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イムジン河の水清く 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(57)

2024-06-15 05:30:56 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(57)

イムジン河の水清く

坡州(韓国)

 

 

 板門店のある軍事境界線(38度線)を隔てて北朝鮮と接する最前線の地、坡州(パジュ)を訪れたのは、2009年2月10日のことだった。坡州は、現在人口50万の大都市で、市域に非武装地帯(DMZ)がある唯一の市である。

▲臨津江平和ヌリ公園の案内図の前で韓国の協力会社、代理店、ソウル駐在員らと共に


 
 市の北部臨津江(イムジン河)を臨む一帯は、臨津江平和ヌリ公園として整備され、多くの観光客や朝鮮戦争で離ればなれになった北に住む家族に思いを馳せる人々で賑わっている。私たちは、公園内を言葉少なに散策し、イムジン河に架かる臨津江鉄橋に辿り着いた。そこには、河に沿って張り巡らされた鉄条網に様々なメッセージが記された無数の紙片、リボン、太極旗などが貼り付けられていた。
 ハングルで書かれているので、私には読めないが、その光景が醸し出す、悲壮、暗鬱、怨念、怨恨、怨嗟、絶望…そして希望…分断された人々のありとあらゆる感情の渦が押し寄せてくるようで、言葉を失い、立ち尽くすばかりだった。

 そんな私を見て、30年来の友人である金泰錫氏が、幾つかの紙片のメッセージを翻訳してくれた。私の想像通り、そこに書かれたメッセージは、北への望郷の思い、離ればなれの親兄弟、友人、親戚に会いたいという願い、南北の平和統一を願う気持ち…だった。
 北の出身で、朝鮮戦争の時に家族と別れ別れになった過去を持つ金氏は、複雑な感情に突き動かされているのをまるで押し隠すように、淡々とメッセージの内容を説明してくれた。

 

▲金泰錫氏とイムジン河の両岸を繋ぐ臨津江(イムジン河)鉄橋の側にて

 

▲イムジン河沿いに張り巡らされているフェンスと有刺鉄線は、様々な願いや希望が書
かれた紙片やリボンなどで埋め尽くされている(筆者は左から2人目)

 

 

▲中国人が書いたリボンもある

 

 イムジン河を眺めながら、私の頭の中では、フォーククルセダーズ(フォークル)の『イムジン河』が流れていた。昭和生まれの人なら、フォークルの『イムジン河』を憶えているだろう。
南北分断の悲劇をテーマにしたこの歌は、作者不明の北朝鮮民謡として紹介されることが多いが、実際は、北朝鮮の朴世永が作詞し、高宗漢が作曲したものだ。1957年8月に北朝鮮の朝鮮音楽家同盟機関誌『朝鮮音楽』で発表されたというから、比較的新しい歌である。
 この曲の主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、「なぜ南の故郷へ帰れないか、誰が祖国を分断したか」を鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる悲しい内容である。しかし「イムジン河」は、北で注目されることはなく、韓国でも流行ることはなかった。

 ところが、昭和35(1960)年頃、朝鮮総連系の歌集に掲載されるや、在日韓国・朝鮮人に広まってゆく。フォークルが歌ったのは、昔、雑誌『ポパイ』や『ブルータス』に洒落たエッセイを掲載していた松山猛が付けた歌詞と彼のうろ覚えのメロディーをもとにフォークルの加藤和彦が編曲してまとめ上げたものだ。
『イムジン河』が流行った昭和45(1970)年頃、友人達とフォークソングのバンド活動をしていた私は、ギター片手にこの歌を歌ったものである。朝鮮半島分断の歴史をきちんと勉強していた訳ではないが、美しくもの悲しいメロディーとシンプルな歌詞に心動かされた。
 フォークル『イムジン河』は、その後、朝鮮総連から日本語の歌詞が「南」、つまり韓国に偏っているとのクレームを受け、「政治的配慮」により、レコードの発売が禁止されてしまう。それでも、折からのフォークソングブームで、綿々と歌い継がれてきたのだった。

▲南北を結ぶ臨津江鉄橋

▲公園内には、北朝鮮製品を扱う土産物屋がある

 

 私は2008年から2010年にかけて20数回韓国を訪れた。李明博政権時代(2008~2013)、李大統領は「成熟した日韓関係」を標榜し、野田首相(当時)と慰安婦問題で話がこじれたものの、2012年8月10日に韓国軍が竹島に不法に上陸するまで穏やかな日韓関係が続く。
 幸い私が韓国に通い詰めていたのはこの安定した時期で、後の盧武鉉、朴槿恵、文在寅時代のようなギスギスした軋轢は、少なくとも表面化してはいなかった。仕事上の付き合いとは言え、本音で考えをぶつけ合う韓国の人たちとは馬が合い、本当に気持ちよく一緒に仕事ができ、多くの友人を得ることができた。
 当時、ある企業と、樹脂と金属の複合素材を使用した新型APM(Automated People Mover=全自動無人運転車両システム)の共同開発研究・商品化に取り組んでいたので、「同じボートに乗る仲間」としてお互いに一蓮托生の信頼感があったように思う。

 新型APMの売り込み先のお客様(韓国の大手ゼネコン)とも西洋人とは全く違う(良い意味で)ベタベタでウエットな関係が心地よかった。なのに、これまで韓国について書くことを躊躇してきた。個人的には素晴らしい友人関係に恵まれているのに、日韓間で次から次へと生じる政治的軋轢に辟易してきたからである。
 世界の安全保障情勢は、これまでに無く複雑できな臭くなってきた。南北関係も、敵対
的なものへと傾斜し続けている。当面、南北間に雪解けは期待できないだろうが、臨津江
平和ヌリ公園の光景を思い出すと、胸が痛む。次回は、韓国での面白かった体験について書いてみたい。

 

             

  

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。

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