【連載】藤原雄介のちょっと寄り道⑱
あれは「人種差別」だったのか
マドリード(スペイン)、ウイーン(オーストリア)
人生で3回人種差別を受けた。確証はないが、状況から判断して人種差別的な扱いだったことは否定できないだろう。ちなみに「人種差別」をグーグル検索すると、膨大な数の記事が表示される。人種差別の定義、人種差別の歴史、人種差別をなくすにはどうすればよいか、各国の人種差別事情など、総ての記事を読むには、いくら時間があっても足りない。
私がスペインに留学中(1973ー1974)のことだ。ある金曜の夜に、留学生仲間5、6人で洞窟の様なMesón(メソン=居酒屋)でいい気持ちに酔っ払った私たちは、ディスコに繰り出した。
最初に行ったディスコは長蛇の列だった。入り口には、ハリウッド映画でよく見るような体格のよい、警備員らしき男が2人立っている。やっと私たちの番になった。ところが、警備員のひとりが私に向かって信じられない言葉を浴びせた。
「あなたは、入場お断りだ」
「¿Por qué?(えっ、どうして?)」
私と友人達は反射的に同じ言葉を返した。
「長髪で、ジーンズだからだ。ドレスコードに反する」
その警備員は、無表情に答えた。
仲間の中でただ一人の非白人だった私は、ヒッピーまがいの長髪で、Tシャツに上下ジーンズ姿だった。
「えっ、何それ?」とフランス人の友人が喰ってかかる。「何で彼だけ入れないの? 俺も長髪でジーンズだよ!」
他の友人達も一斉に抗議したが、「ダメなものはダメ!」と、取り付く島もない。
「こんな店、誰が入るか! さっ、行こうぜ!」
悪態をつきながら私たちは、店を後にした。
そして、2軒目の店でも同じような扱いを受けることになる。私だけが入場を拒否されたのだ。酔いも覚めた私たちは、ディスコは諦めて近場のbar(バル)で飲み直した。
「信じられない! ジュスケ(度々言うが、ユウスケのスペイン語発音)だけが入れないなんて! 今時、人種差別かよ! ジュスケ、気にするな。あんな奴らがいるなんて信じられない!」
友人達は、私以上に憤慨していた。勿論腹が立っていた私だが、同時に「悔しい」「信じられない」「、悲しい」という複雑な感情に捕われたのを今も覚えている。そんな複雑な思いで、私たちは、明け方まで安葡萄酒をあおり、明け方まで騒ぎ続けた。
スペインは私の憧れの国であり、初めて長期間暮らした国でもある。だから、多くの友人にも恵まれていた。一般のスペイン人は非常に親日的で「ディスコ入場拒否事件」以外に嫌な思いをしたことは一度もない。この文章を書きながら、今更ながらディスコに入れなかった理由が気になり、なんとなく当時の世界情勢を調べて見た。すると―
1973年7月20日、後に「ドバイ事件」として知られる日本赤軍によるパリ発アムステルダム経由羽田行きの日航機ハイジャック事件が起きている。ひょっとしたら、この事件のせいで、東洋人に対する警戒意識が高まっていたのかも知れない。当然、この事件はスペインでも報道されていたはずだが、今ほど国際情勢に敏感ではなかった私は、ディスコに入れなかった理由とハイジャックを関連付けるような思考回路を持ってはいなかった。
あれは人種差別だったのか、それともハイジャック事件のとばっちりを受けたのか。恥ずかしながら当時の私は青春を謳歌するのに忙しかったのだろう、ハイジャック事件とディスコ入場拒否を関連付けて考えることはなかった。今となっては、真相は闇の中である。
▲ヒッピーまがいの長髪だった筆者。アルハンブラ宮殿で
オーストリアのウイーンでは、今思い出しても胸くそが悪くなる不愉快で不当な扱いを受けた。ポーランドのグダンスク港向けの石炭荷揚げ機械の商談で何度かワルシャワに飛んだが、乗り継ぎの為、ウイーンで一泊する必要があった。
ウイーンには、いくつもの枕詞がある。「音楽と芸術の都」「ハプスブルク帝国の都」「宮廷文化が今も華麗に息づく美しい街」……。正にそのとおり、他の欧州の街とは明らかに違う威厳と重厚感のようなものが漂い、威圧感さえ感じてしまうような素晴らしい街だ。
しかし、乗り継ぎの為に立ち寄るだけなので、観光の時間などない。ウイーンで過ごす初めての日は、古いカフェでウインナーコーヒーとザッハトルテ(ウイーン発祥のチョコレートケーキ)を楽しんで、夕食はウインナーシュニッツェル(ウイーン風仔牛のカツレツ)を食べるという、あまりにもありきたりで芸のないプランを立てた。
観光案内に載っていたウインナーシュニッツェルの老舗を探しに、同行のエンジニアと夕暮れの街にさまよい出た。由緒ありそうな古い建物にあるその店は難なく見つけることができた。期待に胸を膨らませて店に入ると、奥で室内楽の楽団が演奏している。まだ宵の口だったので、テーブルは3分の1ほどしか埋まっていない。
「こんばんは、予約はしていないのですが、二人用のテーブルは空いていますか?」
「はい、空いています。こちらにどうぞ」
慇懃な物腰の中年のウエイターは、楽団の横をすり抜け、私たちを2階に案内した。
広い部屋の奥のテーブルに、アジア人ばかりが押し込められるように固まっているのが目に入った。団体客ばかりではない、明らかに個人旅行の日本人らしき人たちも何人かいる。みんな大人しく、おどおどしているようにも見えた。異様な光景だ。
「楽団の近くのテーブルにしてくれませんか。1階はガラガラのようだし…」
「1階の総ての席は、予約で埋まっています」
「あ、そう。でも、夕食で混み始めるのは、まだ先でしょう。そんなに長居しませんから」
「いえ、そういうわけには参りません」
ウエイターは飽くまで慇懃に答える。
「あの、ここには、アジア人ばかりが固まって座っていますが、何か理由でも?」
「いえ、あのぉ、たまたまです…」
うろたえるウエイター。
「何故、東洋人ばかりが部屋の隅に追いやられているのですか?」
更に畳みかける私に、ウエイターは「何なんだ、この面倒くさい東洋人は!」という目付きで睨みつけた。もう我慢できない。
「いい加減なことを言うな! こんな差別的な店で食事などしてやるか!」
私は捨て台詞を残して店を後にした。
スペインの時と違い、ただただ腹が立ち、不愉快だった。それにしても、あの店の奥に押し込められていたアジア人たちは、何故ウサギのようにお行儀よく静かに黙って座っていたのだろうか。私には理解できなかった。それに明らかな差別的待遇に唯々諾々と従っている、彼らの卑屈ともいうべき態度にも腹が立った。
「言葉が通じないから」という人もいるかも知れないが、そんなことは理由にならない。理不尽な扱いを受ければ、日本語でまくし立てればよいのだ。それで、十分感情は伝わる。
ウイーンでの不愉快な出来事は、それだけではなかった。
翌朝、ワルシャワ行きのオーストリア航空に搭乗することに。チェックイン・カウンターでは、感じがよく、しかも美しい女性が登場手続きをしてくれた。二言三言世間話をして、気持ちよく飛行機に乗り込んだ私は言葉を失う。私たちに割り当てられたのは、最後尾の窓なし、後壁が迫っていてシートも倒すことができない最低の並びの席だったからである。
あの美人は、「今日は、そんなに混んでいません」と言っていたのに、どうしてわざわざ最後尾の最低の席に……。乗客全員が搭乗し終えたがしたが、やはり席は半分も埋まっていない。昨夜のこともあり、「また、やられた!」と新たな怒りがこみ上げてきた。
「空席が沢山あるので、ひとりずつ座れる席に変わりたい」
と、私は、キャビンアテンダント(CA)に申し出た。
「勿論結構ですよ。でも、今日はこんなにすいているのにどうして、こんな最後尾の席になったんでしょうね」
無邪気な顔で言う彼女に、「それは、こっちが訊きたいことだよ」と思わず口にしそうになった。いずれにしても、美しく、素晴らしい街で、最低の体験をしたのは確かだ。
英国の政治経済雑誌エコノミストの「世界で最も住みやすい都市」調査によると、ウイーンは何度も1位を獲得している。たまたま私の運が悪かったのかもしれないが、「人種差別がなかった」と言い切ることができないのも事実である。
▲ 旧市街中心部にある美術史美術館と自然史美術館
▲ 落ち着いた独特の雰囲気があるウイーンのカフェ。そのカフェ文化は2011年、ユネスコの無形文化遺産に登録された
▲ ウインナー・コーヒーとザッハトルテ
▲ ウインナーシュニッツェル
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。