王羲之の『馳』を臨書してみました。
最終画が、結構カクカクになってしまいました。
しかし、そこに味がありますよね。
また逆に、そこは諸刃の剣で、やりすぎると危険な部分でもあります。
『やりすぎるな!危険!』
であります。
昨今流行りの書体は、ここをやりすぎている物が多く、恥ずかしくなります。
それはドラムソロで、bass drumを絡めた三連を、観客から拍手をもらうまで連打するのと似ている様に思います。
観客も拍手を求められている事が分かっていて、拍手をしている。
まさに予定調和で、馬鹿馬鹿しいのであります。
『どうだ!上手いだろ!凄いだろう!』
『凄~い!』パチパチパチッ!
って感じです(笑)
酒も飲んでないのに、よくまああんな納め方をするものであります。
もちろんプロの書家はそれなりの『烙印』を持っていて、それを表すことで、素人目にもわかりやすくする場合も多々あります。
『落款』ではなく『烙印』です。
実際には『印』や『ハンコ』ではなく、書風の事です。
それが自然と湧き出てきたものなら面白いのですが、ファンが求めるままにそこに留まり続ける書家のことは、もう職人さんと呼ぶしかありません。
書風はどんどん変わっていくのが自然です。
お茶の席で、床の間に書家の作品をかけることはほぼないと聞きます。
そこには意図的で作為的な物をかけることを嫌うからだと思います。
『どうだ!上手いだろう!凄いだろう!』を通り越し、
『ん?』
という感じの、良寛さんのような書がかける様になりたいものです。
私の部屋には良寛さんが書いたとされる書が飾ってあります。
真贋は別として(笑)、その書体から良寛さんを感じるので、私はそれを『良寛さんの書』として大切にしながら毎日眺めているのです。
贋作だったとしても、本物と同じ価値が私にとってとってはあるのです。
古物商や研究者でない限り、真贋を見極める心眼は、主観的であって良いと思うのです。