白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kが見る極端に歪んだ建築物の系列と<説教壇>

2022年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
銀行のイタリア人顧客を案内することになったK。その顧客は美術愛好家でもありKと二人で教会の大聖堂(ドーム)に向かう。出発直前の午前九時半頃レーニから銀行にいるKに電話があった。Kは周囲全体からただ単に「嗾(けし)かけられている」に過ぎないという。

「『あんたは嗾(けし)かけられているのよ』。自分が求めてもいなかった同情の言葉がKには我慢がならず、彼は二言ほどえ別れを告げた。しかし受話器をもとの場所に掛けながら彼は、半ばは自分にむかって、半ばはもはや聞いていない遠くの少女にむかって言った。『そうだ、ぼくは嗾かけられているのだ』」(カフカ「審判・大聖堂にて・P.287」新潮文庫 一九九二年)

レーニは正しく状況を把握している。なるほどKは訴訟へ訴訟へと加速的に「嗾(けし)かけられている」。だが「嗾(けし)かけ」ているのは誰か。K自身ではないだろうか。K自らもっと訴訟をと<欲望>してはいないだろうか。Kはまるで自己増殖する<欲望>を内在化(内面化)させるに立ち至っている。レーニの的を得た言葉はKに向けてK自身の逆説的な二重性を認識するよう働く。だがレーニはたった一言だけでKに、フーコーが指摘したのとは逆方向の「別種の狂気」へ逃走させる言葉を与えてもいる。レーニは「鞭打つ女」でもある。その意味でレーニはKに次の変容を促している。ドゥルーズはいう。

「あなたは男ではありません。私が男にしてさしあげますーーー。マゾッホの小説にたえずあらわれるこの主題は、なにを意味するのか。『男になる』とはなにを意味するのか。それは決して《父のように振舞う》ことでも、その地位を占めることでもないのはあきらかである。それは逆に、父の地位と父との類似を除去することで、新しい人間〔男〕を誕生させることなのだ。責め苦はまさに父に対して、もしくは息子のうちなる父の似姿に対して行使される。すでに述べたように、マゾヒズムの幻想とは『子どもが叩かれる』ではなく、《父が叩かれる》なのだ」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.151~152」河出文庫 二〇一八年)

ドゥルーズの狙いはフロイト批判なのだが、この場合Kにも十分妥当する。「新しい人間〔男〕を誕生させること」。オイディプス三角形型家父長制に基づく家庭〔家族〕の再生産ではなく、まったく新しい家庭〔家族〕へ向けた生産様式の系列を増殖させていくように働きかけるのである。「新しい人間〔男〕」とあるけれども、ここで言われている「〔男〕」はレーニに鞭打たれて快楽することでサディズムを無効化してしまうブロックのような「〔男〕」を指す。だからそれは「ペニスがあるかないか」とか「ヴァギナがあるかないか」とかいった問いを無効化し「LGBT」いずれであってもまるで構わないし、むしろこの二百年ばかりの間でのみ一時的に「常識」とされたに過ぎない「異性愛」という極めて狭い近代の<産物>の檻から外へ出てどんどん別物へ変身することが大事だと告げるのである。資本主義は常に外部を出現させ外部が常識化してしまうやたちまちさらなる外部の「生産」へと人間の意識を振り向けさせることに全力を上げるからである。

教会の大聖堂へ到着したKはイタリア人がゆっくり見て回っている間、休憩をとる。するとそこへ教会の使用人のような人物がKの背後からついて来ていたことに気づく。その動きには<監視する>という役割があるだけでなく次のような或る<規則性>が認められる。

「『おれがとまればやつもとまり、おれが先へ行くかどうか様子をうかがってやがる』」(カフカ「審判・大聖堂にて・P.291」新潮文庫 一九九二年)

わずらわされたくない気分のKはその男のことをあまり気にしないことにして何気なく説教壇を見てみる。なんの変哲もないありきたりの説教壇だ。ところが付属品のような形を取りつつもう一つ「小さな副説教壇があるのに気がついた」。建築物としては明らかに異様だ。小さな副説教壇の「中で説教者は手すりからまるまる一歩はさがれないに違いな」いほど極端に狭い。また「説教壇の石の丸天井は異常に低いところから始まって、装飾こそないがひどく彎曲(わんきょく)して上へ伸びているために、中ぐらいの背の男でもまっすぐ立つことはできず、たえず手すりから身をのりだしていなければならないほど」。さらに「全体がまるで説教者を苦しめるために作られたようなもの」であり、何のために作られたものなのか理解できないとKは思う。

「合唱隊のベンチとほとんどくっついた一本の柱に、小さな副説教壇があるのに気がついた。飾り気のない薄い色の石でできた、ごく簡素な説教壇である。あまりに小さいので、遠くから見ると、いずれ聖人像を収めることにきまっているまだ空(から)の壁龕(へきがん)のようであった。中で説教者は手すりからまるまる一歩はさがれないに違いなかった。その上説教壇の石の丸天井は異常に低いところから始まって、装飾こそないがひどく彎曲(わんきょく)して上へ伸びているために、中ぐらいの背の男でもまっすぐ立つことはできず、たえず手すりから身をのりだしていなければならないほどだった。全体がまるで説教者を苦しめるために作られたようなもので、ほかの大きな芸術味ゆたかに装飾された説教壇も使えるというのに、こんなものが何のために必要なのか、さっぱりわけがわからなかった」(カフカ「審判・大聖堂にて・P.292」新潮文庫 一九九二年)

さらに。

「柱にしがみつくようにして説教壇へ上ってゆく階段は非常に狭くて、まるで人間のためではなく柱の飾りにつけられたとしか見えなかった」(カフカ「審判・大聖堂にて・P.292」新潮文庫 一九九二年)

この種の建築様式はすでに一度ならず読者の前に出現している。(1)始めて訪れた人間の目にはそれとわからない裁判所事務局上り口の極端な狭さ。(2)二人の監視人が笞打ちの刑を受けている銀行の中の極端に狭い物置小屋。

(1)「好奇心からKはさらに戸口まで出てみた、まさか女をかかえたまま通りまで出てゆきはしまいが、学生がどこへ女を運んでゆくか見とどけたかったのだ。が、道順は思ったよりずっと短いものだった。部屋のすぐむかいに、中途で折れているので終りまでは見えないがたぶん屋根裏部屋に通じている狭い木の階段があった。この階段を学生は女を抱えて上っていったのだ、さっき走ったりしたものだから力が萎(な)えて、おそろしくのろのろと、あえぎあえぎ。女は手で下のKに合図を送った。肩をあげたり下げたりしてみせて、この誘拐(ゆうかい)が自分の責任じゃないことを示そうとするのだが、その動きはたいして遺憾そうにも見えなかった。Kは知らぬ女でも見るように無表情に女をみつめた、自分が失望したことも、この失望がたやすく乗りこえられそうなことも、気取られたくなかった。二人の姿はすでに消えてしまっているのに、Kはしかしあいかわらず戸口につっ立っていた。彼もいまや認めないわけにもいかなかった、女は彼を裏切ったばかりではない、予審判事のところへ連れていかれるなんていう申し立てもやはり嘘だったのだ、と。予審判事ともあろう者が、屋根裏部屋に坐(すわ)ってぼんやり待っているはずがあろうか。だが、穴のあくほど眺(なが)めていても、木の階段は何一つ語ってくれなかった。そのときKは上り口に小さな札があるのを見つけ、近寄って読むと、子供じみたへたな字で《裁判所事務局上り口》とあった。じゃ、こんなアパートの屋根裏に裁判所事務局があったのか」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.94~95」新潮文庫 一九九二年)

(2)「Kが彼の事務室と中央階段をへだてる廊下を通りかかるとーーーこの日は彼が最後まで居残り、ほかには発送部で二人の小使が電球の小さな光の輪のなかで働いているだけだったーーーあるドアのかげからうめき声がきこえてきた。のぞいてみたことはないがいままで漠然(ばくぜん)と物置小屋と思っていたところだった。彼はびっくりして立止り、聞き違えではないかどうか確かめるためもう一度耳を澄ましたーーーしばらく静かだった、それからしかしふたたびうめき声がした。ーーーはじめ彼はひょっとして証人が必要になるかもしれぬと思い小使の一人を呼ぼうとしかけたが、抑えがたい好奇心に駆られてすぐドアをあけてしまった。思っていたとおりそこは物置場だった。いらなくなった古い印刷物や、ひっくりかえった空の陶製インク瓶(びん)が入口のうしろに積まれていた。部屋のなかには、天井が低いのでかがみこんで、三人の男がいた。棚(たな)に固定されたロウソクがかれらを照らしていた。『きみたちそんなとこで何してるんだ』。興奮のあまりあわてて、しかし声を抑えてKは訊ねた。最初に目をひいたのは明らかに他の者を牛耳っている一人の男で、そいつは一種の黒い革服を着て首から胸許(むなもと)までと両の腕をむきだしにしていた。彼は返事をしなかった。しかし他の二人が叫んだ。『あんた!あんたが予審判事におれたちの苦情を言ったりしたもんだから、こうして笞(むち)で打たれる羽目になったんだよ』。言われてようやくKは二人が本当に監視人のフランツとヴィレムで、第三の男がかれらを打つために笞を手にしているのに気がついた。『いや』、Kは言ってかれらを見つめた、『苦情を言ったわけじゃない、ぼくの部屋で起ったことを話しただけだ。それにきみたちだって非の打ちどころのない振舞いばかりしてたわけじゃないだろう』」(カフカ「審判・笞刑吏・P.116~117」新潮文庫 一九九二年)

なお、ウクライナ関連マスコミ報道について。情報過多のため、一概に判断するわけにはいかない。カフカの短編「走り過ぎる者たち」の読者の位置に留まっているのが今のところはベターかと思われる。

「夜、狭い通りを散歩中に、遠くに見えていた男がーーーというのは前が坂道で、明るい満月ときているーーーまっしぐらに走っているとしよう。たとえそれが弱々しげな、身なりのひどい男であっても、またそのうしろから何やらわめきながら走ってくる男がいたとしても、われわれはとどめたりはしない。走り過ぎるがままにさせるだろう。なぜなら、いまは夜なのだから。前方が上り坂で、そこに明るい月光がさしおちているのは、われわれのせいではない。それにその両名は、ふざけ半分に追いかけ合っているだけなのかもしれないのだから。ことによると二人して第三の男を追いかけているのかもしれないのだから。先の男は罪もないのに追われていて、背後の男が殺したがっているのかもしれず、とすると、こちらが巻き添えをくいかねないのだから。もしかすると双方ともまったく相手のことを知らず、それぞれがベッドへ急いでいるだけなのかもしれないのだから。もしかすると夢遊病者かもしれないのだから。もしかすると先の男が武器を持っているかもしれないのだから。それにそもそも、われわれは綿のように疲れていないだろうか」(カフカ「走り過ぎる者たち」『カフカ寓話集・P.79~80』岩波文庫 一九九八年)

また「チェルノブイリ原発」の危険性は相変わらずアピールされているしアピールされなければならないが、だからといって開発中の「新型原発」は安全だということには全然ならない。ニーチェが厳しく注意しているように「遠近法的錯覚」に陥ることのないよう注意深い態度を保つことが重要だろう。さらに「難民」について。資本主義は基本的にナショナリズム的民族主義の固定化を激烈に毛嫌いする。大きく二点上げておこう。第一に流通が滞ることを避けるため。第二により長期的な傾向だが、人間の「均質化・一般化・凡庸化」をとことん押し進めるため<雑婚・雑種>の生産を欲望するよう常に働きかけてやまない点。今回ロシアから脱出した大勢の人々が難民化しつつあるようだがそれこそ資本主義の望むところであって、軍事行動が沈静化した時点で、一度「難民化」した人々が再びロシアへいったん帰国することができるようになってもそれは往来という形を取るしかない。何度も移動を繰り返すうちに別々の民族同士が新しく出会い新しい家庭〔家族〕が生産されることになる。すると言語も肌の色も教育形態も価値観も加速的に似てくる。労働力商品の均質化のためには資本の側と労働者の側との合体にあたってより一層躊躇なくスムーズに行われることを資本主義は欲望することをやめないからである。

問題は無数のマスコミ報道にもかかわらず、それらとはまた別次元でグローバル化した資本主義にとってもはや旧体制(旧西側か旧東側か)などまるで問題にせず留保なき弁証法を繰り返す事情にある。

(1)「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.246~247」岩波文庫 一九五一年)

(2)「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.248~249」岩波文庫 一九五一年)

(3)「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.251」岩波文庫 一九五一年)

(4)「或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして《限りなく》続いていく」(ヘーゲル「小論理学・上・九三・P.286」岩波文庫 一九五一年)

さらに資本主義はグローバルなネットワークを通して限りなく労働力商品と剰余価値の実現とを求める。

「みずからが《自由であると主観的に規定する》ための《個々人の法》〔権利〕は、彼らが人倫的現実性に帰属することにおいて実現される。というのは、個々人のもつ、自分が自由だという《確信》は、このような客観性のなかで《その真理》をえ、そして個々人は、人倫的なものにおいて、《自分自身の》本質、自分の《内的な》普遍性を《現実的に》所有するからである」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・一五三・P.27~28」岩波文庫 二〇二一年)

同じことだが「精神現象学」ではこうある。

「自らの欲〔要〕求のためにする個人の《労働》は、自己自身の欲〔要〕求の満足であるように、また他人の欲〔要〕求の満足でもある。個人が自己の欲〔要〕求を満足させるのは、ただ他人の労働によるのである。ーーー個別者は、自ら《個別的に》労働するとき、すでに《意識せずに》、《一般的な》労働を果たしているように、一般的な労働をも、自らの《意識》的な対象として、果たしてもいる。全体は、《全体として》個別者の仕事となり、この仕事のために、個別者は自分を犠牲とし、まさにこの犠牲によって、全体の方から、自分自身を逆に支えられるのである。ーーーここには相互的でないようなものは何もない」(ヘーゲル「精神現象学・上・理性・理性的自己意識の自己自身による実現・P.400」平凡社ライブラリー 一九九七年)

一度平坦化したかと思えば再び生じてくる歪みを修正するために到来しなければならないのはいつも「労働力商品・労働現場・労働賃金・諸商品の無限の系列」である。そうして始めて決済を延々引き延ばしていくことができる。価値体系の異なる外部を次々に作り出して最終的決済を引き延ばすとともに消費者にいつも諸商品の剰余価値を実現させることが可能な社会的環境が常に更新されていなくてはならない。

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