プルーストが試みる過去の再構成。そのために必要なのは「習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ」。またそれは最低限必要な作業だが最大限不可能に近い作業でもある。だがしかし、もし「現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」。
「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)
そんなことが本当に可能だろうか。誰もが思うに違いない。極めて疑わしいと。ところがプルーストは意外にも極めて身近なところにそれを見出す。物質的な要素による汚染を被っていないもの。形式化されていないもの。言語に還元できないもの。本来的な意味で<唯一性>と呼ぶ<価値>のあるもの。例えばスワンにとってそれは<音楽>の一節として出現する。ヴェルデュラン家の晩餐会で聴いたピアノが奏でるほんの僅かなフレーズである。
「スワンはある夜会で、ピアノとヴァイオリンで演奏された曲を聴いたことがあった。最初は、楽器から出る音の物質的特徴しか味わえなかった。ところがそれが大きな喜びとなったのは、ヴァイオリンの、か細いけれど持久力のある密度の高い主導的な小さな旋律線の下から、突然ピアノのパートが、さざ波の音のように湧きあがり、さまざまな形のそれでいて分割できない平面となってぶつかりあうのを見たときで、それはまるで月の光に魅せられ半音下げられて揺れうごく薄紫(モーヴ)色の波を想わせた。しかしその過程でスワンは、自分を喜ばせてくれるものの輪郭がはっきり識別できず、それを名づけることもできなかった。それにいきなり魅了され、通りすがりにわが心をかつてなく大きく開いてくれた楽節なのかハーモニーなのかーーースワン自身にはわからないーーー、判然としないものを取り上げようとしただけである。夕べの湿った空気にただようバラのある種の香りに、われわれの鼻孔をふくらませる特性があるのと同じである。こんな不分明な印象を受けたのは、スワンがこの音楽を知らなかったからかもしれない。しかしその印象は、ただひとつ純粋に音楽的といえる印象にほかならず、拡がりをもたない、隅から隅まで独創的で、ほかのいかなる次元の印象にも還元できないものだった。この種の印象は、いっとき、いわば無実体(シネ・マテリア)のものとなる」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.65~66」岩波文庫 二〇一一年)
スワンは「この種の印象は、いっとき、いわば無実体(シネ・マテリア)のものとなる」という。音は物質的な物の音響でしかない。そんなことはわかりきったことだ。それを承知の上でなおかつ物質的なものには還元できない「無実体」というべき或るものが残るというわけだ。プルーストが探求しようとしているのはこの種の印象の系列であり、壮大な交響曲であろうと小さなピアノ・ソナタであろうと、そのすべての音が寄せては返す波の中に忽然と出現したと気づくやもう波間のうちに消え去っていくような<断片>という様式でしか存在しない。だから一方で<唯一性>であるにもかかわらずもう一方で何度も経験したに違いない<諸断片>となって一人の人間の生涯の中に砕け散っている。また、砕け散ってはいるが残っていないわけでは全然ない。別の場所で経験することもしばしばある。次のように。
「ラ・ベルマはの声は、どんな隅々までも繊細なしなやかさを備え、まるで偉大なヴァイオリン奏者の楽器のようだ。人がそんなヴァイオリン奏者について美しい音をもっていると言うとき、褒めたたえようとしているのは物理的特性ではなく、卓越した魂なのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.108」岩波文庫 二〇一三年)
プルーストは「卓越した魂」と書いている。けれども、それは例えば「大和魂」とか「ナチスの精神」とか呼ばれるマッチョなものとはまるで関係がない。逆に非マッチョ的なものであるがゆえ、捉えるのは極めて困難でありプルーストはそれを「未知の女」と名づけている。文字通りどこまで追いかけても決して追いつくことはできない。ただひたすら誘惑するし、誘惑することしか知らない。
「そうこうするうち、ふたたび始まっていた七重奏曲も終わりに近づいた。ソナタのあれこれのフレーズが何度もくり返しあらわれ、そのたびに以前とは違うリズムと伴奏をともなって様変わりし、同一でありながら異なるのは、人生にさまざまなものごとが再来するさまを想わせる。この手のフレーズは、いかなる親近性ゆえにその唯一の必然的な住まいとしてある音楽家の過去を指定するのかは理解できないものの、その音楽家の作品にしか見出せず、その作品には始終あらわれて、その作品の妖精となり、森の精となり、馴染みの神々となるのだ。まず私は、七重奏曲のなかで、ソナタを想起させるそうした二、三のフレーズに気づいた。やがて私が認めたのはソナタのべつのフレーズでーーーそれはヴァントゥイユの最晩年の作品から立ちのぼる紫色をおびた霧につつまれていたので、ヴァントゥイユがそのどこかに踊りのリズムをさし挟んでも、踊りまでが乳白色のなかに閉じこめられていたーーー、まだ遠くにとどまって、はっきりとは見分けられない。それはためらいがちに近づくと、おびえたようにすがたを消し、やおら戻ってきては私があとで知ったところによるとべつの作品から到来したとおぼしいべつのフレーズとからみ合い、さらにまたべつのフレーズを呼ぶと、そのフレーズもそこへ馴染んですぐさま今度はみずから牽引力と説得力を身につけ、輪舞(ロンド)のなかへはいってゆく。その輪舞(ロンド)は神々しくはあったが、たいていの聴衆の目には見えず、茫漠としたベールが目の前にかかるだけなので、その向こうになにひとつ認めることのできない聴衆は、死ぬほどやりきれない退屈が連綿とつづく合間に、ときどきいい加減な賞賛の歓声をあげた。やがてそれらのフレーズは遠ざかったが、なかにひとつだけ、私にはその顔が見えないのに五回も六回も戻ってくる、やさしく愛撫するような、それでいてーーースワンにとってはきっとソナタの小楽節がそうであったようにーーーどんな女性にかき立てられたものともまるで異なるフレーズがあった。じつに優しい声で真に手に入れる価値のあるものだと私に幸福を差しだしてくれるそのフレーズは、もしかするとーーーこの目に見えない女性は、私がそのことばを解さないのに心底から理解できるのだからーーー私が出会うことを許されたただひとりの『未知の女』だったのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.157~159」岩波文庫 二〇一七年)
ここで「ヴァントゥイユの最晩年の作品から立ちのぼる紫色をおびた霧」とある。というのはもうヴァントゥイユは死んでしまってこの世にいないからである。ヴァントゥイユは遥か若い頃、思春期のさなかにあったアルベルチーヌに同性愛の快楽を教えた人物だが、もはや作品(音楽)しか残されていない。だからプルーストが語っているのは今は亡きヴァントゥイユに対する儚いノスタルジーだと思ってしまうととんだ勘違いを起こしてしまう。ヴァントゥイユが作曲したソナタの一節についてこうある。「色あざやかな未知の祝祭」。
「ヴァントゥイユから与えられた漠然とした感覚は、回想に由来するものではなく(マルタンヴィルの鐘塔の印象と同じく)印象に由来するものなので、その音楽のゼラニウムの芳香については、物質的な説明を見出すのではなく、その深い等価物を見出すべきであり、つまりヴァントゥイユがそれによって世界を『聞きとり』、その世界を自分の外に投げだしたやり方ともいうべき、色あざやかな未知の祝祭(ヴァントゥイユの個々の作品はそこから分離した断片、真紅の裂け目をもつ破片であるかに思われる)を見出すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.420」岩波文庫 二〇一七年)
そうかもしれない。「祝祭」。だが古代ギリシアのディオニュソス祭(古代ローマでいうサトゥルナリア祭)のような劇的「祝祭」についてもはや近現代人がその音響を聴き取ろうとしても、少なくとも二つのケースに分かれるだろう。
(1)フローアン・シュミット「ディオニュソスの祭」
(2)シェーンベルク「月に憑かれたピエロ」
どちらが正解かは言えない。音楽も音楽理論もともに近代社会の到来と同時にまるで違ったものに変わってしまい、かつての音響をそのまま再現することは不可能だからである。しかし大規模な社会的<転倒>を前提とする<祝祭>という意味で、エウリピデスのギリシア悲劇「バッコスの信女たち」に描かれているディオニュソス祭の様相を不完全ながらも復元し得ているのは後者だろうと思われる。なぜならそもそも「ディオニュソス祭」の期間は上下左右前後男女といった区別はすべて消去され、ありとあらゆる<力>は全面的かつ無方向的にアナーキーな諸運動のうちに消尽されるからであり、ほかでもない絶対的基準の一時的失効の実現でなければならないからである。その次元でいえば、ディオニュソスは<子ども>になり<巨人>にもなりはするが最大の特徴は<狂気>であるという点で、シュミットはディオニュソスを巨人だとばかり捉えており、古典読解において意味の取り違えを起こしていると考えられる。またシェーンベルクはディオニュソスをテーマにしているわけではないにもかかわらず、楽曲の<無調性>によってありとあらゆる秩序の解体・狂気の到来を出現させている点で、思いがけず不意打ち的にディオニュソスを演じたと言えるわけである。
ちなみにニーチェは古代から現在を見ることと現在から古代を見ることという二つの立場に立たなければ歴史について何一つ語ることはできないとまでは言わないが、少なくとも時々はそのような態度を取らなければ歴史を見ることだけでなく歴史を見ている自分自身について語ることはできないという。その地盤に立って始めてニーチェはこういうことができた。古代ギリシアのディオニュソス祭(古代ローマでいうサトゥルナリア祭)の期間中、<主人の奴隷化>と<奴隷の主人化>という置き換えが行われていたことと考え合わせてみて欲しい。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫 一九九四年)
またアルベルチーヌについてだが、異性愛者であるとともに同性愛者でもある面ばかり強調してもほとんど意味がない。人間は本来的に<両性具有的>存在だからだ。なおかつアルベルチーヌは、(1)<植物>(蔓性植物マルバアサガオ)にもなり、(2)<音楽>(様々な和声を奏でる楽器)にもなる。
(1)「なにかを取りにゆく口実を設けていっとき部屋を出て、そのあいだアルベルチーヌを私のベッドに横にならせておいた。戻ってみるとアルベルチーヌはもう眠っていて、私が目の当たりにしたのは、本人が完全に正面を向くとそうなるべつの女性であった。といってもアルベルチーヌはたちまちその個性を変えてしまう。私がそのそばに横になって、ふたたび横顔を見るからだ。私がその手をとったり肩や頬のうえに私の手を置いたりするのも自由自在で、アルベルチーヌはあいかわらず眠っている。その顔をかかえて乱暴に向きを変え、その顔を私の唇に押しあてたり、その両腕を私の首に巻きつけたりしても相も変わらず眠っているさまは、まるで止まらずに時を刻みつづける時計のようでも、どんな姿勢をとらせても生きつづける動物のようでも、どんな支柱を与えてもそこに蔓(つる)を伸ばしつづける蔓性植物マルバアサガオのようでもあった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.243~244」岩波文庫 二〇一六年)
(2)「私が手を触れると、そのたびに寝息だけが変化する。まるでアルベルチーヌ自身が一つの楽器で、演奏する私がその弦のひとつひとつから異なる音をひき出して楽器にさまざまな転調を奏でさせているかのようである。私の嫉妬は鎮まってゆく。その規則正しい寝息がはっきり示しているように、アルベルチーヌがただ息をする存在以外のなにものでもなくなったように感じられるからである。この寝息をつうじて表現されているのは純粋に生理的な機能であって、この機能は、さらさらと流れるだけで、ことばの厚みも沈黙の厚みを持たず、いかなる悪も知らないがゆえに、人間から出てきたというよりも葦(あし)のうつろな茎から出てきた息吹というべきか、それに耳を傾けているとアルベルチーヌが肉体的のみならず精神的にもあらゆるものから守られていると感じる私にとっては、文字どおり天国の息吹であって、まさに天使たちの汚れなき歌声であった。とはいえふと私は、この寝息のなかには、記憶がもたらす多くの人間の名前が奏でられているのかもしれないと思った。この音楽にときに人間の声が加わることもあったからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.244」岩波文庫 二〇一六年)
とはいうものの「第五篇」のタイトルは「囚われの女」。アルベルチーヌは<私>の部屋へ軟禁された状態でいつも監視下に置かれている。アルベルチーヌの<植物>への変化、そして<音楽>への変化。それは一方で<私>個人の所有に帰し、もう一方でこれまでに見られなかった自由で多様な変身を遂げる。この、閉じられた<自由>というパラドックス。もはやアルベルチーヌは以前のアルベルチーヌではまるでない。<植物>や<音楽>への変化は、常に幽閉され監視される空間でしか発生しない。鳥が鳴くことを覚えたのは鳥籠の中でだった。
なお、ウクライナ関連について。個人的事情になるけれども、あのような無粋この上ない利権主義的領土問題を見ていると幼少期からのアレルギー性発疹・瘙痒・神経痛が悪化してきた。ステロイド剤や抗アレルギー剤を処方してもらっているがいずれにしても上限がある。上限ぎりぎりという線でやや平行線を描いている程度。アルコール依存症治療のためもう二十年以上アルコールを断っているわけだが、せっかく平均値以下まで落とした内蔵の数値がもし上がり医療費が増えるようなことがあれば夫婦二人と猫一匹だけの家庭であるにもかかわらずたちまち食べていくことができなくなる。そうなればそれこそ米中露首脳陣に賠償請求しなければならない。だとしてもプーチン、バイデン、習近平のような頭の固い老人には通じないに違いない。しかしそもそも一体どこの誰があのような政治指導者たちを国家指導者として支持しているのだろうか。多国籍企業にしても消費者が貧困すればするほどますます商品は売れなくなり肝心の利子はいつまで経っても環流してこなくなるというのに。
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「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)
そんなことが本当に可能だろうか。誰もが思うに違いない。極めて疑わしいと。ところがプルーストは意外にも極めて身近なところにそれを見出す。物質的な要素による汚染を被っていないもの。形式化されていないもの。言語に還元できないもの。本来的な意味で<唯一性>と呼ぶ<価値>のあるもの。例えばスワンにとってそれは<音楽>の一節として出現する。ヴェルデュラン家の晩餐会で聴いたピアノが奏でるほんの僅かなフレーズである。
「スワンはある夜会で、ピアノとヴァイオリンで演奏された曲を聴いたことがあった。最初は、楽器から出る音の物質的特徴しか味わえなかった。ところがそれが大きな喜びとなったのは、ヴァイオリンの、か細いけれど持久力のある密度の高い主導的な小さな旋律線の下から、突然ピアノのパートが、さざ波の音のように湧きあがり、さまざまな形のそれでいて分割できない平面となってぶつかりあうのを見たときで、それはまるで月の光に魅せられ半音下げられて揺れうごく薄紫(モーヴ)色の波を想わせた。しかしその過程でスワンは、自分を喜ばせてくれるものの輪郭がはっきり識別できず、それを名づけることもできなかった。それにいきなり魅了され、通りすがりにわが心をかつてなく大きく開いてくれた楽節なのかハーモニーなのかーーースワン自身にはわからないーーー、判然としないものを取り上げようとしただけである。夕べの湿った空気にただようバラのある種の香りに、われわれの鼻孔をふくらませる特性があるのと同じである。こんな不分明な印象を受けたのは、スワンがこの音楽を知らなかったからかもしれない。しかしその印象は、ただひとつ純粋に音楽的といえる印象にほかならず、拡がりをもたない、隅から隅まで独創的で、ほかのいかなる次元の印象にも還元できないものだった。この種の印象は、いっとき、いわば無実体(シネ・マテリア)のものとなる」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.65~66」岩波文庫 二〇一一年)
スワンは「この種の印象は、いっとき、いわば無実体(シネ・マテリア)のものとなる」という。音は物質的な物の音響でしかない。そんなことはわかりきったことだ。それを承知の上でなおかつ物質的なものには還元できない「無実体」というべき或るものが残るというわけだ。プルーストが探求しようとしているのはこの種の印象の系列であり、壮大な交響曲であろうと小さなピアノ・ソナタであろうと、そのすべての音が寄せては返す波の中に忽然と出現したと気づくやもう波間のうちに消え去っていくような<断片>という様式でしか存在しない。だから一方で<唯一性>であるにもかかわらずもう一方で何度も経験したに違いない<諸断片>となって一人の人間の生涯の中に砕け散っている。また、砕け散ってはいるが残っていないわけでは全然ない。別の場所で経験することもしばしばある。次のように。
「ラ・ベルマはの声は、どんな隅々までも繊細なしなやかさを備え、まるで偉大なヴァイオリン奏者の楽器のようだ。人がそんなヴァイオリン奏者について美しい音をもっていると言うとき、褒めたたえようとしているのは物理的特性ではなく、卓越した魂なのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.108」岩波文庫 二〇一三年)
プルーストは「卓越した魂」と書いている。けれども、それは例えば「大和魂」とか「ナチスの精神」とか呼ばれるマッチョなものとはまるで関係がない。逆に非マッチョ的なものであるがゆえ、捉えるのは極めて困難でありプルーストはそれを「未知の女」と名づけている。文字通りどこまで追いかけても決して追いつくことはできない。ただひたすら誘惑するし、誘惑することしか知らない。
「そうこうするうち、ふたたび始まっていた七重奏曲も終わりに近づいた。ソナタのあれこれのフレーズが何度もくり返しあらわれ、そのたびに以前とは違うリズムと伴奏をともなって様変わりし、同一でありながら異なるのは、人生にさまざまなものごとが再来するさまを想わせる。この手のフレーズは、いかなる親近性ゆえにその唯一の必然的な住まいとしてある音楽家の過去を指定するのかは理解できないものの、その音楽家の作品にしか見出せず、その作品には始終あらわれて、その作品の妖精となり、森の精となり、馴染みの神々となるのだ。まず私は、七重奏曲のなかで、ソナタを想起させるそうした二、三のフレーズに気づいた。やがて私が認めたのはソナタのべつのフレーズでーーーそれはヴァントゥイユの最晩年の作品から立ちのぼる紫色をおびた霧につつまれていたので、ヴァントゥイユがそのどこかに踊りのリズムをさし挟んでも、踊りまでが乳白色のなかに閉じこめられていたーーー、まだ遠くにとどまって、はっきりとは見分けられない。それはためらいがちに近づくと、おびえたようにすがたを消し、やおら戻ってきては私があとで知ったところによるとべつの作品から到来したとおぼしいべつのフレーズとからみ合い、さらにまたべつのフレーズを呼ぶと、そのフレーズもそこへ馴染んですぐさま今度はみずから牽引力と説得力を身につけ、輪舞(ロンド)のなかへはいってゆく。その輪舞(ロンド)は神々しくはあったが、たいていの聴衆の目には見えず、茫漠としたベールが目の前にかかるだけなので、その向こうになにひとつ認めることのできない聴衆は、死ぬほどやりきれない退屈が連綿とつづく合間に、ときどきいい加減な賞賛の歓声をあげた。やがてそれらのフレーズは遠ざかったが、なかにひとつだけ、私にはその顔が見えないのに五回も六回も戻ってくる、やさしく愛撫するような、それでいてーーースワンにとってはきっとソナタの小楽節がそうであったようにーーーどんな女性にかき立てられたものともまるで異なるフレーズがあった。じつに優しい声で真に手に入れる価値のあるものだと私に幸福を差しだしてくれるそのフレーズは、もしかするとーーーこの目に見えない女性は、私がそのことばを解さないのに心底から理解できるのだからーーー私が出会うことを許されたただひとりの『未知の女』だったのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.157~159」岩波文庫 二〇一七年)
ここで「ヴァントゥイユの最晩年の作品から立ちのぼる紫色をおびた霧」とある。というのはもうヴァントゥイユは死んでしまってこの世にいないからである。ヴァントゥイユは遥か若い頃、思春期のさなかにあったアルベルチーヌに同性愛の快楽を教えた人物だが、もはや作品(音楽)しか残されていない。だからプルーストが語っているのは今は亡きヴァントゥイユに対する儚いノスタルジーだと思ってしまうととんだ勘違いを起こしてしまう。ヴァントゥイユが作曲したソナタの一節についてこうある。「色あざやかな未知の祝祭」。
「ヴァントゥイユから与えられた漠然とした感覚は、回想に由来するものではなく(マルタンヴィルの鐘塔の印象と同じく)印象に由来するものなので、その音楽のゼラニウムの芳香については、物質的な説明を見出すのではなく、その深い等価物を見出すべきであり、つまりヴァントゥイユがそれによって世界を『聞きとり』、その世界を自分の外に投げだしたやり方ともいうべき、色あざやかな未知の祝祭(ヴァントゥイユの個々の作品はそこから分離した断片、真紅の裂け目をもつ破片であるかに思われる)を見出すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.420」岩波文庫 二〇一七年)
そうかもしれない。「祝祭」。だが古代ギリシアのディオニュソス祭(古代ローマでいうサトゥルナリア祭)のような劇的「祝祭」についてもはや近現代人がその音響を聴き取ろうとしても、少なくとも二つのケースに分かれるだろう。
(1)フローアン・シュミット「ディオニュソスの祭」
(2)シェーンベルク「月に憑かれたピエロ」
どちらが正解かは言えない。音楽も音楽理論もともに近代社会の到来と同時にまるで違ったものに変わってしまい、かつての音響をそのまま再現することは不可能だからである。しかし大規模な社会的<転倒>を前提とする<祝祭>という意味で、エウリピデスのギリシア悲劇「バッコスの信女たち」に描かれているディオニュソス祭の様相を不完全ながらも復元し得ているのは後者だろうと思われる。なぜならそもそも「ディオニュソス祭」の期間は上下左右前後男女といった区別はすべて消去され、ありとあらゆる<力>は全面的かつ無方向的にアナーキーな諸運動のうちに消尽されるからであり、ほかでもない絶対的基準の一時的失効の実現でなければならないからである。その次元でいえば、ディオニュソスは<子ども>になり<巨人>にもなりはするが最大の特徴は<狂気>であるという点で、シュミットはディオニュソスを巨人だとばかり捉えており、古典読解において意味の取り違えを起こしていると考えられる。またシェーンベルクはディオニュソスをテーマにしているわけではないにもかかわらず、楽曲の<無調性>によってありとあらゆる秩序の解体・狂気の到来を出現させている点で、思いがけず不意打ち的にディオニュソスを演じたと言えるわけである。
ちなみにニーチェは古代から現在を見ることと現在から古代を見ることという二つの立場に立たなければ歴史について何一つ語ることはできないとまでは言わないが、少なくとも時々はそのような態度を取らなければ歴史を見ることだけでなく歴史を見ている自分自身について語ることはできないという。その地盤に立って始めてニーチェはこういうことができた。古代ギリシアのディオニュソス祭(古代ローマでいうサトゥルナリア祭)の期間中、<主人の奴隷化>と<奴隷の主人化>という置き換えが行われていたことと考え合わせてみて欲しい。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫 一九九四年)
またアルベルチーヌについてだが、異性愛者であるとともに同性愛者でもある面ばかり強調してもほとんど意味がない。人間は本来的に<両性具有的>存在だからだ。なおかつアルベルチーヌは、(1)<植物>(蔓性植物マルバアサガオ)にもなり、(2)<音楽>(様々な和声を奏でる楽器)にもなる。
(1)「なにかを取りにゆく口実を設けていっとき部屋を出て、そのあいだアルベルチーヌを私のベッドに横にならせておいた。戻ってみるとアルベルチーヌはもう眠っていて、私が目の当たりにしたのは、本人が完全に正面を向くとそうなるべつの女性であった。といってもアルベルチーヌはたちまちその個性を変えてしまう。私がそのそばに横になって、ふたたび横顔を見るからだ。私がその手をとったり肩や頬のうえに私の手を置いたりするのも自由自在で、アルベルチーヌはあいかわらず眠っている。その顔をかかえて乱暴に向きを変え、その顔を私の唇に押しあてたり、その両腕を私の首に巻きつけたりしても相も変わらず眠っているさまは、まるで止まらずに時を刻みつづける時計のようでも、どんな姿勢をとらせても生きつづける動物のようでも、どんな支柱を与えてもそこに蔓(つる)を伸ばしつづける蔓性植物マルバアサガオのようでもあった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.243~244」岩波文庫 二〇一六年)
(2)「私が手を触れると、そのたびに寝息だけが変化する。まるでアルベルチーヌ自身が一つの楽器で、演奏する私がその弦のひとつひとつから異なる音をひき出して楽器にさまざまな転調を奏でさせているかのようである。私の嫉妬は鎮まってゆく。その規則正しい寝息がはっきり示しているように、アルベルチーヌがただ息をする存在以外のなにものでもなくなったように感じられるからである。この寝息をつうじて表現されているのは純粋に生理的な機能であって、この機能は、さらさらと流れるだけで、ことばの厚みも沈黙の厚みを持たず、いかなる悪も知らないがゆえに、人間から出てきたというよりも葦(あし)のうつろな茎から出てきた息吹というべきか、それに耳を傾けているとアルベルチーヌが肉体的のみならず精神的にもあらゆるものから守られていると感じる私にとっては、文字どおり天国の息吹であって、まさに天使たちの汚れなき歌声であった。とはいえふと私は、この寝息のなかには、記憶がもたらす多くの人間の名前が奏でられているのかもしれないと思った。この音楽にときに人間の声が加わることもあったからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.244」岩波文庫 二〇一六年)
とはいうものの「第五篇」のタイトルは「囚われの女」。アルベルチーヌは<私>の部屋へ軟禁された状態でいつも監視下に置かれている。アルベルチーヌの<植物>への変化、そして<音楽>への変化。それは一方で<私>個人の所有に帰し、もう一方でこれまでに見られなかった自由で多様な変身を遂げる。この、閉じられた<自由>というパラドックス。もはやアルベルチーヌは以前のアルベルチーヌではまるでない。<植物>や<音楽>への変化は、常に幽閉され監視される空間でしか発生しない。鳥が鳴くことを覚えたのは鳥籠の中でだった。
なお、ウクライナ関連について。個人的事情になるけれども、あのような無粋この上ない利権主義的領土問題を見ていると幼少期からのアレルギー性発疹・瘙痒・神経痛が悪化してきた。ステロイド剤や抗アレルギー剤を処方してもらっているがいずれにしても上限がある。上限ぎりぎりという線でやや平行線を描いている程度。アルコール依存症治療のためもう二十年以上アルコールを断っているわけだが、せっかく平均値以下まで落とした内蔵の数値がもし上がり医療費が増えるようなことがあれば夫婦二人と猫一匹だけの家庭であるにもかかわらずたちまち食べていくことができなくなる。そうなればそれこそ米中露首脳陣に賠償請求しなければならない。だとしてもプーチン、バイデン、習近平のような頭の固い老人には通じないに違いない。しかしそもそも一体どこの誰があのような政治指導者たちを国家指導者として支持しているのだろうか。多国籍企業にしても消費者が貧困すればするほどますます商品は売れなくなり肝心の利子はいつまで経っても環流してこなくなるというのに。
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