白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・記号としてのゲルマント/夢の多元性/愛と嫉妬の象徴としてのソナタの<断片>

2022年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストはこう書いている。「当時のゲルマントの名は、酸素なりべつの気体なりを封じこめた小さな風船のようなものだ」と。

「そもそも当時のゲルマントの名は、酸素なりべつの気体なりを封じこめた小さな風船のようなものだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.27」岩波文庫 二〇一三年)

或る「家の名」がシニフィアン(意味するもの=記号)の側である場合、シニフィエ(意味されるもの=意味内容)は「つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられる」ことができる。なぜならシニフィアンとシニフィエとの間には「なんの関係もな」いからである。言い換えれば、両者の間は切断されている。だからこそ「名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである」とプルーストはいう。

「かくして称号と名前とは同一であるから、なおもゲルマント大公妃なる人は現存するが、その人は私をあれほど魅了した人とはなんの関係もなく、いまや亡き人は、称号と名前を盗まれてもどうするすべもない死者であることは、私にとって、その城館をはじめエドヴィージュ大公女が所有していたものをことごとくほかの女が享受しているのを見ることと同じくらい辛いことだった。名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである。かくしてつねに、つぎからつぎへと途絶えることなく新たなゲルマント大公妃が、いや、より正確に言えば、千年以上にわたり、その時代ごとに、つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられるただひとりのゲルマント大公妃があらわれ、この大公妃は死を知らず、移り変わるもの、われわれの心を傷つけるものなどには関心を示さないだろう。同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.98~99」岩波文庫 二〇一九年)

ゲルマント大公妃が他の何人ものゲルマント大公妃と次々置き換え可能なのはただ「同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」。その名が指し示す内容は唯一絶対的な人物ではなく、逆にまるで別々の女性たちによって受け継がれていっているに過ぎない。

そのような無数の断片の繋がりについてプルーストは例えば「睡眠」を例に取っている。目を覚ました時、人間は記憶というものがいかに当てにならないかを指して「序列がこんがらがったり、途切れてしまったりすることがある」と書く。「途切れてしまったりすることがある」。この箇所でプルーストは記憶について、少なくとも睡眠中は、ばらばらの<諸断片>へと解体されていることを認めている。

「人は眠っていても、自分をとり巻くさまざまな時間の糸、さまざまな歳月と世界の序列を手放さずにいる。目覚めると本能的にそれを調べ、一瞬のうちに自分のいる地点と目覚めまでに経過した時間をそこに読みとるのだが、序列がこんがらがったり、途切れてしまったりすることがある。かりに眠れないまま明けがた近くになり、本を読んでいる最中、ふだん寝ているのとずいぶん違う格好で眠りに落ちたりすると、片腕を持ちあげているだけで太陽の歩みを止め、後退させることさえできるので、目覚めた最初の瞬間には、もはや時刻がわからず、寝ようと横になったところだと考えるかもしれない。眠るにはさらに場違いな、ふだんとかけ離れた姿勢、たとえば夕食後に肘掛け椅子に座ったままでうとうとしたりすると、その場合、大混乱は必至で、すべての世界が軌道を外れ、肘掛け椅子は魔法の椅子となって眠る人を猛スピードで時間と空間のなかを駆けめぐらせるから、まぶたを開けるときには、数ヶ月前の、べつの土地で横になっていると思うかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・一・P.29」岩波文庫 二〇一〇年)

夢の中で人間は「何百万もの人間のだれにでも」なったり動物や植物になったりまるで脈略のないシーンが次々と出現したのを確かに見ているわけだが、睡眠から覚醒してしばらくの間、なぜ自分がほかでもない自分に戻ったとわかるのか。はなはだ疑問だと述べてもいる。人格は唯一というわけではなく、逆に無数の人格が複合し合った多元的なものではないかと。

「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)

そもそも唯一絶対的な「中味」という確固たるものがあるという考え自体がただ単なる<思い込み>でしかない。というのも、たったいま通過してきた睡眠から目覚めたばかりの人間は、通常「われわれ」と呼んで不思議がっていない「われわれ」というにはほど遠い。むしろ「なんの想念も持たずに出てきたすがたは、いわば中味を欠いた『われわれ』」と呼ぶのが的を得ている。

「みずから通過してきたと思われる(とはいえわれわれがいまだに《われわれ》と言うことさえない)真っ暗な雷雨のなかから、まるで墓石の横臥像のように、なんの想念も持たずに出てきたすがたは、いわば中味を欠いた『われわれ』であろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.301~302」岩波文庫 二〇一五年)

また「愛と嫉妬」というテーマはプルースト作品の中で何度も繰り返される。そしてそれは「連続して分割できない同じひとつの情念ではない」。逆に「それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立って」いるにもかかわらず「絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続してみるという印象を与え」るがゆえ「単一のもの」だと思い込まれる<錯覚>なのだ。

「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続してみるという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)

この「愛と嫉妬」という一見連続して思えているものもまた、実のところ、無数に多元的な<諸断片>のモザイクであるにもかかわらず、瞬時に行われる<慣習・掟>の作用によってあたかも<まるで一つも途切れてなどいない一連の有機体として>再構成されるに過ぎない。スワンとオデットとの恋愛関係の中でスワンはソナタ全曲を誰かに演奏してもらおうと思っていたが「一節」でいいとオデットはいう。ソナタの一節は何を意味しているか。オデットは二人の恋愛関係においていう。「どうして残りが必要ですの?これが《あたしたちの》曲ですもの」。

「こんなわけでスワンは、オデットの勝手気ままな願いに応じて、ソナタ全曲をだれかに演奏してもらう計画は諦め、あいかわらずこの一節しか知らないでいた。オデットから『どうして残りが必要ですの?これが《あたしたちの》曲ですもの』と言い渡されていたのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.86」岩波文庫 二〇一一年)

<一曲のソナタ>という言葉が統一と全体という錯覚へ誘惑するのであって、スワンに愛される女性=オデットの立場からすれば統一も全体も必要ない。二人の「愛/嫉妬」にとって必要なのはこれこそ<《あたしたちの》曲>というにふさわしい<一節>=<断片>だけですでに充分なのであり、必要に応じて<《あたしたちの》曲>というにふさわしい<一節>=<断片として>、その箇所だけを取り出すことができるという事実である。

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