テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

フクシマの遅々とした現状において、アリストテレスの言葉の破綻

2013-08-30 23:34:57 | シロートの戯言
人間は社会的動物である、拙ブログでも何回か引用し、哲学や世界史のなかで、誰もが一度は耳にしたことがある言葉です。元々はアリストテレスが著書『国家』のなかで、”zoon politikon”ポリス的動物(ポリスとはギリシア時代の都市国家)である、と述べたことが始まりです。ポリスはその属する市民を守る城塞、制度、律令その他を含む概念で、共同体と言い換えても良いかもしれません。他の生物が自らの子孫を残すことを至上命題とする、遺伝子の乗り物であるのに対し、ヒトは共同体の中でそれが発展することに貢献するようなカタチで本性(善性)を発揮する、というような考え方です。蟻や蜂の高度な社会性はそれが発揮される巣において女王は一匹、つまり、より遺伝子を伝えよう、遺そうという動機で進化発展してきた社会性です。人間の共同体は地域、言語、習慣、気質、思想、文化などを共有する巣を他の巣と明確に区別して、自らの巣(社会)を発展させようとするものだと思います。当然、遺伝子による動機だけではなく、社会生物学者らがミームと呼ぶ、情報単位が伝達継承進化していくことが前提になります。
同時に、現代的な国家は領土や国民、自治組織をもって、これら共同体を維持しています。当然、これらの構成要素が損なわれると、共同体とその成員は、その損傷を修復しようとします。島国である日本では、その意識は顕著で、自然災害や疫病などで、その版図が負傷したら、それを治癒することを至上命題として、発展してきました。数百年続いた封建社会が外圧で損なわれたとき、自ら変革することによって立ち直った明治維新、関東大震災、太平洋戦争、数々の台風被害、津波、阪神淡路大震災などです。
ところがフクシマ、特に、原発の損壊放射能漏れ事故に於いて、どうもその治癒能力に齟齬が生じているようです。
放射性物質にまみれた地下水や遅々として進まない除染作業など、予算や経済効率、根深い原子力利権などお金の倫理と為政の互助的な構造が、社会共同体の損壊を、意図的に放置しています。
今の日本の技術で水漏れしないタンクの製造や、地下水の漏水を阻止できないのは、明らかに異常な事態です。原子力ムラを含んだ東電の巨大な収益構造は、どうも、社会資産より、金融資産を優先する、おかしな状態になっています。膨大な利潤を追求するための偽りの安全神話の瓦解が、反利益的な放射能漏れ事故をアンタッチャブルなものにしてしまい、2年半ものあいだ、根本的な解決への転換を図れていません。
過酷なほどあふれるグローバルな情報が、却ってフクシマの損壊の重要性を、危機を薄めてしまい、本来フクシマが持っていた首都に最も近い1~2次生産拠点である役割を擬似的に他へ代用させて、目を背けているようです。
アリストテレスが述べた社会的動物であることは、本来、効率化のための道具であった金融、経済によって雁字搦めにされ、社会資産を保全することさえままならない、奇妙な社会を作り出しているのかもしれません。