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迷走する日本半導体 【連載】半導体一筋60年⑦

2024-07-03 05:30:42 | 半導体一筋60年

【連載】半導体一筋60年⑦

迷走する日本半導体

釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)

 

 

 

DRAMのつまづきで日本の凋落が始まった

 前号で述べたように、日本は微細化競争について行けず、先端ICの開発から降りる形になりました。が、それは長期凋落の過程の中でかなり後の事になります。1990年代半ばから日本の半導体は長期凋落へと向かいました。そのキーワードは「DRAM」です。

 

▲DRAMの外観(ロジテックINAソリューションズ(株)より)

 

「DRAMで世界最大の半導体王国となった日本は、DRAMにつまづいて凋落が始まった」と言えるでしょう。DRAMはパソコンの主記憶装置に使われますが、コンピュータの性能向上につれ年々大容量化しました。世代交代するたびに記憶容量は4倍になっていきます。

▲DRAMの世代交代〈(株)スクリーンより〉。1MDRAM(イチメガディーラム)とは100万ビットの容量を持つDRAMのこと


 NEC、富士通、日立、東芝などが世代交代の時期を捉えてトップシェアを取ろうとしのぎを削っていました。だが、日本勢がシェア争いをしている間に、韓国のサムスンがジワジワと台頭してきたのです。
 DRAM市場の特徴の一つは、浮き沈みが激しいことかも知れません。世代交代をしながら大容量化が進む過程において、製品の供給不足と供給過剰を繰り返しました。供給不足の時、価格は高値安定状態となって各社に莫大な利益をもたらします。逆に供給過剰になった場合、価格は暴落して各社は膨大な赤字を抱えることになりました。。
 1990年代になると、日本の半導体各社はこうした市況の不安定さに加え、韓国勢(サムスン電子、ハイニックス)の追い上げや、唯一生き残った米国DRAMメーカーのマイクロン・テクノロジーとの競争に苦戦することに。コスト競争で劣勢になっただけでなく、性能面でも優位性が保てなくなったのです。
 
日本から消えてしまったDRAMメーカー

 余談ですが、日本のDRAMの優位性が怪しくなり始めた頃のことですが、社内会議で大口需要先(パソコン・メーカー等)から入手した、サムスンの次世代DRAMのサンプルを分析した結果が報告され、チップサイズがかなり小さいという話でした。
 チップサイズが小さいと、それだけ低コストで作られていることを意味し、小さい面積で高性能を実現していることは、設計・製造技術が相当進んでいることを示唆しています。これを聞いて嫌な予感がしたことを今でも覚えています。
 大企業がようする数々の事業部門のひとつに過ぎない半導体部門ですが、さらにその一部に過ぎないDRAM事業がもたらす巨額赤字によって、企業本体の経営が揺らぎ始めました。
 ここに至って各社は「不安定なDRAM事業を何とかしたい。本体から切り離したい」と考え始めます。そして1999年12月、NECと日立のDRAM部門が本体から切り離されて合体し、エルピーダメモリという会社が誕生しました。
 さらに数年後には三菱のDRAM部門も合流します。エルピーダメモリは発足当初好調な滑り出しでしたが、数年の内に市況悪化に苦しむようになり、巨額の損失を出します。そして、ついに平成24(2012)年2月に経営破綻し、翌年にはマイクロン・テクノロジーに買収されるという結果になりました。
 他の半導体各社も不安定なDRAM事業から撤退し、ついに日本からDRAMメーカーは消えてしまいました。DRAMは年々大容量化を進めることで競争している訳ですが、その競争に勝ち残るためには、微細化に向けて巨額の設備投資を続けなくてはなりません。

東芝が開発したフラッシュメモリなのに…

 露光装置の価格がどんどん上昇して行ったことを前号で述べましたが、露光装置だけではなく他の製造装置の価格も上昇して行くので、微細化を続ける為には膨大な設備投資が必要になります。
 そのためには十分な利益を確保しなければなりません。赤字を出していてはとても設備投資などできません。こうして日本勢はDRAM戦線から離脱したのです。
 DRAMを放棄した各社は、半導体の売り上げを一気に減らしてしまいます。2015年の半導体売上ランキング上位10社の中に入ったのは東芝だけとなりました。東芝はDRAMからは撤退したものの、もう一つのメモリであるフラッシュメモリに力を入れて売り上げを伸ばしたからです。
 フラッシュメモリは画像データなどを記憶させるのに使われ、スマホには無くてはならいメモリです。元々フラッシュメモリは東芝の技術者が発明したものであり、これを大事に伸ばすのは当然でしょうが、世界でのマーケット・シェアはサムスンに大分水を開けられています。
 さて、DRAMを切り離したものの、それに代わり稼げる製品がなかなか見つからず、半導体部門の収益悪化は続きます。また、半導体の大口需要先が今までの家電やテレビなどのAV機器から、携帯電話、パソコンなどの情報機器へと移って行きました。
 
半導体売上ランキング上位10社に日本企業はゼロ

 ところが、日本はパソコン、携帯電話、スマホなどの情報通信機器については、海外で売れるような製品展開ができず、半導体の大口需要先にはなり得ませんでした。携帯電話に至ってはガラパゴス化などと言われるように、国際的に通用する製品を開発しなくなりました。国内で一定の市場があるので敢えて海外に出て行かなくても良いと考えたのでしょうか。
 その点、韓国は国内市場が小さいので初めから世界市場を目指します。その結果、サムスンの携帯電話は世界で1、2のシェアを持つようになりました。この様にして半導体の売り上げは、伸び悩み収益も低迷します。
 その結果、DRAM以外の半導体も切り離す動きが出てきました。日立は既述のようにDRAMを切り離しましたが、それ以外の半導体も切り離すことを検討し始めます。そして、2003年4月に同じく半導体部門の切り離しを検討していた三菱と共にDRAM以外の半導体を一緒にし、ルネサステクノロジーという会社を設立しました。
 さらに平成22(2010)年4月にはNECエレクトロニクスも加わり、社名をルネサスエレクトロニクスに変えました。富士通、松下等ほかの会社もそれぞれ半導体部門を分社化しただけでなく、主力工場を外資系企業に譲渡して、自分たちは特定の事業を続けるという道を辿っていきます。
 こうして、日本が先端プロセスの開発を降りる日がやってきました。ルネサスは平成21(2009)年の時点で世界初となる32nm(ナノメータ、1ナノメータ=10億分の1メータ)プロセス量産の目途をつけていましたが、翌年7月にこれ以上の微細化への投資負担があまりにも大きいとして、最先端プロセスはTSMCやグローバルファンドリー社などのファンドリー会社に委託することを表明したのです。こうして日本は微細化競争から降りたのです。
 調査会社Omdiaが発表した2023年の半導体売上ランキング上位10社に入った日本企業は1社もありせん。ルネサスが16位、ソニーが17位、キオクシア(東芝から分離したメモリ会社)が20位という結果です。まさに「むかしの光、今いずこ」です。

 

 

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】

昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)


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