白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルーストが探求する<嫉妬の力>と<女性同性愛とその横断性>の系列

2022年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストは回想という形式を装いながら、その実、自分で自分自身の欲望を果てしなく延長させていく。「失われた時を求めて」は、だから、無理やり持ってきたラストらしき箇所が残されてはいるけれども、にもかかわらず本来的に結末のない作品だと十分に言いうる。もし本当にこれが最後と決定づける価値を持つ何らかの発見によって決定的結果が判明していたとすれば、あのような複雑に錯綜しているだけでなく一つの発見の次にまた次の発見が続くという延々と引き延ばされていく展開には決してならなかったに違いない。とはいえプルーストは読者に向けて文学の絶望性を与えたわけではまるでない。結末が<ない>という致命的事態。そこから逆に<増殖する文学機械>というまったく新しい<多様な諸系列>を可視化したと言える。というのも、プルーストは無謀ともいうべき「真実」への探究という作業に取りかかったからである。その瞬間すでにプルーストはその不連続性と複合性という無数に混み入った<記号の森>の中へ分け入っていたことになる。そして次のように、あえて「言葉」に依存する必要性は<ない>と述べている。

「真実は公言されなくても顕在化することであり、ことばを待つまでもなく、ことばをなんら考慮しなくても、外にあらわれた無数の兆候から、いや、自然界における大気の変動に相当する人間の性格という領域における目には見えないある種の現象からでも、真実をもっと確実に入手できるかもしれないことである。これは私が自分で気づいてもよかったことかもしれない。なぜなら当時の私は、なんら真実を含まないことばをしばしば口にする一方、むしろ真実を自分の身体や行為によって無意識のうちに告白することが多かったからだ(そんな告白をフランソワーズはじつに正しく理解した)」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.144」岩波文庫 二〇一三年)

諸系列の果てしない連鎖は早くも第一篇から始まっている。どこにでも見られるありふれた異性愛の形。例えば、スワンの<嫉妬>はその種の過程をたどる。作品はまだ始まったばかりなのだが、スワンの<嫉妬>一つだけを取り上げてみたに過ぎない箇所に差しかかった時点でもう、事態は「拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していた」と。

「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)

スワンは自分で自分自身に向けられた苦痛を拡大再生産していく。異性愛にせよ同性愛にせよ両性具有的な横断性性愛にせよ、恋愛の諸相は<嫉妬する力>抜きにあり得ない。「その嫉妬心は、執念深い人がタコの足のように最初のもやい網を投げいれると、ついで第二の、さらに第三のもやい網を投じるのと同じで、まずは夕方の五時という瞬間に食らいつき、ついでべつの瞬間に、さらにもうひとつべつの瞬間にとり憑くのである。とはいえスワンは、つぎからつぎへと自分の苦痛を編み出したわけではない。それら一連の苦痛は、スワンの外から到来したひとつの苦痛を想い出したうえで、それを永続化したものにほかならなかった」と。

「スワンは郵便局から家に戻ったが、この一通だけは出さずに持ち帰った。ロウソクに火をつけ、封筒を近づけた。開けてみる勇気はなかったのである。最初はなにも読めなかったが、なかの固いカード状用箋を封筒の薄い紙に押しつけると、最後の数語が透けて読めた。きわめて冷淡な結びのことばである。今のようにフォルシュヴィル宛ての手紙を自分が見るのではなく、かりに自分宛ての手紙をやつが読んだら、はるかに愛情あふれる言葉がやつの目に入ったことだろう!スワンは、大きすぎる封筒のなかで揺れる用箋を動かないように押さえ、それからなかの用箋を親指でずらして、書いてある行を順ぐりに封筒の二重になっていない部分にもってきた。そこなら透けて読めたのである。それでも、はっきりとは判読できなかった。もっともきちんと読めなくても差しつかえなかった。書いてあるのは重要でない些末なことで、ふたりの恋愛関係をうかがわせることは一切ないのがわかったからである。オデットの叔父のことが書いてあるようだ。行のはじめに『あたしは、そうしてよかったのです』と書いてあるのが読めたが、どうしたのがよかったのかスワンは理解できなかった。が、突然、当初は判読できなかった一語があらわれ、文全体の意味が明らかになった。『あたしは、そうしてよかったのです、ドアを開けた相手は叔父でしたから』というのだ。開けた、だって。すると今日の午後、俺が呼び鈴を鳴らしたとき、フォルシュヴィルが来ていたのだ。あわてたオデットがやつを帰らせたために、あんな物音がしたのだ。そこでスワンは、手紙を端から端まで読んだ。オデットは最後に、あのように失礼な対応になったことをフォルシュヴィルに詫びたうえで、タバコを忘れてお帰りになった、と書いている。スワンが最初にオデットの家に寄ったときに書いて寄こしたのと同じ文面である。だが俺には『この中にあなたのお心もお忘れでしたら、お返ししませんでしたのに』と書きそえていた。フォルシュヴィルには、そんなことはいっさい書いていない。ふたりの関係は暗示する文言はなにひとつ出てこない。それにどうやらこの内容からすると、オデットはやつに手紙を書いて訪ねてきたのは叔父だと信じこませようとしているのだから、そもそもフォルシュヴィルは俺以上に騙されていることになる。要するにオデットが重視していたのは俺のほうで、その俺のために相手を追い払ったのだ。それにしてもオデットとフォルシュヴィルのあいだに何もないのなら、なぜすぐにドアを開けなかったのだろう。なぜ『あたしは、そうしてもよかったのです、ドアを開けたのは叔父でしたから』などと書いたのだろう。そのときオデットになんらやましいところがなかったのなら、ドアを開けなくてもよかったのにと、どうしてフォルシュヴィルが考えるだろうか。オデットがなんの危惧もいだかず託してくれたこの封筒を前にしたとき、スワンは申し訳ないと恐縮したが、それでも幸せな気分だった。自分のデリカシーに全幅の信頼を置いてくれたと感じられたからである。ところがその手紙の透明な窓を通して、けっして窺えないと思っていた事件の秘密とともに、未知の人の生身に小さく明るい切り口が開いたかのようにオデットの生活の一部があらわになったのだ。おまけにスワンの嫉妬も、この事態を歓迎した。嫉妬には、たとえスワン本人を犠牲にしてでも、おのが養分になるものを貪欲にむさぼり食らう利己的な独立した生命があると言わんばかりである。いまや嫉妬が糧(かて)を得たからには、かならずスワンは毎日、オデットが五時ごろだれの訪問を受けたかが心配になり、その時刻にフォルシュヴィルがどこにいたかを知ろうとするにちがいない。というのもスワンの愛情は、オデットの日課に無知であると同時に、怠惰な頭脳ゆえに無知を想像力で補うことができないという当初に規定された同じ性格をあいかわらず保持していたからである。スワンが最初に嫉妬を感じた対象は、オデットのすべての生活ではなく、間違って解釈された可能性のある状況にもとづきオデットがほかの男と通じていると想定される瞬間だけだった。その嫉妬心は、執念深い人がタコの足のように最初のもやい網を投げいれると、ついで第二の、さらに第三のもやい網を投じるのと同じで、まずは夕方の五時という瞬間に食らいつき、ついでべつの瞬間に、さらにもうひとつべつの瞬間にとり憑くのである。とはいえスワンは、つぎからつぎへと自分の苦痛を編み出したわけではない。それら一連の苦痛は、スワンの外から到来したひとつの苦痛を想い出したうえで、それを永続化したものにほかならなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.220~223」岩波文庫 二〇一一年)

また同性愛(横断的性愛含む)についてプルーストは注意深い話者の位置を取る。ヴァントゥイユ嬢とその女友だちとの同性愛シーンについて書く時、そのすぐ直前に次の一節が見える。

「いかなるときにも娘の心底には、すがるような内気な生娘がいて、もうひとりの無骨で勝ち誇る兵士のような無頼漢には哀願して遠慮してもらうのだ」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.348~349」岩波文庫 二〇一〇年)

一人の女性の心底に「二人かそれ以上の<人格>」が存在するというわけだ。ニーチェから三ヶ所。(1)は「私は」と「私を」との違い。人間の身体はなるほど一つに見えてはいても人格としては別々に取り扱うことができるばかりか常にそうしているという前提。(2)は一人の人間の自己愛の中にも「混じがたい二元性(あるいは多元性)」を見ないわけにはいかないという事情。日常生活では当り前に起こっていてもはや誰もそれを不思議がらないほど常識化している点について。(3)は<人格の多元性>にもかかわらずなぜ<統一>された一つのものとして考えられるに至ったのかという自己欺瞞の暴露。

(1)「私はと私をとはつねに二つの異なった人格である」(ニーチェ「生成の無垢・下・一六四・P.99」ちくま学芸文庫 一九九四年)

(2)「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)

(3)「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

さてそこでヴァントゥイユ嬢は同性愛を通して与えられるに違いない官能を求める。「背徳」と書かれているけれどもプルーストは背徳を非難しているわけではなく、想い出を忠実に想い出し、それを探究すればするほど自分が八十年以上をかけて見てきた世界がどれほど背徳で充満した世界であるか、というより逆に背徳なしに世界は存在しないのでは?と問いかけていると見るのが妥当だろう。

「『そうね、きっと見られるわ。なんたってこんな時間で、人通りの多い田舎なんだから』と友だちは皮肉を言い、『でもそれがどうしたの?』と、さらに言葉をついだ(友だちはからかいまじりの愛情あふれる目配せをすべきだと考え、ヴァントゥイユ嬢を喜ばせるせりふだとわかったうえで、好意から、だが努めて恥知らずな口調でこう言ったのだ)、『見られたとしたら、かえって好都合じゃないの』。ヴァントゥイユ嬢は、身震いして起きあがった。そのきまじめで感じやすい心には、おのが官能を求める場面にどんな言葉がとっさに出るのがふさわしいのかがわからなかった。本来の道徳的性格からできるだけかけ離れた、背徳の娘になりたちという願いにふさわしい言葉づかいを探し求めたものの、背徳の娘なら心底から口にするにちがいない言葉は自分が口にしたのでは嘘になると思えたのだ。かろうじてそんな言葉をなんとか声に出しても、習い性となった内気さゆえに大胆な気持は萎縮してしゃちこばった口調になり、結局『あなた、寒くない?暑すぎない?ひとりで本を読みたくないの?』と言うのが関の山だった。そしてついにこう言った。『お嬢さま、今夜は、ずいぶんいやらしいことをお考えのようね』。おそらく以前に友だちが口にしたせりふを覚えていて、それをくり返したのである。クレープ地のブラウスの襟ぐりに友だちがいきなり接吻するのを感じて、ヴァントゥイユ嬢は小さな叫び声をあげて逃げ出した。ふたりが飛び跳ねて追いかけあい、ゆったりした袖をまるで翼のように羽ばたかせて、くっくっと笑ったり、ぴいぴいと鳴き交わすのは、愛しあう小鳥同士を想わせる。やがてヴァントゥイユ嬢がソファーに倒れこむとそのうえに友だちの身体が覆いかぶさった」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.348~349」岩波文庫 二〇一〇年)

ところでこのシーンは話者が述べているわけだが、ではいったい話者はなぜヴァントゥイユ嬢とその女友だちとの同性愛シーンを見ることができたのか。<覗いた>からである。見る側からはすっかり見えるけれども逆に見られる側は見られていることがわからない位置から話者は<覗いた>。この構造はフーコーが<パノプティコン>について述べた構造と同じものだ。

「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社 一九七七年)

ソドムとゴモラという二つの系列が出現する。とりわけ重要なのは<ゴモラの系列>(女性の同性愛とその横断性)である。アルベルチーヌを自分一人で独占したと思っていた<私>にとってそれはまるで「《未知ノ土地》」に映って見えざるをえない。強烈な<嫉妬>に襲われる<私>。だがアルベルチーヌの性愛の相手が男性だったなら「同じ土俵」に立つことができる。しかし打ち倒すべきは女性同士の間柄である。するともはやその領域に乗り込んでいってどう振る舞えばいいのかさっぱりわからなくなる。「武器」が違うこと。さらに二人が与え合っている「快楽」について「予想もつかない」というほかない。敗北するのだ。

「私がいまや上陸したのは恐ろしい《未知ノ土地》で、想いも寄らぬ苦痛にさいなまれる新たな局面が目の前にあらわれたのだ。しかしながら、大洪水のようにわれわれを呑みこんでしまうこの現実は、それまでの臆病なつつましい想定と比べればいかに巨大であるとはいえ、その想定によってじつは予感されていたことである。私がアンドレのそばにいるアルベルチーヌを見てあれほど不安に感じたのは、おそらく今しがた知ったようなこと、アルベルチーヌとヴァントゥイユ嬢との友情のようなこと、はっきり頭には想い描けなかったものの私がぼんやりと怖れていたことだったのだろう。人がとことん苦しい想いをしないのは、たいていは創造的精神に欠けるからにすぎない。さらにいえば、このうえなく恐ろしい現実がわれわれに苦痛とともにすばらしい発見の歓びを与えてくれるのは、そうとは気づかぬまま長いあいだ想い悩んでいたことにその現実が斬新で明快な形を与えてくれるからにほかならない。汽車はパルヴィルに停まっていて、なかの乗客が私たちだけであったからだろう、駅員は任務を果たす甲斐がないと思うのか、それでも几帳面かつ無気力にその任務をこなす習慣ゆえなのか、それとも眠気ゆえなのか、いかにも弱々しい声で『パルヴィル!』と告げた。私の向かいにいたアルベルチーヌは、目的地へ到着したのを見ると、私たちのいた車両の奥から二、三歩あゆんでドアを開けた。しかし降りようとしてアルベルチーヌがしたこの動作は、私の心を堪えがたいまでに引き裂いた。私の身体から二歩ほど離れたところにアルベルチーヌの身体が占めているように見える位置、それは私の身体とは独立した位置であり、その空間の隔たりは真実を描かんとするデッサン画家ならふたりのあいだに然るべく描かざるをえないはずのものであるが、にもかかわらずその空間の隔たりは単なる外見にすぎず、正真正銘の現実に即して事態を描き直そうとする人なら、いまやアルベルチーヌを私からすこし離れたところに配置するのではなく、私の心のなかに配置しなければならないと言いたくなる事態である。遠ざかるアルベルチーヌが私に堪えがたい苦痛をひきおこしたので、私は追いすがり、必死に腕をとってひき戻した。『実際のところ無理だろうか』と私は訊ねた、『今夜バルベックへ来て泊まるのは?』。『実際のところ無理よ。眠くて倒れそうなんだもの』。『そうしてくれると、ものすごく嬉しいんだけどーーー』。『じゃあ、いいわよ、でもへんね、どうしてもっと早く言ってくれなかったの?とにかくそばにいてあげるけど』。アルベルチーヌにはべつの階に部屋をとってやって私が自分の部屋へ戻ったとき、母は眠っていた。私は窓のそばに座って、私とは薄い仕切り壁で隔てられているだけの母に聞きつけられないように、嗚咽(おえつ)の声を押し殺した。私は鎧戸を閉めるのさえ忘れていたらしい。というのも、どれほど経ったのか、ふと目をあげると、目の前の空に、くすんだ赤い色の小さな薄明かりが見えたからで、それはリヴベルのレストランに掛かる習作のなかにエルスチールが描いた夕日とそっくりだった。そんな夜になる前の夕方ではなく、むしろ新たに一日が始まる前のことだが、私ははじめてバルベックへ到着する日、汽車からこれと同じイメージを目にして感動したことを想い出した。だが今後の私には、新たな一日などないのだ。どの一日も、私の心に未知の幸福を求める気持を目覚めさせることはなく、ひとえに私の苦痛をひき延ばすだけで、しかも私にその苦痛に耐える力がなくなるまでひき延ばすのだ。コタールやパルヴィルのカジノで私に言ったことの真相は、私にはもはや疑いえないものになった。アルベルチーヌにかんしてずいぶん前から怖れていたこと、ぼんやりと疑っていたこと、私の本能が全身全霊で嗅ぎつけていながら私の願望に誘導された推論がすこしずつ私に否定させてきたこと、それは本当だったのだ!アルベルチーヌの背後に見えるのは、もはや海の青い山脈ではなくモンジュヴァンの寝室で、アルベルチーヌはそこでヴァントゥイユ嬢の腕に抱かれ、官能の歓びから聞きなれない音を漏らしながら笑っているのだ。あのような嗜好をもつヴァントゥイユ嬢が、アルベルチーヌのようなきれいな女を相手にして、どうして自分の嗜好を充してほしいと頼まないはずがあろう?その求めにアルベルチーヌは憤慨せず、同意したにちがいない。その証拠に、ふたりは仲違いもせず、それどころかますます親密になるばかりだったではないか。そrねいアルベルチーヌがロズモンドの肩に顎(あご)をのせ、にっこりと相手を見つめてその首筋にキスしたときのあの優雅な動作は、ヴァントゥイユ嬢を想い出させたものの、その動作を解釈するにあたっては、ある仕草が同様の線を描いたからといって必ずしも同じ嗜好から出たものとはかぎらないと躊躇したが、アルベルチーヌはその動作をほかでもないヴァントゥイユ嬢から学んだのではないか?くすんだ空がすこしずつ明るくなってきた。これまで目を覚ましたときの私は、どんなつまらないものにも、たとえばカフェオレの大きなカップにも、雨の音にも、風の轟音(ごうおん)にも、かならず微笑みかけずにはいられなかったものだが、これから始まる一日は、いや、このあと到来するすべての日々は、もはや未知の幸福を期待させることはけっしてなく、筆舌に尽くしがたい私の苦難をただひき延ばすだけであると感じた。私はなおも人生に執着していたが、その人生から期待できるのはもはや辛いことでしかないのだ。私はエレベーターのところへ駆けてゆき、非常識な時間にもかかわらず呼び鈴を鳴らして夜景役のリフトを呼びつけ、アルベルチーヌの部屋へ行って、重要な話があるので部屋を訪ねてもいいか訊いてくれと頼んだ。『お嬢さまのほうからこちらへ伺うとおっしゃっています』と戻ってきたリフトは答えた、『すぐにいらっしゃいます』。実際しばらくするとアルベルチーヌは部屋着をまとってはいってきた。『アルベルチーヌ』と私は非常に小さな声で言って、母を起こすといけないから大きな声を出さないように頼んだ。母と私たちは薄い仕切り壁で隔てられているだけで、いまやそれが厄介でひそひそ声で話さざるをえないが、かつてその壁に祖母の意図がはっきりあらわれたときには、その壁がまるで透明な楽器のように思われたものだ。『こんな時間に申し訳ないが、じつはこうなんだ。きみにわかってもらうには、きみの知らないことを言わなければならない。ぼくはこっちへ来るときに、じつは結婚するはずだった女性と別れてきたんだ。ぼくのためにすべてをなげうつ覚悟をしていた女性なんだけど、その人は、けさ旅に出る予定で、そのせいでこの一週間、毎日ぼくは考えていたんだ、ぼくは戻るよという電報を打たないで我慢する勇気があるだろうか、って。で、その勇気は出たんだけど、あまりにも辛くて死んでしまおうかと思った。それで、きのうの夜、バルベックに泊まってくれないかと頼んだんだ。死ぬことになったら、きみにお別れを言いたいからね』。そう言って私はとめどなく涙を流したが、その涙はつくり話のおかげでごく自然なものに見えた。『なんとまあ、かわいそうに、そうとわかっていたら夜中じゅうそばにいてあげたのに』とアルベルチーヌは大きな声を出した。アルベルチーヌの脳裏には、私がその女性と結婚するかもしれないこと、そうなるとアルベルチーヌ自身には『玉の輿(こし)』に乗る機会が消え失せることは浮かびもしなかったようで、それほど私の悲嘆に心から同情していたのだ。私がその悲嘆の原因は隠したものの、その実態と激しさは隠せなかったからである。『そういえば』とアルベルチーヌは言った、『きのうラ・ラスプリエールから帰るあいだじゅう、あなたがいらいらして悲しげなことに気がついて、なんだか心配だったの』。私の悲嘆は実際にはパルヴィルから始まったものにすぎず、神経過敏のほうは、それとはべつであったにもかかわらず幸いアルベルチーヌはその悲嘆と混同してくれたが、じつは今後もまだ数日アルベルチーヌといっしょに暮らさなければならないことにうんざりしていたのが原因だった。アルベルチーヌは言い添えた、『あたし、あなたのそばを離れないわ、ずっとここにいてあげる』。そう言ってアルベルチーヌが私に授けてくれたのはーーーそれを私に授けることができるのはアルベルチーヌだけだったーーー私に焼けるような激痛を与えている毒によく効く唯一の薬にほかならない。もっともこの薬は、毒と同じもので、一方はやさしく、もう一方は残忍であるが、双方ともに同じアルベルチーヌから出てきたものである。今のところアルベルチーヌーーー私の病巣ーーーは私に苦痛を与える手をゆるめて、私にーーー薬たるアルベルチーヌとしてーーー快復期の病人のように同情を寄せている。しかし、と私は考えた。アルベルチーヌはやがてバルベックを発ってシェルブールへ向かい、そこからトリエステへ行くにちがいない。きっと昔の悪癖がまたぞろ顔を出すだろう。私がなによりも願ったのは、アルベルチーヌが船に乗るのを妨げて、パリへ連れ帰ることだった。もとよりアルベルチーヌは、そうしたいと思えばパリからでも、バルベックからよりずっと容易にトリエステへ行くこともできるが、しかしパリに一緒にいればなんとかなるだろう。もしかするとゲルマント夫人に頼みこんで、人を介してヴァントゥイユ嬢の女友だちへはたらきかけ、その女友だちがトリエステにとどまらぬようべつの落ち着き先を受け入れさせることもできるのではないか。ひょっとして、私がヴィルパリジ夫人邸やゲルマント夫人邸で会ったことのある❋❋❋大公のところはどうだろう。あの大公なら、アルベルチーヌがそこへ訪ねて行ってくだんの女友だちに会おうとしても、ゲルマント夫人から言いふくめられて、ふたりが会うのを阻止してくれるだろう。もちろん私は、アルベルチーヌにその嗜好があるのなら、パリでもその嗜好を満たしてくれる人などいくらでも見つけられるだろうと考えることができたはずである。しかしひとつひとつの嫉妬の振る舞いは特殊なもので、それをかき立てた女性ーーーこの場合はヴァントゥイユ嬢の女友だちーーーの傷跡を残しているものだ。私の重大な気がかりになっていたのはヴァントゥイユ嬢の女友だちだったのである。私はかつてオーストリアのことを考えて不思議な情熱を覚えたものだが、それはアルベルチーヌのやって来た国だからである(その叔父はそこの大使館の参事官だった)。その国の地理上の特異性や、そこに住んでいる人種、その歴史的建造物や風景など、それらをまるで地図帳や写真集でも見るように、アルベルチーヌの微笑みや物腰のなかに眺めることができたのである。私はその不思議な情熱をいまもなお覚えはするが、ただしその特徴はとり替えられて嫌悪をもよおす領域になった。そう、アルベルチーヌがやって来たのはその国からだ。そこでならアルベルチーヌは、どの家へ行っても、ヴァントゥイユ嬢の女友だちにせよ、べつの女性にせよ、そうした昔なじみの女友だちと確実に会えるのだ。子供のころの慣習がきっと復活するにちがいない。みなは三ヶ月後のクリスマスに、ついで正月に寄り集まるだろう。そうした日付は、その昔、新年の休暇のあいだジルベルトと別れるはめになって私が感じた深い悲しみの意識せざる想い出と結びついていたがゆえに、すでにそれ自体が私には悲しい日付だった。長時間の夕食やレヴェイヨンのあと、みなが陽気な気分になったとき、きっとアルベルチーヌはその地の女友だちと、アンドレを相手にやったのを私が見かけたのと同じ仕草をするにちがいない。そのアンドレへの愛情は罪のないものだったのかもしれないが、もしかすると今度の場合アルベルチーヌはモンジュヴァンで私の目の前へひき寄せられたあの仕草、つまり女友だちに追われるヴァントゥイユ嬢と同様の仕草をするかもしれない。女友だちから押し倒される前にくすぐられたときのヴァントゥイユ嬢の顔は、いまやアルベルチーヌの上気した顔に取って替わられ、そのアルベルチーヌが逃れながら、ついで身を任せながら、身体の奥から奇怪な笑い声を発するのが聞こえてきた。この心をさいなむ苦痛に比べれば、ドンシエールで私といっしょにサン=ルーの気を惹こうとしたときに感じた嫉妬や、パリでステルマリア嬢の手紙を待っていた日にアルベルチーヌが最初の接吻を与えてくれたとき、それをどんな未知の男に手ほどきされたのかと想いうかべたときに感じた嫉妬など、なにほどのことがあろう?このようなサン=ルーなり任意の青年なりにかき立てられた別種の嫉妬は、なんでもなかった。その場合に恐れなければならないのは、せいぜいライバルと言うべき存在で、そんな相手ならうち勝つべく努力することもできるからだ。ところが今度の場合、ライバルは私と同じ男ではなく、所持する武器も違うので同じ土俵では勝負ができず、アルベルチーヌにその相手と同じ快楽を与えることができないばかりか、それがどんな快楽なのか正確に想いうかべることさえできない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.583~593」岩波文庫 二〇一五年)

その少し前のこと。アルベルチーヌは周囲から見て目立つほど「美人」に育っていたわけで、なおかつ<私>はアルベルチーヌを完全に<所有している>とたかをくくっていることができた。ある日、海辺で休息しているとアルベルチーヌよりも「ずっと美人ではないか」と思われる「すらりとした若い色白の美人を見かけた」。しかしその「美人」はしばしば見かけるありふれた<美女>の特徴である世間ずれの激しい「下品さ」が見える。だがいつも欲望を漁り抜いてきたその<目>(まなざし)だけは爛々と光を放ち獲物を探す「灯台」のようにアルベルチーヌの身体に狙いをつけているのが<私>にはわかった。「カジノで私たちから非常に遠く離れた席にいたこの若い婦人が、あたりをくるくるかわるがわる照らすまなざしの光をたえまなくアルベルチーヌに注いでいるのに気づいた。まるで目を灯台にしてアルベルチーヌに合図を送っているふうである」と。

「私は浜辺で、すらりとした若い色白の美人を見かけた。その目の中央からは幾何学的な明るい光が放射され、そのまなざしを前にすると、なにやら星座を見ている気になる。私はこの若い女のほうがアルベルチーヌよりずっと美人ではないか、アルベルチーヌを諦めたほうが懸命ではないかと考えた。ただしこの若い美人は、ひどく下品な暮らしのなかでたえず姑息な策を弄してきたらしく、顔にはそんな暮らしの目には見えぬ鉋(かんな)がかけられていたせいか、顔のほかの部分よりもずっと高貴なその目からは、ただものほしげな欲望の光だけが放たれていた。ところが私はその翌日、カジノで私たちから非常に遠く離れた席にいたこの若い婦人が、あたりをくるくるかわるがわる照らすまなざしの光をたえまなくアルベルチーヌに注いでいるのに気づいた。まるで目を灯台にしてアルベルチーヌに合図を送っているふうである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.556~557」岩波文庫 二〇一五年)

ゴモラ(女性同性愛とその横断性)の系列はなるほどソドム(男性同性愛とその横断性)の系列と並び立てて描かれている。しかしプルーストにとっては前者のゴモラ(女性同性愛とその横断性)の系列の圧倒的存在感が「失われた時を求めて」全編を通して漲っては途切れ、再出現しては脱コード化し、切断されたかと思えば他の身体と接続されていくという過程が尽きることなく延々と打ち続いていく。<欲望>は諸断片を次々と生産していく。<欲望する諸機械>の運動の多元性について、時間は一本の心細い糸のようなものでは決してないという複合的事情について、カフカ作品だけでなくプルースト作品の中でも見ないわけにはいかない。

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