白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・商品「哲学の可愛さ」/貨幣「三木那由他」

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

三木那由他の新連載。こうある。

 

「きっと私たちは、哲学の『真面目さ』をもう少しもみほぐし、広げるべきなのだ。可愛い出来事だって、日常のもやもやだって、哲学の出発点にできるように。そうしたものから始まる重要な思考が、『真面目でないもの』として押し殺されてしまわないように」(三木那由他「可愛い哲学(1)」『群像・2・P.42』講談社 二〇二五年)

 

昨日、百瀬文のエッセイに触れつつ思春期の頃の失敗「ある軽蔑」とタイトルしてほんの少し書いた。実際の事情はもっと複雑なのだがそこまでプライバシーに立ち入る必要はない。それより今思い出せばあの時もっとこんなコミュニケーションを取ればよかったのにとか、あんなコミュニケーションもできないはずはなかったのになぜそうしなかったのかとか、そもそもコミュニケーションを成立させようとするちょっとした気遣いひとつ身に付いていなかったのではと、悔やまれることは山ほどある。世間の多くの人々がそうであるように十代の頃の記憶など思い出したくもない、あまりにも恥ずかしい、もってのほかだ、恥辱だと、そう首を振りながら身震いする傾向は誰にだって今なお強いようにおもう。

 

言い換えれば「あの時こうすることもできたのに(なぜそうしなかったのか?)」。「あの時こうすることもできたのに(なぜそうすることができなかったのか?)」。「あの時こうしないこともできたのに(なぜそうしてしまったのか?)」、等々ばかり思い返されてしまう。

 

ここ二十年ほどで顕著化してきたけれども、かつては各人各様の仕方で乗り越えたか、乗り越えたと思い込んでいた過去を、星の数ほどもある鬱々たる「もやもや」や「後悔」や「失敗」や「不安」の痕跡を、否応なく不意に今なおのしかかってくるばかりかありありと意識させPTSDさえ惹起させてしまう無数のハプニングで世界が覆い尽くされようとしている。しかし哲学はそれら「もやもや」、「後悔」、「失敗」、「不安」など何でも引き受けてくれる広場のような場所だ。なおかつもし広場がなければ新しい広場を創設することも全然OKな場所だ。むしろそうした取り組みの過程をてくてく歩いているうちに、記憶の奥深くに押し沈めておくほかなかった「もやもや」、「後悔」、「失敗」、「不安」等々をまったく新しい方法で対応/整理/応用してしまえる発見の場へも変わり得る。

 

哲学にあらかじめ備わっているそんな機能のことを指すとともに語り口を変化させることを加えて「可愛い」と呼ぶとすれば三木那由他が言わんとしていることは的を得ているかもしれない。

 

「どうにも私自身の語り口はそんなに可愛くないような気もする。哲学の可愛さを語っていくことで、私自身の言葉もより可愛い何かへと変身していってほしいものである」(三木那由他「可愛い哲学(1)」『群像・2・P.42』講談社 二〇二五年)

 

ふと思った。「哲学の可愛さを語っていく」とある。「語られる」対象としての「哲学の可愛さ」。ここで「哲学の可愛さ」はひとつの商品としても考えられるだろう。だが商品は商品自身では何ひとつ語れない。商品は自分自身について「商品である」とさえ語ることはできない。そんな枠組みのなかで「哲学の可愛さ」を語るのは他でもない三木那由他だ。商品「哲学の可愛さ」を、あるいは「哲学の可愛さ」について、語る鏡の機能、いわゆる貨幣の機能を演じようという試み。この先なにが待ち構えているかわからないけれどもこのエッセイを通して三木那由他はいま述べた意味での貨幣になる。そういう事情も含めて「可愛い」と呼ぶかどうかは読者それぞれとしてなるほど面白い試みだなあとおもう。まだ初回だが。


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