白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルーストの欲望としての<冒瀆・偶然・芸術作品>

2022年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストはこれまで行ってきた記憶の復元方法について<習慣・秩序・規則性>というものを排除しなければいつまで経っても<真実なもの>を取り戻すすべての作業が不可能に陥ることに気づいた。とりわけそれは、以前からずっと自明だとばかり思い込んでいて疑うことのなかった<制度>を逆に忘れ去ることの重要性を示唆している。こうある。

「ヴァントゥイユの知られざる作品をよみがえらせた敬愛の情がモンジュヴァンの乱脈をきわめた環境から生まれたとすれば、現代の最高傑作かもしれない作品が、全国学力コンクールやブロイ流の型にはまった模範的教育から生まれたのではなく、競馬場の『パドック』や大きなバーへ通いつめる暮らしから生まれたのだと考えると、私はこれにもやはり驚かずにはいられなかった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.417~418」岩波文庫 二〇一七年)

ヴァントゥイユの場合は音楽。しかしヴァントゥイユが残した楽譜類はほとんどばらばらのままであって、誰かヴァントゥイユの創作方法について熟知している他の人間の手によってようやくまとめ上げられたものだ。スワンが衝撃を受けたピアノ・ソナタのほんの僅かな一節にしても、最初はばらばらなまま放置されていた<諸断片>を一応ひと通りの作品としてまとめた人間がおり、その恩恵の上に出現することができた。まとめることが出来たのはたった一人、ヴァントゥイユの娘であるヴァントゥイユ嬢の女友だちである。ほかの誰一人として不可能な困難な作業を遂行してみせたのはヴァントゥイユ嬢とその女友だちとの緊密な同性愛関係であり、衝撃的ヴァントゥイユ音楽の<作品化>は二人の同性愛関係から生まれた。またヴァントゥイユ嬢とその女友だちとの緊密な同性愛はヴァントゥイユ嬢の父・大音楽家ヴァントゥイユの肖像写真がすぐそばから見下ろすベッドの上で繰り広げられる。

「ヴァントゥイユが死んだとき、残されたのは例のソナタだけで、ほかには存在しないも同然の、判読できぬメモしかないと言われていたからである。その判読できぬメモは、しかし根気と叡知と敬意を尽くしてついに解読されたのであり、それをなしとげたのは、ヴァントゥイユのそばで長らく暮らしたおかげで、その仕事のやりかたに通暁し、そのオーケストラ用の指示も判読できるただひとりの人、つまりヴァントゥイユ嬢の女友だちであった。この女友だちは、すでに大音楽家の生前から、娘が父親に寄せていた崇拝の念をその娘から学んでいたのである。この崇拝の念があったからこそふたりの娘は、本来の性向とは正反対の方向へと突きすすむ瞬間において、すでに語ったような冒瀆の行為に錯乱した快楽を覚えることができたのだ。父親を崇めて熱愛することは、娘が冒瀆に走るための条件そのものだったのである。もとよりふたりの娘はそうした冒瀆行為による官能の快楽など斥けて然るべきであったかもしれないが、しかしその快楽がふたりのすべてを示しているわけではなかった。おまけにそのような冒瀆行為は、ふたりの病的な肉体関係が、つまり混濁してくすぶる熱情が、気高く純粋な友情の炎に取って替わられるにつれてしだいにまれとなり、ついには完全に消えてしまった。ヴァントゥイユ嬢の女友だちの脳裏には、もしかすると自分がヴァントゥイユの死期を早めたのではないかという拭いきれぬ想いがよぎるときがあった。それでも女友だちは、ヴァントゥイユが遺した判読できない書きこみを何年もかけて解読し、だれひとり知らぬその判じ物の正しい読みかたを確定することによって、自分は音楽家の晩年を暗いものにしたが、その償いとして音楽家に不滅の栄光を保証したのだという慰めを得たのである。法律によって認知されない関係からも、結婚から生まれる親族の関係と同じほどに多様で複雑な、ただしはるかに揺るぎなき近親の関係が生じるものだ。それほど特異な性格の関係にこだわらなくても、たとえば不倫が正真正銘の愛に基づくものであれば、家族の情愛や肉親の義務をなんら揺るがすことはなく、むしろそれを再活性化することは、われわれが日々目にしているではないか?このとき不倫は、結婚によってたいてい空文化してしまったものに精神を吹きこんでいるのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.162~163」岩波文庫 二〇一七年)

プルーストはそれを「冒瀆」と呼ぶ。けれどもプルーストは二人の若い女性が織りなす冒瀆行為をただ単純素朴に非難しているわけではまるでない。

「『あらいやだ、お父さんの写真が私たちを見てるじゃないの。いったいだれがこんなところに置いたのかしら、なんどもこんなところに置いちゃいけないって言ってあったのに』。私は、これはヴァントゥイユ氏が楽譜のことで私の父に言ったのと同じ言葉なのを想い出した。おそらくこの肖像写真は、ふたりの冒瀆の儀式にふだんから使われていたのであろう。友だちが答えたつぎのせりふは、儀式化した返答の一部のように聞こえたのである。『そのまま置いとけばいいじゃないの。もう居ない人なんだから、私たちだって困らないでしょ。それとも開いてる窓からあんたのこんなすがたを見たら、やっぱりめそめそしてコートを掛けてやりたいと思うのかしら、あの猿面(さるづら)は』。ヴァントゥイユ嬢は、優しくたしなめるように『これ、なんてことを』と答えたが、それは善良な心根の証(あかし)だった。父親のことを悪ざまに言われ憤慨してそう言ったのではなく(そのような憤慨は、娘がいかなる詭弁を弄してそうしたかは不明だが、ことにおよぶときは心の中で圧殺する習わしだった)、エゴイストに見られないよう、友だちが与えようとする快楽に自分でブレーキをかける言葉だったのである。それに、冒瀆の言辞にかくもにこやかに節度をもって答え、偽善的ではあるがかくも優しく咎(とが)めるのは、率直で善良な心根の持主には、自分が同化しようとする極悪のわけてもおぞましい猫をかぶった一形態と思えたのかもしれない。しかし娘は、無抵抗の死者にすら容赦しない相手に優しくしてもらえるのだと想い、味わえるはずの快楽の誘惑にはうち勝てなかった。友だちの膝のうえにとび乗ると、慎みぶかく額を差し出して接吻をおねだりした。まるで娘が親にするような仕草だったが、このようにふたりで残忍を極めれば鬼籍に入ったヴァントゥイユ氏から父性を剥奪できると考えて、うっとりしたのである。友だちは娘の顔を両手で受けとめ、額に接吻した。たやすくそうしてやれたのは、ヴァントゥイユ嬢をおおいに愛(いつく)しみ、いまや孤児として悲嘆に暮れる人生にすこしでも気晴らしを与えてやりたいと思ったからである。『わかるかしら、私がこの醜い老いぼれをどうしてやりたいのか』と友だちは肖像写真を手にとって言った。そしてヴァントゥイユ嬢の耳元になにかささやいたが、私には聞こえなかった。『まさか、あなた、そんなことはできないでしょ』。『まさか、できないって?つばを吐くのが?《これ》のうえに?』と友だちはわざと乱暴に言った」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.349~351」岩波文庫 二〇一〇年)

プルーストのいう「冒瀆」は宗教的なものではなく思想的なものでもなく、ましてや道徳的な意味では全然ない。たった今引用した部分を見れば明らかなように「冒瀆」がさらなる「冒瀆」を出現させつつ<性的欲望としては>嫌が上にも盛り上がっていく過程を述べたに過ぎない。ほとんど世界中の人々が知っているように、異性愛的性行為一つ取ってみてもその場は無数の多元的諸要素で充満している。例えば熱烈に愛し合っている男女の場合。性行為の途中で男性が女性に向かって「なんだ、この濡れようは!」と冒瀆的言辞を吐きかける。そこで女性は「いやあ、やめて」と応答する。そこで男性が本当に行為をやめて女性を置き去りにしたまま家に帰りぐっすり眠りこけたとしよう。もうこの恋愛は終わるしかない。さらに男性が「普段は固くないのに固くなったこの乳首。どういうことだ!」とか「なんだ、この、たまらなくいやらしい腰は!」とか叫びながら逃げ出そうともせず逆に汗水垂らして自分の腰を振り続けるのに対し、後日女性が自分の乳首や女性器を外科手術による切除で答えたとしよう。しかしそのような応答はあり得ない。むしろ女性は自分自身に以前にはなかった新しい自信を獲得する。

プルーストは冒瀆がさらなる冒瀆を出現させていく事情を丹念に記述しているばかりであって、宗教も思想も道徳もまるであったものではないのだ。また父ヴァントゥイユの肖像写真が掲げられているが、<父・母・子供>という<オイディプス三角形型家父長制>は消失している。あるのはオイディプス三角形ではなく<父・娘・娘の女友だち>という<非制度的>な脱コード化運動ばかり。その意味でプルーストは<冒瀆は欲望の生産である>と読者に教えているに等しい。ただし、年齢性別を問わず本当に拒否している相手を無理やり性行為に引きずり込んだ場合、それこそただ単なる犯罪でしかなく、被害者の側は生涯に渡る後遺症に苦悩し続けなければならなくなるケースも大量にあるので注意深い態度が必要なのは言うまでもない。しかし女性同士の同性愛の場合、あまりにも性急過ぎる若い男女にありがちな異性愛とはまるで異なり、<最終的結審・絶対的決済>を周到に避けつつ延々引き延ばしていけるという利点がある。最後の最後に訪れてきそうな噴火を外らせることができる。プルーストの文章が延々と引き延ばされていくのと似ていないだろうか。プルーストは或る冒瀆行為を冒瀆することで別の冒瀆行為を出現させる。今度は新たに出現してきた別の冒瀆行為を再び冒瀆的言語へ翻訳し直すことで<冒瀆>それ自体を華々しく<飾り立てる>。まだ「第一篇・第一部」でしかないにもかかわらず、すでにプルーストは<冒瀆への意志>を隠そうともしていない。

またこうも述べている。

「よくもあんな女を愛するものだと人が不思議に思うような凡庸な女のほうが、聡明な女よりも、その男たちの世界をはるかに豊かにする。男たちは女の発言のひとつひとつの背後に嘘を嗅ぎつけ、女が行ったというどんな家の背後にもべつの家を、どんな行動やどんな人の背後にもべつの行動やべつの人を嗅ぎつける。おそらくその男たちは、どれがほんとうの家や行動や人なのか知らないし、それを知るまで奮起する気力も、知りうる可能性も持たないだろう。嘘つきの女は、じつに簡単な手口で、その手口を変える手間をかけずとも大勢の人間をだますことができるし、そのうえ、その手口を見抜けるはずの同じ人間を何度もだますことさえできる。これらすべてが感じやすい聡明な男たちの眼前にきわめて奥深い世界をつくりだすので、男たちの嫉妬心はその深さを測ってみたくなり、男たちの知性はその深さに興味をそそられずにはいないのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.437~438」岩波文庫 二〇一七年)

この箇所の直前には「凡庸な」と「聡明な」とに関する説明文のような文章が長々と横たわっている。退屈この上ない。簡略にするため、ここでは「凡庸な女」という記述を差し当たり「どこを探しても中味がないような女」と言い換えて用いるのが断然妥当かと思われる。するとニーチェの言葉を当てはめてこういうことができる。

「《仮面》。ーーーどこを探しても中味がないような、純然たる仮面にすぎないような女たちがいる。ほとんど幽霊のような、当然満足させてくれるはずもないこうした者とかかわり合う男はあわれなものだ。しかしまさしく彼女らこそ男の欲望をもっとも強く刺激できるのである。男は彼女らの魂を探すーーーそしていつまでも探す」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四〇五・P.357」ちくま学芸文庫 一九九四年)

プルーストは「創作」ということについてこういう。

「文学作品をつくるうえで想像力と感受性はたがいに交換不可能な能力であるとか、感受性は想像力にとって替わられると大きな支障をきたすとかの説も、確かなものとは言えない。胃の消化能力を欠いた人たちが、その機能を腸に代替させている例もある。生まれつき感受性は豊かであるものの想像力に欠ける人が、にもかかわらず優れた小説を書くこともあるそんな人に他人がひきおこす苦痛、その苦痛を防ごうとするその人の努力、その苦痛と残忍な相手とが生みだす葛藤、それらがすべて知性によって解釈されて一冊の書物の素材となり、その書物が、想像力によって編みだされた場合と比べてなんら遜色のない優れた出来映えとなるばかりか、想像力の偶然の気まぐれと同じく、自分勝手に振る舞い幸せにすごしてきた作者の夢想などとは無関係な、自分自身にとって思いがけない偶発的な作品となることもあるだろう」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.502」岩波文庫 二〇一八年)

著名な作家はたくさんいるのだが彼らの「想像力の偶然の気まぐれ」に等しい条件のもとで、それまで文学とはほど遠いところにいた人間の手から、途方もなく優れた文学作品が出現することが稀にある。意識していたわけではまるでなく思いがけず<偶然>出現し<見出された現実の歓び>とプルーストはいう。

「私は中庭に不揃いなふたつの敷石を探しに行って、それにつまずいたわけではない。そうではなく偶然、避けようもないものとしてその感覚に出会ったこと自体が、その感覚でよみがえらせた過去の真正さと、その感覚が生じさせたイメージの真正さを保証してくれる。なぜならわれわれは、明るい光のほうへ浮上しようとするその感覚の努力を感じるからであり、ようやく見出された現実の歓びを感じるからだ。またその感覚は、そこからひき出される当時の印象からなる画面全体に、光と影、起伏と欠如、回想と忘却などを間違いのない割合で配合し、その画面の真正さをも保証してくれる。意識的な記憶や観察では、そのような割合の配合は永久に知られないだろう」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.456」岩波文庫 二〇一八年)

そのような偶然性が持つ可能性は測り知れない。この場合のようにそれは<不意打ち>として、また<暴力>として出現した。その瞬間、やおら<見出された現実の歓び>が<私>の身体を刺し貫いた。そしてそれこそが<創造行為への意志>を長い眠りから呼び覚ますのである。

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