【連載】呑んで喰って、また呑んで⑪
ステーキ天国で夢心地
●アルゼンチン・ブエノスアイレス、ウルグアイ・モンテビデオ
「ギャ、ギャオ~」
私の口から断末魔の叫びが上がった。右脚を押さえながらベッドの上をのたうち回る。息ができないほどの痛みだった。そう、こむら返りに襲われたのである。
「だ、大丈夫かよー?」
隣のベットで寝ていた週刊誌記者が心配そうに私の顔をのぞき込む。しばらくして痛みが納まったが、全身は脂汗でびっしょりである。それは1982年のことだった。場所はアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスのプラザ・ホテル。フォークランド戦争の取材で滞在していたのである。
さて、このこむら返りの原因だが、薄々分かっていた。何を隠そう、ステーキの食べ過ぎである。人口の倍以上の牛がいるというアルゼンチン。言うまでもなく、ステーキの値段はバカみたいに安い。ステーキ大好きの私にとって、この国は天国以外の何ものでもなかった。
さすが朝食はトーストとコーヒーだけだったが、昼、夜、そして夜食とステーキばかり。一日に2キロは食べたろうか。そんなわけで、私の血液はギトギト状態になっていたに違いない。アルゼンチンが誇るメンドーサ産の赤ワインも毎日最低5本は空けた。無茶が祟り、滞在1週間目にしてマグニチュード7クラスのこむら返りを起こしたというわけである。
これで懲りればいいのだが、ステーキの誘惑には勝てなかった。貧乏人の悲しい性なのか、結局、アルゼンチンがイギリスに敗れる日までの3週間、ステーキ三昧の日々が続く。
ところで、途中、日本の出版社からの送金受け取りに、隣国ウルグアイの首都、モンテビデオに飛んだ。なぜ、ブエノスアイレスの銀行に送金してもらえなかったのか。
当時のアルゼンチンは超インフレで貨幣価値が日に日に下がっていので、確かドルで送金してもらっても、アルゼンチン・ペソでしか受け取れない。えらい損だ。そんなわけで、米国系銀行支社のあるモンテビデオに送金するよう出版社に頼んだ。飛行機代を使っても、そのほうが得だったからである。
銀行でドルを無事に受け取った。もう正午をとっくに過ぎている。腹が猛烈に減った。昼食をとろうと、街を散策していると、客で混雑している大衆料理屋が眼に入った。
こんな店は美味いに決まっている。大半の客がステーキを頬張っているではないか。ここウルグアイもステーキが安いと聞いていた。もちろん、私も太ったおばさんウエイトレスにステーキを注文する。ついでに赤ワインのボトルも。
運ばれてきたステーキに待ってましたとばかりにかじりつく。そして、肉片を流し込むようにワインをがぶ呑み。肉汁が口元にまとわりつくので、手でぬぐう。このときの私は、完全にガキになっていた。ウルグアイのステーキも、アルゼンチンに負けず劣らずだ。
アルゼンチン滞在も中盤を過ぎた頃、日本大使館に勤務する駐在武官(海上自衛隊)が帰任するので、送別会が日系人経営の農場で開かれ、私も沼待された。ブエノスアイレス郊外の農場に着くと、なんと牛一頭が丸焼きにされて出てくるではないか。牧童たちが 一昼夜かけて焼いたという。
こんがりと焼き日のついた肉片にむしゃぶりついたときの感動は、そりゃあもう、筆舌に尽くせない。肉汁が□中に広がって、ああ、もう、たまらん。赤ワインもすすむ。ビーバ・アルヘンチーナ(アルゼンチン万歳)!
ところで、アルゼンチンがどうしてイギリスに負けたのか。
昔から美食家の多い国は戦争に弱いというのが定説だが、アルゼンチンも例外ではなかった。イギリスの機動部隊を迎え撃つため、アルゼンチノ海軍はマルビナス(フォークランド)守備隊にワインと牛肉を満載した輸送船を真っ先に送り込んだという。負けて当然だったのかも。