訴訟についていろいろと話を聞く機会が増えてきたK。画家ティトレリに尋ねてみるとKが最初に呼び出された場所のことをティトレリはよく知っているようだった。「こんな役所は実はぜんぜん意味がない」という。
「こんな役所は実はぜんぜん意味がないのです、あれはただ言えと命じられたことを口に出して言うだけです。大きな検察局のなかに一番外側の機関にすぎず、検察局そのものには被告はむろん近づきようもない。だから検察局になにか言いたいことがある場合にはーーーむろんそういう願望はたくさんあるわけです、ただしそれを口にするのは必ずしも利口なことではありませんがねーーー言うまでもなくいま言った一番下(した)っ端(ぱ)の役所にゆくしかないんですが、そんなことをしても自分でその本当の検察局まで入りこむことはもちろん、願望をそこまでとどかせることもできはしません」(カフカ「審判・その建物・P.354」新潮文庫 一九九二年)
この箇所でティトレリは大いに語っているわけだが、その内容はフルト弁護士の話と同様、延々と続いていく無意味に等しい説明とまるで違わない。Kは思う。「ティトレリは充分に弁護士の代りをする」と。ではティトレリと弁護士とは置き換え可能なのだろうか。どちらにしても結局は裁判所機構の部分に過ぎないのか。そしてそんなことを考えていると夢を見ているかのようなぼうっとした意識状態に陥ることがよく起こった。次の記述を見るとフロイトが「夢判断」で述べているように、夢の中では「すべての人がまじりあってしま」うとともに「ほかの者はみな役人が法律家かのような顔で入り乱れて」見える。
「半睡の状態でいるとすべての人がまじりあってしまい、彼は裁判所が大きな仕事をしていることさえ忘れてしまった。自分一人が被告のような気がして、ほかの者はみな役人が法律家かのような顔で入り乱れて裁判所の廊下を歩いていた」(カフカ「審判・その建物・P.356」新潮文庫 一九九二年)
そのような夢の中で裁判所の廊下を歩いていると「まとまったグループとしてグルーバッハ夫人の間借人たち」が現れた。Kにとってはあまり付き合いたくない連中なのだが、「グルーバッハ夫人の間借人たち」であれば当然その中にビュルストナーもいるに違いない。だからKはビュルストナーを探そうと観察する。すると本当にビュルストナーが見つかった。ただし彼女の姿はKがすでに「ビュルストナーの部屋で見た海水浴場の写真」と同じ光景でしかない。ところがビュルストナーの両側には二人の監視人らしき姿がある。この点はこの<断片>の中で始めて明かされている。「両側に立つ二人の男に腕をあずけている彼女がいた」と。
「このグループと付合うのは不愉快だったが、その中にビュルストナーを探そうとするため、Kはときおりそうしないわけにはいかなかった。そこで例えば彼が大急ぎにそのグループに目を走らせると、突然二つのまったく見知らぬ目が彼にむかって輝きだし、彼をひきとめた。そうなるともうビュルストナーは見つからないが、そのあと、どんな間違いも避けようとしいてもう一度探すと、ちょうどグループの真中へんに、両側に立つ二人の男に腕をあずけている彼女がいた。それを見ても彼はほとんど何の印象もうけなかった。というのもそれはなんら新しい眺めでなく、いつか彼がビュルストナーの部屋で見た海水浴場の写真が、いつまでも消えない思い出として残っているにすぎなかったからだ」(カフカ「審判・その建物・P.356~357」新潮文庫 一九九二年)
見慣れている写真であるにもかかわらずなぜ「いつまでも消えない思い出として残っている」のか。そしてまた二人の監視人のような男たちはビュルストナーを両側から挟み込んで密着している。二人の監視人の姿は紛れもなくはKがビュルストナーに寄せているK自身の欲望を実現させた姿を取っている。Kの欲望の増殖が夢という形式で目の当たりにされている。もっとも、写真に映る二人の監視人らしき男たちについて、以前にはまるでKの関心を引く要素ではなかったのだが。訴訟が始まって以後、至るところに監視人の姿がありふれた様子で動き回っていたことを認識するK。
夢は続く。Kは裁判所の建物の中を何度も往復する。そこで「まるで昔からの自分の住居のようになじみに見え」るのは「いままで見たこともない秘密の通路」である。
「彼はその後も何度もここに舞い戻ってくることになったけれども、それでも気持は大股(おおまた)に裁判所の建物の中を縦横に急ぎ歩いていた。いつでも部屋の中の様子が実によくわかっていた。いままで見たこともない秘密の通路が、まるで昔からの自分の住居のようになじみに見えた」(カフカ「審判・その建物・P.357」新潮文庫 一九九二年)
Kにとってはなるほど「秘密の通路」なのかもしれない。しかしティトレリにそのことを話したとしたらどのように答えるだろうか。ティトレリと始めて会った時のティトレリの言葉を思い出そう。どこまで続くかわからない裁判過程で重要なことは、「審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとか」でのやり取りにほかならないと言っていたではなかったか。
「『公けの裁判所の背後で試みられていることは、いささか事情が違うんです。背後とはつまり、審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとかですね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.209」新潮文庫 一九九二年)
ティトリエの部屋の様子を伺っている妙に大人びた<少女たち>もまた「裁判所の一部なんですよ」とティトレリは言ってもいた。
「『あの少女たちも裁判所の一部なんですよ』。『なんですって?』、とKはきき返し、頭を横に引いて画家をまじまじと見つめた。画家はしかしふたたび椅子に坐ると、なかば冗談、なかば説明というように言った。『なにしろすべてのものが裁判所の一部ですからね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.209」新潮文庫 一九九二年)
そしてティトレリからKが教わる方法は諸商品の無限の系列のように延々と引き続く裁判の<引き延ばし>だった。「城」の冒頭では早くもこう書かれている。
「Kは、さらに歩きつづけた。しかし、道は、長かった。彼の歩いている道は、村の本道なのだが、城山には通じていなかった。ただ近づいていくだけで、近づいたかとおもうと、まるでわざとのように、まがってしまうのだった。そして、城から遠ざかるわけではなかったが、それ以上近づきもしないのだ」(カフカ「城・P.23」新潮文庫 一九七一年)
この過程に絶対的<決済>というものは決してない。Kが近づこうとすればするほど<決済>の側は延々遠ざかる。生前のカフカは今のチェコ、後に「プラハの春」が挫折に終わったプハラで執筆していたわけだが、当時のプラハは今のように資本主義社会である。その内部はハプスブルグ家支配下の途方もない官僚主義で充満していた。資本主義と官僚主義とはいつも仲のいいパートナー同士として互いが互いを支え合うのである。
なお、ウクライナ関連について。どういうわけかよく知らないが「北京パラリンピック」はまだ続いているにもかかわらず、世界中のマスコミはほとんど一挙にロシアの軍事侵攻に伴う人間の<身体の悲惨な姿>を様々な立場から映し出す方向へ急傾斜した。マスコミの動き方はナチス支配下で動員されたナチス側暴力団たちの行動にあまりにも似通っている。アドルノとホルクハイマーは彼ら暴力団員たちの特徴として「肉体に対する愛憎両面感情は、どぎつく生々しい」と述べた。ニーチェは人間の「数値化」を問題にしてこういう。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)
すると人間の身体はたちまち商品化される。労働力商品としてはどれも交換可能になるように。しかし身体(肉体)は決して「物」ではない。にもかかわらずそれは売買の対象となる。この事情に強烈な反感を覚える保守的反動的な人々は、自分たちと違ったところで生活し生き生きして見える人間たちに対して底なしの怨恨感情を抱く。そして遠慮なく暴力を行使する。「彼らは気にさわるものは叩きのめし、邪魔と見ればぶち壊す。こういう破壊的態度は、〔肉体の〕物象化に対する怨恨の現れなのであり、盲目的な憤怒に駆られて、彼らはもはや取り返しようもない、生の精神とその対象への分裂を、生きたものに対して反復しようとするのである。彼らは抗いがたく人体に引きつけられる」と。
「人殺しや殺戮者。合法・非合法、規模の大小を問わず、権力をもつ者たちによって、殺し屋としてこっそりと利用される野獣のような大男。誰かを片づけるということになれば即座に姿を現す屈強の男。リンチを加える暴漢たちや暴力団員。誰かが出しゃばると立ち上るこわもてのお兄さん。権力の保護の手から離れ、金も地位も失ったとなれば、誰であろうといつでもたちどころにその手に帰する恐るべき人物。歴史の暗闇にあって、それなしには支配がありえぬ不安を煽りたてる人間狼。こういった手合いにおいては、肉体に対する愛憎両面感情は、どぎつく生々しい。彼らは気にさわるものは叩きのめし、邪魔と見ればぶち壊す。こういう破壊的態度は、〔肉体の〕物象化に対する怨恨の現れなのであり、盲目的な憤怒に駆られて、彼らはもはや取り返しようもない、生の精神とその対象への分裂を、生きたものに対して反復しようとするのである。彼らは抗いがたく人体に引きつけられる」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・6・手記と草案・P.484~485」岩波文庫 二〇〇七年)
人身売買など物ともせずどんどん女性を搾取対象とする暴力団員。敵とみるや完膚なきまで叩きのめさずにはおれない体育会系右翼暴力学生たち。このような人々はまさしく「人間的」であり過ぎるがゆえに暴力装置を買ってでるわけであり、その意味では見た目の「こわもて」ぶりとは違った次元で「抗いがたく人体に引きつけられ」、なおかつもはや取り返しのつかないノスタルジーに取り憑かれた人間たちでもある。小林秀雄はいう。
「非人間的とはにがい反語にすぎぬ」(小林秀雄「レオ・シェストフの<悲劇の哲学>」『小林秀雄初期文芸論集・P.325』岩波文庫 一九八〇年)
それでもなおグローバル資本主義はますます複雑化していく官僚機構とともに、よりいっそう多くの暴力を生産しながら先へ先へと突き進んでいくに違いない。
BGM1
BGM2
BGM3
「こんな役所は実はぜんぜん意味がないのです、あれはただ言えと命じられたことを口に出して言うだけです。大きな検察局のなかに一番外側の機関にすぎず、検察局そのものには被告はむろん近づきようもない。だから検察局になにか言いたいことがある場合にはーーーむろんそういう願望はたくさんあるわけです、ただしそれを口にするのは必ずしも利口なことではありませんがねーーー言うまでもなくいま言った一番下(した)っ端(ぱ)の役所にゆくしかないんですが、そんなことをしても自分でその本当の検察局まで入りこむことはもちろん、願望をそこまでとどかせることもできはしません」(カフカ「審判・その建物・P.354」新潮文庫 一九九二年)
この箇所でティトレリは大いに語っているわけだが、その内容はフルト弁護士の話と同様、延々と続いていく無意味に等しい説明とまるで違わない。Kは思う。「ティトレリは充分に弁護士の代りをする」と。ではティトレリと弁護士とは置き換え可能なのだろうか。どちらにしても結局は裁判所機構の部分に過ぎないのか。そしてそんなことを考えていると夢を見ているかのようなぼうっとした意識状態に陥ることがよく起こった。次の記述を見るとフロイトが「夢判断」で述べているように、夢の中では「すべての人がまじりあってしま」うとともに「ほかの者はみな役人が法律家かのような顔で入り乱れて」見える。
「半睡の状態でいるとすべての人がまじりあってしまい、彼は裁判所が大きな仕事をしていることさえ忘れてしまった。自分一人が被告のような気がして、ほかの者はみな役人が法律家かのような顔で入り乱れて裁判所の廊下を歩いていた」(カフカ「審判・その建物・P.356」新潮文庫 一九九二年)
そのような夢の中で裁判所の廊下を歩いていると「まとまったグループとしてグルーバッハ夫人の間借人たち」が現れた。Kにとってはあまり付き合いたくない連中なのだが、「グルーバッハ夫人の間借人たち」であれば当然その中にビュルストナーもいるに違いない。だからKはビュルストナーを探そうと観察する。すると本当にビュルストナーが見つかった。ただし彼女の姿はKがすでに「ビュルストナーの部屋で見た海水浴場の写真」と同じ光景でしかない。ところがビュルストナーの両側には二人の監視人らしき姿がある。この点はこの<断片>の中で始めて明かされている。「両側に立つ二人の男に腕をあずけている彼女がいた」と。
「このグループと付合うのは不愉快だったが、その中にビュルストナーを探そうとするため、Kはときおりそうしないわけにはいかなかった。そこで例えば彼が大急ぎにそのグループに目を走らせると、突然二つのまったく見知らぬ目が彼にむかって輝きだし、彼をひきとめた。そうなるともうビュルストナーは見つからないが、そのあと、どんな間違いも避けようとしいてもう一度探すと、ちょうどグループの真中へんに、両側に立つ二人の男に腕をあずけている彼女がいた。それを見ても彼はほとんど何の印象もうけなかった。というのもそれはなんら新しい眺めでなく、いつか彼がビュルストナーの部屋で見た海水浴場の写真が、いつまでも消えない思い出として残っているにすぎなかったからだ」(カフカ「審判・その建物・P.356~357」新潮文庫 一九九二年)
見慣れている写真であるにもかかわらずなぜ「いつまでも消えない思い出として残っている」のか。そしてまた二人の監視人のような男たちはビュルストナーを両側から挟み込んで密着している。二人の監視人の姿は紛れもなくはKがビュルストナーに寄せているK自身の欲望を実現させた姿を取っている。Kの欲望の増殖が夢という形式で目の当たりにされている。もっとも、写真に映る二人の監視人らしき男たちについて、以前にはまるでKの関心を引く要素ではなかったのだが。訴訟が始まって以後、至るところに監視人の姿がありふれた様子で動き回っていたことを認識するK。
夢は続く。Kは裁判所の建物の中を何度も往復する。そこで「まるで昔からの自分の住居のようになじみに見え」るのは「いままで見たこともない秘密の通路」である。
「彼はその後も何度もここに舞い戻ってくることになったけれども、それでも気持は大股(おおまた)に裁判所の建物の中を縦横に急ぎ歩いていた。いつでも部屋の中の様子が実によくわかっていた。いままで見たこともない秘密の通路が、まるで昔からの自分の住居のようになじみに見えた」(カフカ「審判・その建物・P.357」新潮文庫 一九九二年)
Kにとってはなるほど「秘密の通路」なのかもしれない。しかしティトレリにそのことを話したとしたらどのように答えるだろうか。ティトレリと始めて会った時のティトレリの言葉を思い出そう。どこまで続くかわからない裁判過程で重要なことは、「審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとか」でのやり取りにほかならないと言っていたではなかったか。
「『公けの裁判所の背後で試みられていることは、いささか事情が違うんです。背後とはつまり、審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとかですね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.209」新潮文庫 一九九二年)
ティトリエの部屋の様子を伺っている妙に大人びた<少女たち>もまた「裁判所の一部なんですよ」とティトレリは言ってもいた。
「『あの少女たちも裁判所の一部なんですよ』。『なんですって?』、とKはきき返し、頭を横に引いて画家をまじまじと見つめた。画家はしかしふたたび椅子に坐ると、なかば冗談、なかば説明というように言った。『なにしろすべてのものが裁判所の一部ですからね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.209」新潮文庫 一九九二年)
そしてティトレリからKが教わる方法は諸商品の無限の系列のように延々と引き続く裁判の<引き延ばし>だった。「城」の冒頭では早くもこう書かれている。
「Kは、さらに歩きつづけた。しかし、道は、長かった。彼の歩いている道は、村の本道なのだが、城山には通じていなかった。ただ近づいていくだけで、近づいたかとおもうと、まるでわざとのように、まがってしまうのだった。そして、城から遠ざかるわけではなかったが、それ以上近づきもしないのだ」(カフカ「城・P.23」新潮文庫 一九七一年)
この過程に絶対的<決済>というものは決してない。Kが近づこうとすればするほど<決済>の側は延々遠ざかる。生前のカフカは今のチェコ、後に「プラハの春」が挫折に終わったプハラで執筆していたわけだが、当時のプラハは今のように資本主義社会である。その内部はハプスブルグ家支配下の途方もない官僚主義で充満していた。資本主義と官僚主義とはいつも仲のいいパートナー同士として互いが互いを支え合うのである。
なお、ウクライナ関連について。どういうわけかよく知らないが「北京パラリンピック」はまだ続いているにもかかわらず、世界中のマスコミはほとんど一挙にロシアの軍事侵攻に伴う人間の<身体の悲惨な姿>を様々な立場から映し出す方向へ急傾斜した。マスコミの動き方はナチス支配下で動員されたナチス側暴力団たちの行動にあまりにも似通っている。アドルノとホルクハイマーは彼ら暴力団員たちの特徴として「肉体に対する愛憎両面感情は、どぎつく生々しい」と述べた。ニーチェは人間の「数値化」を問題にしてこういう。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)
すると人間の身体はたちまち商品化される。労働力商品としてはどれも交換可能になるように。しかし身体(肉体)は決して「物」ではない。にもかかわらずそれは売買の対象となる。この事情に強烈な反感を覚える保守的反動的な人々は、自分たちと違ったところで生活し生き生きして見える人間たちに対して底なしの怨恨感情を抱く。そして遠慮なく暴力を行使する。「彼らは気にさわるものは叩きのめし、邪魔と見ればぶち壊す。こういう破壊的態度は、〔肉体の〕物象化に対する怨恨の現れなのであり、盲目的な憤怒に駆られて、彼らはもはや取り返しようもない、生の精神とその対象への分裂を、生きたものに対して反復しようとするのである。彼らは抗いがたく人体に引きつけられる」と。
「人殺しや殺戮者。合法・非合法、規模の大小を問わず、権力をもつ者たちによって、殺し屋としてこっそりと利用される野獣のような大男。誰かを片づけるということになれば即座に姿を現す屈強の男。リンチを加える暴漢たちや暴力団員。誰かが出しゃばると立ち上るこわもてのお兄さん。権力の保護の手から離れ、金も地位も失ったとなれば、誰であろうといつでもたちどころにその手に帰する恐るべき人物。歴史の暗闇にあって、それなしには支配がありえぬ不安を煽りたてる人間狼。こういった手合いにおいては、肉体に対する愛憎両面感情は、どぎつく生々しい。彼らは気にさわるものは叩きのめし、邪魔と見ればぶち壊す。こういう破壊的態度は、〔肉体の〕物象化に対する怨恨の現れなのであり、盲目的な憤怒に駆られて、彼らはもはや取り返しようもない、生の精神とその対象への分裂を、生きたものに対して反復しようとするのである。彼らは抗いがたく人体に引きつけられる」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・6・手記と草案・P.484~485」岩波文庫 二〇〇七年)
人身売買など物ともせずどんどん女性を搾取対象とする暴力団員。敵とみるや完膚なきまで叩きのめさずにはおれない体育会系右翼暴力学生たち。このような人々はまさしく「人間的」であり過ぎるがゆえに暴力装置を買ってでるわけであり、その意味では見た目の「こわもて」ぶりとは違った次元で「抗いがたく人体に引きつけられ」、なおかつもはや取り返しのつかないノスタルジーに取り憑かれた人間たちでもある。小林秀雄はいう。
「非人間的とはにがい反語にすぎぬ」(小林秀雄「レオ・シェストフの<悲劇の哲学>」『小林秀雄初期文芸論集・P.325』岩波文庫 一九八〇年)
それでもなおグローバル資本主義はますます複雑化していく官僚機構とともに、よりいっそう多くの暴力を生産しながら先へ先へと突き進んでいくに違いない。
BGM1
BGM2
BGM3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/16/b536107fedca95295412dc4695c1d516.jpg)