二〇二五年一月三十日(木)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
この前タマね、テレビ見てたら歓楽街って言ってたんだけど「街」は飼い主と暮らしてるここらへんのことで「住宅街」の「街」でいいのかな?
いいんじゃない?
じゃあ「歓楽」は?
有名なところではこんなのがある。
「これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた」(森鴎外「雁」『森鴎外全集4・P.34』ちくま文庫
一九九五年)
むむむ、「歓楽」って「地味な歓楽」と「派手な歓楽」の二つあるってこと?
鴎外はそう区別したみたいだ、取りあえずね。それよりタマさん、「これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた」とあるけど、どうしたからそうなったかわかるかい?
わかるわけないじゃん。
すぐ前にこうある。
「つつましやかな微笑を湛(たた)えて酌をするお玉を見て」(森鴎外「雁」『森鴎外全集4・P.34』ちくま文庫
一九九五年)
お玉、さん?
しかも「お玉」は三味線を弾くんだ。
しゃ、三味線!?
そう。上等の三味線の胴に張る皮は猫の皮がほとんどだね。
なんてこった。でもなんでお玉さんなのかな。
鴎外「雁」には充実した核となる中心というものがない。
どういうこと?
ある種の推理ものってこと。そこでキーパーソンの名前に他でもない「玉」を持ってきたんじゃないかってね。
お玉さんって、じゃあ、中身からっぽなの?
いやいやそういう意味じゃなくてこれがもし鴎外じゃなくて漱石なら「迷宮」って意味をなすような何ものかってこと。
さっぱりわかんないや。
じゃあ明らかに「派手な歓楽」の話に行こう。これまた有名なんだけど。
「武帝の自作とされる『秋風(しゅうふう)の辞』の末尾二句は、次のように歌う。
歓楽極兮哀情多 少壮幾時兮奈老何
(歓楽がきわまると哀感がわきおこる。盛りのときはまたたくまに過ぎ、老いを避けるすべもない )」(井波律子「絶頂期の専制者」『中国人物伝1・P.212』岩波書店 二〇一四年)
多分こっちのほうの意味じゃないかなあ。テレビで使ってたの。
ちなみに武帝のことを書いた司馬遷を死刑に処したのは武帝なんだ。
それ、もしかしてオチってやつ?
いや実話だ。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ガナーヴィヤ。インドの古典的宗教音楽のように聴こえる。もちろんその土壌として南インドのタミル地方育ち。スピリチュアル系の響きがやや目立つがもっとコンテンポラリーな幅広さを持っているように感じる。モード系の旋律が南インドとはほど遠いアイルランドやケルトの民謡を思わせるのも古典的民族音楽に精通しているからかも知れない。目下活躍中のガナーヴィヤは作曲を含め何でもできそうなマルチ・プレイヤーとして有名。多彩な楽器を操り様々な民族音楽に造詣が深いことは結構知られているようだ。幾つか検索して調べてみるとアメリカの大学で演劇と心理学の学位を取得しているらしい。ダンスもヴォーカルもやる。実験音楽精神を体現しているような曲もあるが決して「どや顔」で見せびらかすタイプではない。しかし何といってもコルトレーンへのオマージュに満ちている。
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