真の自由を得るということは、とても貴重なことです。
しかし、
持っている自由を、あえて放棄するという自由もあることを知った。
与えられている権利を、かえって行使しないという自由もあると知った。
パウロは、コリントの教会から献金を受けて当然なのにその権利を捨てた。
怒り、苦しみ、悲しみ、落胆、それらを屋根の下におおうように黙って隠して秘密にして辛抱した。
なぜか、その理由は、キリストの福音の宣教の妨げにならないようにという配慮だった。
私たちの教会の牧師も、時間とお金をかけて伝道し、個人面談をして教え、受洗したのに、まもなく急に信仰を捨てて教会に来なくなった人に対して、個人的感情を押し殺して、黙って忍耐している。
教えても、説教しても反応の鈍い信徒を忍耐して、さらに教え続けてくださっています。
なぜか、その理由は、霊的な宣教の働きに、物質的にも、また霊的なにも、すぐにこの世での報い得られなくても、天に希望を持っているから、忍耐できるのです。
ただ耕すだけで終わっても、種蒔きだけで終わっても、脱穀した後の収穫が少なくても、天に宝がたくわえられていて、分け前が備えられていることを、確信しているからです。
私も、福音のために仕えている方々、また過去の信仰の先輩たちと、同じ喜び、希望、分け前がいただける希望をもって、このコロナによるステイホームの時を、主とともに、兄弟姉妹とラインやズームで祈り励ましつつ、喜んで過ごしたいものです。
今日の説教個所 第一コリント9章9-12節
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