【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」㉞
アメリカに住む高校生の孫(娘の次女)が、アルバイトを始めていると言っていたのは、昨年の冬であったろうか。日本で言えば、大学受験に向けての勉強に忙しい時期のことである。そんなことをしていて良いのだろうかと、聞いてみると、
「うん、5校ほど受かっているから」
大学への受験の仕方は日本とアメリカで、違いもあるようだ。日本でいうセンター試験のような全国統一のペーパーテストがあって、これは複数回受けられる。大学ごとではないだけで、公立も私立も必須のテスト。その点数を希望する大学に送ることになるが、どの大学も願書提出・申請、合格発表もすべて、オンラインで処理される。
GPAという通知表のABCと高校4年間の通算成績が大きくものを言う。だから、間際になっての猛勉強は全く通用しない。希望する大学には、日本でいうオール5を4年間通すくらいの成績がいる。他にもエッセーが必要で、テーマは大学の指示に従う。自分がどんな人間か、それまでの学生生活をスポーツ、ボランティアなどのエピソードも必要で、勉強だけをしてきた人は落とされる。
推薦状も不可欠だ。日本と比べると、アメリカの大学の授業料はとても高いので、学資補助申請を大半の人は出すが、全額免除は殆どない。大学選びには、学びたい分野とか、卒業後の就職率の良さ・収入のランキングとか、学資補助の率の、より高い方を選ぶとかが、考慮の対象となる。
ところで、この次女の件で、私の早合点のエピソードがある。孫が生まれた時点で私が娘に言ったことは、「日本語も話せない子にしないで」だった。顔つきはハーフなので、日本語が話せなくても、異を唱える人はいないかもしれない。だが、アメリカに住んでいて日本人の顔をしていても、全く日本語を話せない子供を見ることもあるからだ。孫たちは現地の学校と日本語学校(日曜日だけ)への2本立てであった。娘はそこで高校生に数学を教えていていた。
小学生を受け持っている先生仲間から、「MIKAちゃんが宿題をして来ないけど」との、報告があったという。私はこの話を聞いて、「あぁ、娘は呑気な子を持って苦労するな」と思ったものだ。長女のAYAKOが日本の大学に進学を決めた時点で、
「MIKAちゃんは、どうするのかな?」
と、AYAKOに聞いたことがある。
「MIKAは大丈夫。私よりずっと成績が良いから、アメリカの希望する大学に余裕だよ」
の返事。
どうやら、長女のAYAKOは文系で日本の大学を選び、次女のMIKAは理系でアメリカの大学を選んだことになる。私にはよく分からないが、それぞれが思うところがあっての大学の選択をしていることに、安堵をした。5月に入ってすぐ、LINEでの娘とのやりとりで、MIKAが一番に希望した大学へ進むことが分かった。
学校の校庭で笑っている孫の写真が送られてきたのは、4月の半ばだった。ハドソン川を挟んで向こう岸にマンハッタンのビル群が並ぶ。学校の校庭で、笑っている孫の写真が芝生の緑も鮮やかでチューリップやパンジーなどの花も植えられており、見るからに好感がもてるキャンパスだ。
「MIKAちゃんの学校、決まったのね~」
「うん、決まった」
「あの写真を送ってくれた学校だね?」
「そうだよ」
MIKAは受かっている学校の下見のためにあちこちに出向いていて、ワシントンDCまで行ったこともあるようだ。ここは、アメリカの首都で、ホワイトハウスがあったりして、政治の直轄地でもあるが、私の偏見と個人的な感情では、住んだり生活をするには、あまり好きな地区とはいえない。娘の家からは車で3時間ほどかかる。
そんなわけで、MIKAが一番に望んだ学校は、ニュージャージー州のS工科大学だった。家からは車で1時間半くらいである。この学校を4月に下見をした時に、ロゴ入りのTシャツを購入しておいたそうだ。学校が決まった時点で、選んだ学校のTシャツを着るというのは、学生たちの「お決まり事」らしいが、その孫の姿をフェースブックでも見ることが出来た。
アメリカ全国で大学を決める日は5月1日で、その日の写真が後にLINEで送られて来た。一緒に学ぶことになる10人の生徒たちとの写真、同じ学校から行くことになった友達と大学のマスコットを間に挟んだ写真、母親とのツーショット、それらの背景には、青空の下にハドソン川とマンハッタンのビル群がある。どの顔も晴れやかで笑顔が満ち溢れている。あ~、良かったねぇ~。希望通りの学校で。
日本でなら、車で1時間半は、家から通うのも可能に思われるが、アメリカの大半の大学では、新入生に対して、ほぼ寮生活を義務付けている。理由は勉強に忙しくて、通学の時間がもったいないのだそうだ。日本の大学は難関を突破すれば、ほっとすることになるが、アメリカでは入学してからの勉強がとてもハードなのだ。少しでも怠けていれば、落第するリスクとなる。
ここで30年以上も前、娘が留学することになった経緯を思い出した。夫にニューヨークへの転勤の話が出た時、娘は高校2年生。都内にある学校で中・高一環の進学校だったので、大学受験が一大関心事であった。留学も含めての学校選びの話を先生に相談することになるのだが、娘は英語が得意科目ではなく、理数系の学科が好きだった。
先生は家庭の事情も考えたのか、「だったら留学を進めます」とのこと。理数系は世界共通なので、成績を取るのに苦労はしないだろうし、英語は住んでいれば問題もなくなるだろうから、という理由だった。娘が留学をするか、日本の大学にするかは、本人が決めることである。
「留学をするなら最低2年間、泣き言は禁止、英語もろくに話せなくて日本には帰らないこと」
と、私は言った。当時留学が流行り出していたが、それが飾りのようになって、英語はろくに話せず、遊びだけ覚えて帰る多くの連中を見聞きしていたので、懸念して言ったのである。
娘が高校を卒業するまでは、夫はニューヨークで単身赴任をしていた。学校選びはなるべく日本人が少ない大学を、ということでニュージャージー州の知人に選んでもらった。娘はTOEFLのスコアアップの努力や選んだ学校への書類の提出などの準備に勤しんでいた。学校も決まって、さて9月の入学という矢先、夫はロサンゼルスへの転勤に。つまり娘の学校は東海岸、夫と私は西海岸。息子だけが日本の学校と、一家離散という有様になってしまった。
娘が初海外へ旅立つというのに、成田空港もたった一人で出発、ケネディ空港への迎えは会社の後輩に頼むことになった。もちろん、初対面であったし、運の悪いことに、到着が4時間も遅れるというアクシデントがあった。なんとか対面できた時の安堵感や、学校の寮へたどりつくまでの心細さなどは、後々になってから知ったことである。
この当時のことを考えると母親である私の何と非情だったことか。我が家に次々と起こる一家の一大事、夫の下での慣れない私自身の海外生活、うまく対応しきれていなかった。
娘は日本にいる間は、女子高で花園の中にいるような環境から、胸弾むはずのアメリカ留学、いざ、始まってみると、たくさんの試練が次々と待ち構えることになっていった。初めての大学の寮生活は、トイレもシャワーを浴びるにも、日常の細々した行動も、慣れない場所や使い方などを誰も教えてはくれないので、自己をしっかり持っていなければならない。
黒人だけでなく、黄色人種としての差別もあった時代でもある。寮の同室になる生徒のことは、自分たちで選ぶことは出来なかったようで、運の悪い人はいつの間にかカードの番号を見破られてしまう危険もあったという。
学食の食べ物の好き嫌いも言ってはいられない環境で、苦手も克服できたことは良かった。服装などは、日本の女子大生のようにブランド物には用がなく、GパンにTシャツが定番であった。貧乏学生にはありがたいことだ。外人である娘の苦手な教科はやはり英語であったようで、日々の勉強は分厚い参考書などとの戦いでもあった。
1年間の寮生活を終えてからは、数少ない日本人の友達とルームシェアをするようになったが、それも白人のエリアとは異なり、治安には問題があった。娘の車の窓ガラスが壊されて車内を物色されたという。
部屋に起こる不都合なこと、例えば鍵のことや、水回りなどの修理を頼んでも、まず約束の時間が守られないのは、当たり前のようである。懲りて白人の友達とシェアをすることによって、問題の軽減を図ることが少しは出来た。しかし、こうした問題などは、後になってから聞かされて知った。
引っ込み思案だった娘も、だんだん環境にも慣れてアジア人ばかりではなく、ヨーロッパ人なども含め多くの外人仲間ができた。その仲間たちと、私たちがロサンゼルスにいる間に、東海岸から西海岸へのアメリカ大陸横断も経験した。炊飯器を乗せて交代で運転をしながらの10日間ほど、貴重な体験であったようだ。
断片的に思い出したことを書いているが、娘の学生生活も2年が過ぎると、大学を卒業するまでは頑張りたいとなった。ある人が言ったのだが、日本人がアメリカの大学に入るのは意外と簡単、しかし4年で卒業することは、かなり厳しいことなのだと。
さて、夫の勤務は日本へとなり、娘は1人でアメリカに残って学生生活を続けることになった。当時は海外への電話代も高くつくので、私たちが日本に戻ってからは滅多に連絡を取ることもなくなった。そんなある時、娘からの電話が。
「お母さん、英語でAが取れた!」
「へぇ、良かったね」
そう私が言うと、
「私はここでは外人なんだよ!」
と、娘は不満そう。
褒め方の度合いがまるで足りなかったようだ。
頑張った娘も4年で卒業できることになり、その式典に参加するため、私は娘の所に出向いた。一度も学校へは行ったことがなかった私を、ニュージャージー州、トレントンにある学校の広い構内を車で案内してくれた。ある建物の前に来ると、
「ここで、泣いたっけ」
と、娘がポツリとつぶやいた。
「えっ!泣いたの? 知らなかった!」
「お母さんが、泣き言を言うなって……頑張ったよ」
えー、そんなこと言ったっけ。私は、なんと非情な母親だったのだろう。
今、孫たちは英語・日本語と言葉には問題もなく、上のAYAKOは日本での大学生活を謳歌している。下のMIKAは、希望どおりの学校が決まり、親と離れて寮生活をすることに、憧れているようだ。時代の移り変わりは、情報の伝達なども恐ろしく進んでいて、どんなに離れていても、まるでお隣にいるかのように、顔を見ながら会話が出来る時代となった。AYAKO、MIKA、こうなれたのも、あなたがたのママの苦労が下地にあったことを、心の片隅において欲しいものだ。