長く続いたルカの福音書の説教がとうとう祝福に溢れたメッセージで終わった。
最初から最後までイエス様は私たちを祝福され、今も祝福しつづけていてくださる。
しかし、そのイエス様に対して、神からの恵みについて、私はどれほどの神様を祝福(よく言う)してきたことか。
与えられたみことば、環境すべてを、祝福として受け止めて、祝福として告白して来たことか、讃美しほめたたえて来たことか。
一章から24章まで、通して読もうとしたが、目が見えにくいのを言い訳にして、続かなかった。
それではと、携帯の「聴くドラマ聖書」で聞いたが、ちゃんと聞いていない間にどんどんと話が進んでいった。
それではと、いのちのことば社の「聴く聖書」を何年かぶりに取り出して聞いた。これは、聴くドラマ聖書よりもゆっくり読まれているのに、他のことをしながら、聞いていると、やっぱりいつの間にか先に進んでいた。寝てしまっていたこともある。
それではと、BibleGateway を聞きながら日本語聖書を見てみたが、どっちも中途半端になって、ただところどころ英語が聞き取れたというだけだった。
それでも、やっと最後までたどり着いた。説教をした牧師は、1時間かかって全部読み通したそうですが、私はどれだけの時間がかかったことか。私には達成感も満足もないのはどうしたことか。
あれ? こんなことが書かれていたのか!!と思うばかりで、語られたメッセージをすっかり忘れている。疑問がたくさん出て来る。
説教の録音アーカイブはいつでも聞ける環境にある。
走り書きでできだけ逐語的に書き残したノートも手元にある。
しかし、これからどうしたら良いのか、見えずに悲しい
今後始まる使徒の働きの説教について、どのような心備えをするのがふさわしいのか見えずに、寂しい。
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