■歴史読物■
▲川瀬巴水・作「池上本門寺」
【連載】池上本門寺と近代朝鮮
東京都大田区の池上本門寺は、身延山と並ぶ、重要な日蓮信仰の本山だ。この池上本門寺こそ近代朝鮮と意外に大きな関係を持つ寺院なのである。本堂がある小高い山につながる96段の石段は美しい。「昭和の広重」と呼ばれた版画家、川瀬巴水もこの石段を描いたほどだ。この石段を寄進したのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐に従軍し、虎退治で有名な戦国武将の加藤清正である。清正の武士道精神を慕って日本についてきた朝鮮人がいた。名を「金宦」という。清正が亡くなると、金宦はその恩義に報いようと殉死する。二人の墓は熊本市の本妙寺にあるが、池上本門寺には近代朝鮮と関係の深い7人の墓がある。一体、誰が眠っているのか。そこには意外な人物が…。
▲日本統治時代の朝鮮全図
■第5回■日韓国交正常化に尽くした保守政治家
大野伴睦 (おおの ばんぼく 1890~1964)
田中秀雄 (近現代史研究家)
大野伴睦という政治家は本質的に戦後を代表する保守政治家である。敗戦後の日本をいかに立て直すかの難題を背負わされた政治家の代表の一人として論じられるべきだろう。しかしその政治家としての出発の経緯などを見なければ、その正確な理解もままならない。
大野いわく「私は議会政治発足の年に生まれた」。明治23(1890)年のことで、出身は岐阜県山県郡谷合村(現山県市)、純粋な山村である。実家は素封家で父は村長もしていた。伴睦は四男坊で、弁護士になろうという青雲の志を持って上京してきた。
彼を政治家志望に翻然と変えたのが、大正2(1913)年の第一次護憲運動である。山県有朋や桂太郎による政治は藩閥による私物化だと批判する運動である。熱血青年だった大野はこれに共鳴し、桂内閣を打倒しようという日比谷の大デモンストレーションに参加し、アジ演説をやって警察に逮捕された。
これが縁で、政友会とつながりができる。政友会の院外団の一員となり、まもなく政友会総裁の原敬の目にも止まった。原敬は地方での党大会に大野を連れて行くようになり、果ては北里柴三郎、水野錬太郎など、貴族院のそうそうたるメンバーが集う「交遊倶楽部」の書記長という職を斡旋してくれた。北里は大野が東京市会議員に立候補するときに手助けをしてくれることになる。
晩年まで親しかった鳩山一郎との出会いもこの時代である。大正11(1922)年に東京市会議員となり、初めて代議士となるのは昭和5(1930)年である。ときあたかも戦争へ向かう時代であった。戦時中は大政翼賛会の推薦を受けない選挙をしたために、大野は落選の憂き目に遭っている。しかしこのことが、戦後彼がパージされずに、連合軍の占領下で活躍できたことに繋がっている。
戦後すぐに鳩山一郎は日本自由党を大野らと共に設立し、その初代党首となる。昭和21(1946)年、戦後最初の総選挙で自由党は第一党となり、鳩山は組閣の準備をした。しかし鳩山はパージされて、新たな党主として吉田茂が抜擢され、第一次吉田内閣が発足する。大野は自由党の幹事長となって、吉田を補佐することになる。吉田は外交が得意だが、党務になると全くの苦手である。その点、大野はうってつけの人物だった。吉田も大野に感謝した。
それからの大野は保守政治家の重鎮として一目置かれる存在となり、昭和30(1955)年の保守合同(自由民主党発足)でも中心的な役割を果たした。この合同は当時喧騒を極めていた左翼運動に対する危機感を反映したものである。
大野は政治家としての長い経験をもとに、政治家としての自分の使命をこう述べている。
「議会政治や政党政治が軌道を外さないように、保守党が分裂や内争でつぶれないように、党内を取りまとめ、また官僚政治家が往々にして持つ冷たさに対して、政治や行政に大衆感覚を、人間的な温かさを注入することだと考えている」
「人間的な温かさ」、まさにこれが対韓国問題でも発揮した大野の真骨頂なのだろう。
戦後、朝鮮は日本から独立し、昭和23(1948)年には、38度線の南北にそれぞれ独立国ができた。いわゆる冷戦の時代が幕を開けたが、2年後に北朝鮮の侵略により、朝鮮戦争が起こった。
日本国内では共産党が武装闘争を展開し、左翼朝鮮人たちがこれに協力している時代だった。しかし韓国は一応自由主義国の一員であり、「防共」という観点からは、日韓両国の国交は正常化しなければならないと考えられていた。朝鮮戦争の最中から国交交渉は始まっていたが、大野は正常化に乗り気ではなかった。朝鮮人たちに殴られて歯を折られたので、反感を持っていたからである。
戦後、日本の統治から離れたために在日朝鮮人は、法律から自由な「第三国人」となった。そのために無法を極める朝鮮人たちが少なくなかった。鳩山一郎も遊説に出かけようとする上野駅で彼らに汽車から追い出された。席を離れない老人が棒で殴られるのを目撃した鳩山は、これを大野に話したのだろう。大野は朝鮮人犯罪を取り締まる必要があると演説した。これが原因で逆恨みされ、宿舎である名古屋の旅館で襲われたのだ。
大野と親しく交際していた児玉誉士夫は国交正常化に熱心だった。自民党を牛耳る重鎮の大野が反対していては正常化が進まない。
「大野さんの体験は個人のものだが、関東大震災の時に朝鮮人たちが虐殺されたのをどう思いますか」と児玉は言った。そうすると大野は翻然として、「自分が間違っていた、児玉君、君の言う通りだ」と述べた。
昭和37(1962)年、5度目の自民党副総裁の時、彼は来日した金鐘泌韓国中央情報部長と会見し、その年の12月、韓国を訪問した。翌年12月には、朴正熙大統領就任式に特派大使として派遣された。その翌年、力を使い果たしたかのように大野は亡くなった。東京オリンピックの年である。
そして翌昭和40(1965)年6月に日韓基本条約が調印されるのだが、児玉は「官僚や普通の政治家ではなし得ない、いわゆる腹芸で日韓国交の基礎的な問題を解決してしまった」と大野を高く評価した。大野は正常化交渉の黒子(くろご)として尽力していたのである。
関東大震災における朝鮮人虐殺問題に関しては拙著『優しい日本人、哀れな韓国人』を参照して欲しいのだが、大野伴睦の伝記にある年譜の大正12(1923)年の出来事の項には、関東大震災と難波大助の摂政(昭和天皇)狙撃事件の二つが挙げられている。つまり当時は君主制を打倒するのが正義だと考える過激左翼思想、そしてそれを実行しようとする人々が大手を振っていた時代だということを述べるに留めておこう。
個人的感情を越えて、「人間的な温かさを注入する」――これこそが日韓問題を解決する唯一の方法だと大野は考えていたのに違いない。
池上本門寺にある大野伴睦の墓はユニークである。墓の手前に身構えて吠える大きな虎の像があり、伴睦夫妻の墓を守っているかのようだ。寅年生まれの大野は虎の置物が好きで、たくさん集めていた。これはその所蔵品の一つである。
墓石の左側には「日蓮の功徳極楽百千鳥」という石の句碑が立っている。大野は「万木」(ばんぼく)という俳号も持っており、俳人としても名が知られていた。鎌倉長谷寺にある「観音の慈顔尊し春の雨」という句碑は有名である。
▲寅年だった大野の墓を虎が守る
▼大野夫婦の墓
田中秀雄(たなか ひでお)さんの略歴】
昭和27(1952)年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。日本近現代史研究家。映画評論家でもある。著書に『中国共産党の罠』(徳間書店)、『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(以上、草思社)、『映画に見る東アジアの近代』『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』(以上、芙蓉書房出版)、『優しい日本人哀れな韓国人』(wac)ほか。訳書に『満洲国建国の正当性を弁護する』(ジョージ・ブロンソン・リー著、草思社)、『中国の戦争宣伝の内幕』(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著、芙蓉書房出版)などがある。