度に反対か賛成かと聞けば、反対する者が多くなるのは、当然予想できる。それは、「死刑もやむを得ない」 と答えた者の内、「将来的には,死刑を廃止してもよい」が、2019年でも34.2%もおり、「絶対に死刑制度は維持すべき」という者(内閣府は、そのような質問は、答えが低く出るのが想定されるので、選択肢にしない。)は、半数に満たないと思われる。
このような内閣府の世論調査に対する疑問も、メディアは載せることはない。例えば、朝日新聞は「『死刑制度やむを得ない』8割超 内閣府調査、4回連続」という記事を2020年1月17日に載せたが、「8割超」が強調されているだけで、質問項目を疑問視する姿勢など微塵もない。
「死んでお詫び」と「仇討」の日本文化は理由になるのか?
メディアの論調もさることながら、日本政府は死刑制度存続の方針を変えようとはしない。それは戦後永続的な自民党政権が、国家による人民統制を強固にするという意味での右派であり、伝統的文化を尊重し、それに基ずく従来の方針を変えないという意味での「保守」であるからである。
国家による統制という意味では、犯罪者の動機に結びつく社会的状況やその改善などは考慮せず、ひたすら厳罰主義で臨むというものである。そこからは、死刑制度廃止などは論外である。
死刑と伝統的文化に関連して、2002年5月司法人権セミナー「欧州評議会オブザーバー国における司法と人権」で来賓であった森山真弓法務大臣(当時)は,「保守」を象徴する分かりやすいを発言をした。「わが国では大きな過ちを犯した人がたいへん申し訳ないという強い謝罪の気持ちを表す時に、死んでお詫びをするという表現をよく使うのですが、この慣用句にはわが国独特の罪悪に対する感覚が現われているのではないかと思われます」と、「文化」的理由をもって死刑制度を正当化したのである(Webサイト「死刑廃止フォーラム」より)。
要するに、「死んでお詫び」をする文化が日本にはあり、死刑は「死んでお詫び」の文化に沿っている、だから、死刑制度存続させる、ということである。
確かに、上記の世論調査でも、「死刑もやむを得ない」派の中で、その理由に「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた者の割合が52.9% となっているのは、「死んでお詫び」をすべきという「文化」が色濃く残っている証左だとも言える。
しかし、「死刑もやむを得ない」派の中でその理由では、「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた者の割合が 53.4% と最も多いのである。この「気持ちがおさまらない」とは、死刑で殺害すれば、「その家族の気持ちがおさ」まる、ということの裏返しであり、これは明らかに「復讐」であり、「かたき討ち、仇討」である。
日本では、明治6年1873年2月7日に、太政官布告第37号として「敵討(かたきうち)禁止令」が布告され、そこには「復讐厳禁 」と記されている。また、「古来より父兄のために讐(あだ)を復(ふく)するをもって、子弟の義務となすの風習あり。」(原文は漢文)とも記されている。つまり、日本には仇討の「文化」がある、ということである。さらに、「人を殺す者を罰するは、政府の公権に候処(そうろうところ) 」とある。つまり、個人が「罰する」ことは禁止するが、その代わり国家が「罰する」ということである。とどのつまり、個人の仇討はダメだから、国家が仇討をしてやる、とも解釈できるのである。
森山は「文化」を盾に死刑制度を正当化するのなら、「仇討文化」も挙げるべきだったのである。「その家族の気持ちがおさまらない」とする者が多いのだから、また、「忠臣蔵」など復讐劇が好まれるのだから、日本には「仇討文化」が残っているので、死刑制度は廃止できない、と言えば良かったのである。しかしさすがに、それは言えなかった。
このような「文化」は、時代によって変化することは自明の理であり、森山は、それを勿論分かっていた。かつて日本だけでなく世界中で、特殊な職業を除き、女性が働く「文化」はなかったが、それを理由に、「女性は働くべきでない」とは言えない。その「文化」自体も大きく変化し、現代では「女性が働く」ことは、極めて自然なことと受け止められている。同様に、「仇討文化」も過去のものとしなければならないのを、森山は理解していたのである。
このことは、死刑制度に関し、たとえ「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」や「家族の気持ちがおさまらない」と考える者が多くとも、それを「文化」として存続の理由に挙げることはできないことを意味している。「死んでお詫び」も「仇討」同様、過去のものとしなければならないのでる。
刑罰は報復ではない
「命をもって償うべき」には、犯罪行為をした者は相応の報いを受けるべきだという「応報刑論」に近いと思われるが、この考えは、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」 のように、歴史的に古く、倫理的意味を強く含む。しかし現代では、刑罰は犯罪に対する応報ではなく、社会秩序を維持して犯罪を予防することを目的として科せられるべきという「目的刑論」も併せて考えることが主流である。いずれにしても、刑罰は報復ではない、のである。
そもそも、「死刑もやむを得ない」派が多いのは、マスメディアの報道が大きく影響している。戦後凶悪犯罪は減少しいるにもかかわらず、報道では、「受け狙い」から凶暴な殺人事件は、何度も繰り返し、大きく扱われる。また、被害者家族の感情も、あたかもそれが最も重要なことのように報道される。そのような報道に多く接していれば、誰しも、凶悪犯罪が多発していると思い込み、被害者家族の「極刑を望む」思いが刷り込まれてしまう。
死刑を執行する刑務官は、そのほとんどが精神的苦悩を抱えると度々報道される。それは、人を殺してはならないという、人間としての最低限守るべき倫理観に反した行為を行わなければならないからである。この人間としての最低限守るべき倫理を国家が破るのが死刑制度である。こんなことが許されていい合理的な理由はまったくないのである。