【短期集中連載】
噛んで延ばそう健康寿命(上)
医療ジャーナリストの油井香代子さんが「東京新聞」に2016年10月~2017年3月まで13回連載した健康コラム記事を3回(上・中・下)に分けて掲載します。なお編集上、必要でない部分は削除しました。
油井香代子(ゆい かよこ)さんのプロフィール
長野県生まれ。信州大学人文学部卒業後、明治大学大学院修士課程修了。医療・健康・女性問題について新聞や雑誌などに執筆する。また、テレビやラジオなどで医療問題を中心にコメントや解説も。2007年よりイー・ウーマン「働く人の円卓会議」議長。最近は、高齢社会の医療をテーマに寄稿、講演活動も行う。著書に「医療過誤で死ぬな」(小学館)、「あなたの歯医者さんは大丈夫か」(双葉社)など多数。
最後の9年は要介護?
敬老の日、とげぬき地蔵で有名な巣鴨の高岩寺境内で、「健康ガムカムダンベル体操」が催された。1999年から毎年開催されている健康イベントで、歯や入れ歯に付きにくいガムを噛みながら、木製のダンベルを使って体操をする。主な参加者は高齢者だ。
「噛んで運動することは体にいいし、認知症予防になるというので参加しました」。近くに住む男性(77)はこう話す。今でも25本の歯が残っていて、何でも噛んで食べられるという。
港区からやって来たという女性(75)は、5カ月前に股関節の手術をして、現在リハビリ中だ。「噛みながら体を動かすと、いつもよりスムーズになる。すっきりしました」と話す。
この体操は、噛む力と自立した生活を送るための基礎体力づくりに効果があるという。考案者は故鈴木正成・筑波大学名誉教授。運動栄養学が専門でプロスポーツ選手の栄養指導を行ってきた。
最近になり、噛むことが高齢者の健康に大きく関わっていることが分かってきた。噛む力、咀嚼力が高いほど、転倒や認知症のリスクが低下し、寿命も延びるというのだ。
最新の世界保健機関(WHO)統計(2016年発表)によると、日本人の平均寿命は83.7歳、健康寿命は74.9歳と、8.8歳の開きがある。健康寿命とは、介護や医療の世話にならずに生活できる寿命をいう。つまり、9年近く入院や介護が必要になるということだ。
高齢になってもできるだけ自立して、元気で暮らしたいというのが、多くの人が望むところだろう。このコラムを通し、噛むことが健康長寿に大きく関係することを医療・介護の現場を通して報告していきたい。
寝たきり状態から回復
歯科の医療現場では「噛む治療」で高齢者が元気を取り戻す例が次々に報告されている。
今年(編集部注=2016年)8月、権威ある米国歯科審美学会(AAED)年次総会で、日本の歯科医師の講演が反響を呼んだ。講演者は大分県で開業する河原英雄歯科医師。寝たきり状態の女性=当時(82)、歩行困難な男性=同(81)が治療で噛めるようになり元気を取り戻す様子をVTRで報告した。
「胃ろうや人工栄養で衰弱していた高齢者が起き上がり、歩き出す姿が紹介されると、会場は拍手の嵐でした。嚙める治療の重要性が歯科先進国の米国でも認識され始めています」
講演会に参加したAAED会員の河津寛・河津歯科医院(東京都新宿区)院長は話す。
紹介された症例は、脳梗塞で入院し、退院後も自宅で寝たきり状態だった男性Aさん、福祉施設に入所する目の不自由な女性Bさんなど。
Aさんは入れ歯が合わずに3年間噛めず、話せない状態だった。家族が何とか口から食べさせたいと、河原先生の歯科医院を受診。歩行は介助があっても不可能で、顔つきもぼんやりし、口元が半開きだった。長い間、噛むこと、歩くことを忘れていた様子だったと河原院長は話す。
「治療は、薬も点滴も使わず、噛めるようにしただけです。合う入れ歯を入れて、口を開ける、ガムを噛むなどの口腔リハビリを行いました」
歯科医、歯科衛生士、介護スタッフ、家族が一丸となった取り組みで、Aさんは口から食べるようになり、次第に元気を取り戻し、3年ぶりにリンゴを食べて「おいしい」という言葉を発した。そして、4カ月後。Aさんは一人で歩けるようになり、笑顔であいさつし介助なしで医院の階段を下りるまでに回復したのだ。
合う入れ歯で激変
河原英雄歯科医師が米国歯科審美学会(AEED)に報告した症例を紹介したが、他にも米国の歯科医師たちを驚かせた症例がある。
福祉施設に入所する女性Bさん(82)は、目が不自由で歩けないため車いすを使用し、一日の大半はベッドで横になる生活だった。入れ歯が合わないため、噛んで食べられず、食事はミキサー食や軟らかいものだけ。河原先生は1時間ほどかけてBさんの入れ歯を調整して噛めるようにした。入れ歯を入れたとたん、Bさんはリンゴ、ピーナツ、いなりずしを次々に食べ始めた。2か月後、介護施設内の廊下を、手押し車を押して走り出すBさんの姿があった。
「Bさんの食事は普通食に。食べることで体力と気力が出て、歩くリハビリを開始しました。介護スタッフの努力もあり、ここまで元気になりました」と河原さん。
噛んで食べることで元気になることは、これまでも多くの調査や研究で知られてきた。しかし、臨床現場での症例報告にはほとんどつながらず、4~5年前から少しずつ報告されるようになった。
河原さんが主導する「噛める治療」の勉強会には、全国から約300人の歯科医師が参加、同様な症例が各地から報告され始めた。
薬や点滴を使わずに噛むだけで元気を取り戻すのはなぜなのか。
噛み砕く機能と健康の問題に取り組む、歯科の臨床系学会である日本顎咬合学会の上濱正理事長は「噛んで食べることで、脳が活性化し、意欲や運動能力が高まることがわかっています。さらに栄養は点滴や流動食よりも、口で噛んで食べるほうが摂取されやすいのです。嚙めるようになったことで栄養不足も解消され、気力や体力がついたことが、回復の大きな理由だと思います。健康長寿は“健口”長寿といえます」と話す。(つづく。次回は1月13日)