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ドッグイヤーの宿命 【連載】半導体一筋60年⑫

2024-08-08 05:27:45 | 半導体一筋60年

【連載】半導体一筋60年⑫

ドッグイヤーの宿命

釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)

 


▲グーグルのデータセンター(印西市)

 

成長産業は競争が激しい

 約60年間も半導体業界に携わってツクヅク思うのは、「本当に変化の激しい業界だった、心の休まる暇が無かったなあ」という事です。
 余談になりますが、就職先を卒論指導してくれた先輩(修士院生)や指導教授に勧められるままに三菱電機に決めましたが、先輩から「あの会社に北伊丹製作所と言う工場があるが、あそこだけは行かない方がいいよ」と言われた事を今でも覚えています。
 何でも先輩は既に就職している同期から聞いたとの事でした。何故かと言うと「あんな所に行くと長生きできない」というもっぱらの噂だというではないですか。
 私は電気メーカーで働きたいとの希望は持っていたものの、特別何かをやりたいわけでもなく、「研究開発のようなことが出来れば」という程度の気持ちでいました。入社して数カ月の研修期間が終了し、いよいよ配属先を決める時が来ました。
 予め配属先の希望を提出するのですが、必ずしも希望通りには行かない事は承知していました。しかし面接官から「君、北伊丹はどうかね? これからは半導体の時代だよ」と言われ時、「あの北伊丹か!これはやばい!」と思いました。
 しかし、何故か余り抵抗することも無く、怖いもの見たさと言うのか良くわかりませんが、結局北伊丹製作所に行く事になり、以来今日まで半導体と関りを持つ事になった次第です。
 入社当時の昭和39(1964)年、工場は出来て5年ほどであり、毎年赤字が続いているとの事でした。だから工場の雰囲気もピリピリして殺伐としていました。三菱電機が半導体へ参入したのは遅かった(多分5~6年遅れ?)こともあり、後発メーカーとしてのハンディを背負いながらの収益改善に、当時の幹部も必死だったでしょう。
 すでに述べたように1970年代後半から半導体は大きく伸びる訳ですが、それも順調に伸びていった訳ではなく、伸びたり落ち込んだりを繰り返していました。
 また全ての製品が同じように成長した訳でもありません。メモリ、マイコン、ロジック、アナログ、パワーデバイスといろいろな製品があり、それぞれ特徴がありそれらを同時に扱うのは容易な事ではなかったのです。
 メモリの中でもDRAMは年に50%以上伸びる事は珍しくなく、各社はその成長を見込んで設備投資を拡大していました。設備を増強して生産能力を拡大し、あるいは新規に工場を建設したります。
 しかし、各社一斉に増産した結果供給過剰になることもあるので、価格が暴落して巨額の損失を出す事になります。
 一般的に半導体は成長産業であると認識されていたので、新規参入する企業も少なくなく、世界規模での競争は激しいものがありました。その状況は当時も、今も変わりがありません。
 すでに述べたように、日本だけでもメーカーが20社近くあって国内での競争も大変な上に、米、欧、韓国、台湾との競争も厳しく、近年は中国が激しく追い上げて脅威となっています。さらにインドも半導体に本格参入する事を表明しています。

目まぐるしい技術革新

 半導体は技術革新により、新しい用途を生み新たな市場を生み出しています。半導体の技術革新とは具体的に言えば微細化の事であり集積度を高める事です。
 半導体の集積度に関しては、ゴードン・ムーア(インテルの創業者の1人)が提唱した「ムーアの法則」という経験則があります。それは「半導体の集積度は18カ月で2倍になる」と言うものです(一般の人は全く知る必要がない事ですが)。
 先端の半導体を開発しているエンジニア達は「ムーアの法則」を意識して、それよりチョットでも早いペースで集積度を上げようとします。最近は微細化のペースがややスローダウンしており、微細化の限界が近づいているという見方もあります。
 いま最先端の微細パターンを実現するために必須の装置は、これまで何度も触れて来た「EUV露光装置」です。これをつくる事が出来るのは、今のところオランダのASML社だけです。
 米中が先端技術の覇権争いをする中、米国はASMLが製造するEUV露光装置を中国に出荷しないように圧力をかけています。一方で、ASMLは先端ラインを構築中の日本のラピダスには協力することを表明しています。
 高集積度を進めることによりワンチップに多くの機能を持たせ、それを低電力・高速で動かせるようにした事で、昔は大型コンピュータでやっていた事を手のひらに乗るスマホでできるようになった訳です。
 昔はコンピュータを操作するのは特別な人でした。今は違います。アイコンをクリックするだけで、私たちは無意識のうちにコンピュータを使うことができるのです。
 メールをしたり、ネットで何かを調べたり、買い物をしたりできるのは、裏でコンピュータがやっているからです。

 

▲スーパーコンピータ(理研)

 

「三年ひと昔」の半導体

 市場の変化が激しい事、目まぐるしく変化する事が半導体市場の特徴です。技術革新、製品の世代交代、市場の変化、市況の変化など、どれを取っても非常に速く進んでいきます。
 今は余り使われませんが、「ドッグイヤー」という言葉もありました。人間にとっての1年は犬にとっては7年だという訳です。そういう意味で、半導体は「ドッグイヤー」の中で生きているのかも知れません。「十年ひと昔」と言いますが、半導体は「三年ひと昔」だと言われていたのです。
 この様なスピードが速く、且つ不安定極まりない事業は、伝統的な事業部門から見ると、異端児に映ったに違いありません。うまく当たれば膨大な利益をもたらすのに、次の年には信じられない程の損失を出す。それが半導体メーカーの宿命です。
「この様な事業は、当社がやるべきなのか?」
 そう思った役員も少なくなかったでしょう。
 半導体をやっている人間はひがみ根性から「士・農・工・商・半導体」と自らの立場を揶揄したこともありました。会社の中での立場を自覚しての事でした。
 これは重電系の会社だけではありません。通信系(NEC、富士通、沖)家電系(松下、三洋、シャープ、ソニー)の各社でも同じことです。業界活動を通してこれらの会社の人達と付き合っていて、同じ立場を嘆き合ったものです。
 この様に変化の激しい事業は、日本の経営方式では対応が難しいかもしれません。設備投資ひとつ取っても、ボトムアップで上へ上げて行き最後に取締役会で決定するというやり方はとても時間がかかり、投資のタイミングを逸する事はしばしばあったことでしょう。
 工場が出来上がる頃に不況に突入し膨大な損失を出すという訳です。半導体に限らずIT産業は、例外なくこの傾向にあるのではないでしょうか。スピード経営に徹しなければ、とても世界と競争できない。それが私の実感です。

 

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】

昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)


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