テキスト主体

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(当然、その他についても、語ったりする)

ゼロエミッションから、種の繁栄まで

2013-08-03 21:48:36 | シロートの戯言
広義のゼロエミッションと狭義のゼロエミッションがあり、狭義のゼロエミッションは企業の宣伝文句として、結構使われています。特に環境保全の意味に於いて、この概念が幅を利かせ、産業活動の全ての過程で、排出(エミッション)を無くそう(ゼロ)にしようという意味合いです。
元々の動機はヒトによる自然界への負荷を無くそうという、謙虚にも思えるものだったらしいのですが、現在ではRoHSやREACHなど様々な規制が必要という、性悪説の立場からの行動になってます。
シニカルな見方をすると、中央集権支配を容易にするための一神教を遍く敷衍し、産業構造から利潤を吸い上げるための金融市場を確立する欧米型の社会構造が産み出した世迷い言とでも云ったらいいのでしょうか。

日本でもゼロエミッションを標榜する企業、工場の実態は、廃棄物、排出物の処理担当部門を自社内の別会社にリサイクル(転嫁)したに過ぎないものが多く、キレイゴトに他なりません。真顔でゼロエミッションを語る御仁がいたら、頭を叩いてやりたいくらいです。
もし人間社会全体がゼロエミッションを目指すとしたら、それは即時的なヒトの衰退滅亡に繋がる最初の一歩であるのは間違いないように思うのです。
何故、こんな話を始めたのかというと、環境保全を無謬の善で有るかのように語る人たちが多いのに辟易するからです。欧米型の環境問題には、基督教の原罪という概念が色濃く影を落としています。衣食足りて礼節を知るという言葉がありますが、個人的には環境保全はこの礼節にあたり、決して疎かにしてはならないが、ヒステリックに騒ぎ立て、恫喝めいた規制や実力行使とは相反するものだと思うのです。
文明圏での人口爆発の問題を意図的に湖塗してるもので、つきつめれば、ヒトが増えることそのものがダメなのであり、ひいては、万物の霊長などという人間の尊厳めいたもの、ヒトという種の驕りが原因です。

極端な案かもしれませんが、いっそのこと人間社会(というかヒトそのもの)を成長期、繁栄期、衰退期に世代分けしたら良いかと思います。
かつての年齢別人口ピラミッドが、もはや生態モデルから逸脱したいびつなカタチになるなかで、社会のなかでの世代差による諸問題が数々露出しています。多民族国家が民族紛争に悩むような構造です。実際、ヒトという種のなかでも、上記の三つのグループにおいて、価値観や行動様式はまるで異なるのですから、明確に構造を分けることで、3つのグループそれぞれについての課題を明晰化し、互いに補い、押しつけ合うことでバランスを取るのです。当然グループ間での偏重、不公平は、盲目的に認めなければいけません。もちろん、個の物理的処遇や家族構造まで変える必要はありません。何かにつけてヒトの生物学的社会性の低さを指摘することが多い当ブログですが、遺伝子の乗り物、文化の継承者としてのヒトの役割が、個の寿命が増大し、個が触れる情報文化が膨大になるに従って。個の役割、特に義務や責任に於いて、意識が希薄になり、モラルの欠如や拝金主義など、ヒト社会の軋轢が加速しているようにも思います。
寿命が延び、一生のなかで触れる他の個体や文化情報が、爆発的に膨大になるなかで、単純な時間的な数値以上にヒトの寿命は無理矢理引き伸ばされている時代だと捉えます。かつてのムラ社会、3世代家族では、割と明確な世代間の区分けが存在しました。3つのグループに分けることで、それぞれの生き物としての役割を常に認識し、本来の能力を発揮しやすく出来ると思うのです。

ヒトは10代半ばまでには生殖能力を獲得します。生物的にはその年代からが、繁殖の時期です。実際に子供を設ける年代までの5年、10年、20年といったブランクは、繁殖の能力、エネルギーを、社会が、社会そのものの発展のために搾取している期間と捉えることも出来ます。社会のなかの個としての自我が、自我のみの成長、繁栄に囚われすぎ、自分自身は不変の個でありつづけながら一生を全うしようとすることと、種の繁栄は、おそらく一致することではありません。