程昱《ていいく》は厳しい顔をして曹操を見つめていたが、当の曹操は、ゆったりと座にかまえたまま、答えた。
「たしかに子孝《しこう》(曹仁)らは、玄徳の策にうまうまと引っかかった。
とはいえ、策があるやもしれぬと警告をしなかったわしにもいくらか非があろう。
わしも油断をしておったのだ。それゆえ、このたびは処罰はせぬ」
「しかし」
言いつのろうとする程昱のことばを遮《さえぎ》るように、曹操はくりかえした。
「処罰はせぬ」
「丞相のご寛大なおことば、痛み入りまする」
曹仁が言うのにあわせて、張郃《ちょうこう》らも同じことばを唱和した。
従兄の心変わりを恐れて、というよりも、早くこの場をおさめて、みなを救いたいと、曹仁が思っているのが、その大きな丸い背中から、ひしひしと感じ取れた。
大将というのも、大変な立場だなと張郃は同情しつつ、曹仁らとともに、深く頭を下げる。
曹操は満足そうにうなずいて、そのことばを受けた。
程昱は、面白くなさそうに憮然《ぶぜん》としている。
場が何となく収まったあと、曹操が笑みを引っ込めて、ひとりごとのように言った。
「それにしてもだ。玄徳にこれほどの策を立てられる知恵があるとは思えぬな。
元直の後釜の軍師の諸葛とやらは、よほど有能な男なのか」
「世人は、諸葛亮というその軍師を、『臥龍』と呼んで、ほめそやしているそうです」
曹操のかたわら、程昱とは反対側の位置に佇立《ちょりつ》する荀攸《じゅんゆう》が、やわらかな声で添えた。
荀攸は、高祖劉邦の大軍師・張良に比肩すると称賛されている荀彧の『年下の叔父』である。
かれは、いつでもでしゃばりすぎず、静かに曹操のかたわらにいるのだ。
荀彧のほうは、なかなか人目を惹く美貌の持ち主なのだが、荀攸はおなじ血縁でも、風貌は控えめで、目立たない。
その荀彧は、いま鄴都《ぎょうと》で曹操の留守をあずかっている。
荀攸のことばに、曹操が目をぱっちりひらいて、身を乗り出してきた。
「臥龍とは、また凄まじいあだ名を得ているやつだな。
たしかに、この策を見るに、非凡な才の持ち主のようだ。どんなやつなのだ、元直」
呼びかけられたのは、元直こと、徐庶である。
徐庶が群臣のなかに交じっていることに、張郃は、はじめて気が付いた。
身の丈九尺もあろうかという程昱の陰にかくれていたせいもあるが、そもそも、徐庶からは、存在感というものが感じられなかったのである。
身なりこそ整えているが、生気がなく、冴えない印象を与える男だった。
しかも、徐庶は、曹操に呼びかけられても、すぐには答えなかった。
奇妙な間が、あたりに漂う。
群臣がざわざわとしはじめた。
戸惑ったか、程昱がうしろをにらみつける。
すると、ようやく徐庶は、顔を伏せたまま、ゆっくり答えた。
「諸葛孔明は常人ではありませぬ。臥龍の号にふさわしい器量のひとと言えるでしょう」
曹操は、徐庶の無礼をとがめず、さらに身を乗り出して聞く。
「それほどか。元直、おまえと比べてどうだ」
「月とすっぽんですな」
「では、ここにいるわが家臣たちと比べてはどうだ」
「比べようがございませぬ」
「では、諸葛孔明をたとえるとしたら、だれだ」
「だれも存在しませぬ。あまたの英雄たちを星とするならば、諸葛孔明は月です。
それほどに特異な者です」
また、ざわっと、その場がざわめいた。
それはそうだろう。
いまのいままで、名が荊州近辺でしか知られていなかった者が、あまたいる英雄たちをしのぐ人材だといわれて、そうですか、それはすごいと納得できるものではない。
自分たちも英雄の一人、あるいは英雄に仕えるひとりとして自負している曹操の家臣たちにしても、誇りと矜持《きょうじ》がある。
げんに、程昱などは、徐庶を監督している身として、そのことばに、赤くなるのを通り越して、青くなっていた。
程昱は曹操に拱手して、言う。
「丞相、この者のすぎたことばをお許しください。
まだわが陣営に身を置いてから日が経っておらず、礼儀をわきまえておらぬのです」
だが、曹操は鼻を鳴らした。
「ふん、わしには元直は正直に答えたように見えるがな。
諸葛孔明か。ぜひこの目でどんなやつか見てみたい。捕えて、わが陣営に加えられぬものか」
張郃は、徐庶が何を言うかと思い、そちらのほうを見た。
しかし、徐庶は粘土でできた人形のようにつくねんとそこにいるだけで、曹操の勢い込んだ言葉に答えない。
代わりに、また程昱が答える。
「劉備を討ったさい、諸葛亮は殺さず、捕えるようにみなに下知《げち》いたします」
「うむ、そうせよ。待遇は手厚く、な。
それと、諸葛孔明の家族を見つけても、けして殺すな、人質にせよ。
そして、諸葛孔明をわがほうへ迎える手段とするのだ」
張郃は、あいかわらず丞相は優れた人材に目がないなと、呆れた。
五万いた兵の半分を、その『諸葛亮』に殺されたかもしれないというのに。
自身が、曹操の人材好きによって救われた命であることを自覚しているだけに、居心地が悪い気持ちになった。
曹操はさっそく、諸葛孔明を捕えたときのことを想像しているのか、なにやら嬉しそうだ。
「荊州を制覇するのに、ひとつ楽しみが増えたな」
そう言ってから、急にころっと表情をかえて、引き締まった顔になった。
曹操は、重々しく文武両官に下知する。
「これよりわが軍は襄陽《じょうよう》へ進む。
劉琮が降伏を願い出てきている以上、おそらく抵抗はなかろうが、気は抜くな。
襄陽へ到着次第、軍を再編し、玄徳を追うぞ」
みながいっせいに、首を垂れ、曹操のために同意のことばを唱和した。
つづく
「たしかに子孝《しこう》(曹仁)らは、玄徳の策にうまうまと引っかかった。
とはいえ、策があるやもしれぬと警告をしなかったわしにもいくらか非があろう。
わしも油断をしておったのだ。それゆえ、このたびは処罰はせぬ」
「しかし」
言いつのろうとする程昱のことばを遮《さえぎ》るように、曹操はくりかえした。
「処罰はせぬ」
「丞相のご寛大なおことば、痛み入りまする」
曹仁が言うのにあわせて、張郃《ちょうこう》らも同じことばを唱和した。
従兄の心変わりを恐れて、というよりも、早くこの場をおさめて、みなを救いたいと、曹仁が思っているのが、その大きな丸い背中から、ひしひしと感じ取れた。
大将というのも、大変な立場だなと張郃は同情しつつ、曹仁らとともに、深く頭を下げる。
曹操は満足そうにうなずいて、そのことばを受けた。
程昱は、面白くなさそうに憮然《ぶぜん》としている。
場が何となく収まったあと、曹操が笑みを引っ込めて、ひとりごとのように言った。
「それにしてもだ。玄徳にこれほどの策を立てられる知恵があるとは思えぬな。
元直の後釜の軍師の諸葛とやらは、よほど有能な男なのか」
「世人は、諸葛亮というその軍師を、『臥龍』と呼んで、ほめそやしているそうです」
曹操のかたわら、程昱とは反対側の位置に佇立《ちょりつ》する荀攸《じゅんゆう》が、やわらかな声で添えた。
荀攸は、高祖劉邦の大軍師・張良に比肩すると称賛されている荀彧の『年下の叔父』である。
かれは、いつでもでしゃばりすぎず、静かに曹操のかたわらにいるのだ。
荀彧のほうは、なかなか人目を惹く美貌の持ち主なのだが、荀攸はおなじ血縁でも、風貌は控えめで、目立たない。
その荀彧は、いま鄴都《ぎょうと》で曹操の留守をあずかっている。
荀攸のことばに、曹操が目をぱっちりひらいて、身を乗り出してきた。
「臥龍とは、また凄まじいあだ名を得ているやつだな。
たしかに、この策を見るに、非凡な才の持ち主のようだ。どんなやつなのだ、元直」
呼びかけられたのは、元直こと、徐庶である。
徐庶が群臣のなかに交じっていることに、張郃は、はじめて気が付いた。
身の丈九尺もあろうかという程昱の陰にかくれていたせいもあるが、そもそも、徐庶からは、存在感というものが感じられなかったのである。
身なりこそ整えているが、生気がなく、冴えない印象を与える男だった。
しかも、徐庶は、曹操に呼びかけられても、すぐには答えなかった。
奇妙な間が、あたりに漂う。
群臣がざわざわとしはじめた。
戸惑ったか、程昱がうしろをにらみつける。
すると、ようやく徐庶は、顔を伏せたまま、ゆっくり答えた。
「諸葛孔明は常人ではありませぬ。臥龍の号にふさわしい器量のひとと言えるでしょう」
曹操は、徐庶の無礼をとがめず、さらに身を乗り出して聞く。
「それほどか。元直、おまえと比べてどうだ」
「月とすっぽんですな」
「では、ここにいるわが家臣たちと比べてはどうだ」
「比べようがございませぬ」
「では、諸葛孔明をたとえるとしたら、だれだ」
「だれも存在しませぬ。あまたの英雄たちを星とするならば、諸葛孔明は月です。
それほどに特異な者です」
また、ざわっと、その場がざわめいた。
それはそうだろう。
いまのいままで、名が荊州近辺でしか知られていなかった者が、あまたいる英雄たちをしのぐ人材だといわれて、そうですか、それはすごいと納得できるものではない。
自分たちも英雄の一人、あるいは英雄に仕えるひとりとして自負している曹操の家臣たちにしても、誇りと矜持《きょうじ》がある。
げんに、程昱などは、徐庶を監督している身として、そのことばに、赤くなるのを通り越して、青くなっていた。
程昱は曹操に拱手して、言う。
「丞相、この者のすぎたことばをお許しください。
まだわが陣営に身を置いてから日が経っておらず、礼儀をわきまえておらぬのです」
だが、曹操は鼻を鳴らした。
「ふん、わしには元直は正直に答えたように見えるがな。
諸葛孔明か。ぜひこの目でどんなやつか見てみたい。捕えて、わが陣営に加えられぬものか」
張郃は、徐庶が何を言うかと思い、そちらのほうを見た。
しかし、徐庶は粘土でできた人形のようにつくねんとそこにいるだけで、曹操の勢い込んだ言葉に答えない。
代わりに、また程昱が答える。
「劉備を討ったさい、諸葛亮は殺さず、捕えるようにみなに下知《げち》いたします」
「うむ、そうせよ。待遇は手厚く、な。
それと、諸葛孔明の家族を見つけても、けして殺すな、人質にせよ。
そして、諸葛孔明をわがほうへ迎える手段とするのだ」
張郃は、あいかわらず丞相は優れた人材に目がないなと、呆れた。
五万いた兵の半分を、その『諸葛亮』に殺されたかもしれないというのに。
自身が、曹操の人材好きによって救われた命であることを自覚しているだけに、居心地が悪い気持ちになった。
曹操はさっそく、諸葛孔明を捕えたときのことを想像しているのか、なにやら嬉しそうだ。
「荊州を制覇するのに、ひとつ楽しみが増えたな」
そう言ってから、急にころっと表情をかえて、引き締まった顔になった。
曹操は、重々しく文武両官に下知する。
「これよりわが軍は襄陽《じょうよう》へ進む。
劉琮が降伏を願い出てきている以上、おそらく抵抗はなかろうが、気は抜くな。
襄陽へ到着次第、軍を再編し、玄徳を追うぞ」
みながいっせいに、首を垂れ、曹操のために同意のことばを唱和した。
つづく
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