貞元二十年(八〇四)に明州に到着から約八カ月半の入唐求法の旅が終わり、帰途に就いたのは五月十八日のことでした。船は二隻で出発し、伝教大師が乗った第一船は六月五日、対馬の下県郡阿礼村に到着したのでした。第二船の方は肥前国の松浦軍血鹿島に着きましたが、いずれの船も天候に恵まれて、無事に祖国の土を踏むことができたのです。弘法大師の船は入唐のときには五十日余りもかかったのに対して、十五日を費やしたに過ぎませんでした。しかも、その船には多くの典籍や仏具も積み込まれていたのです。
伝教大師の到着地に関しては、九州の博多付近に上陸し、筑紫国の独鈷寺(とっこじ)を創建したとか、舶送した法灯の火を、新宮村の横大路源四郎の家のかまどに伝え、その家の男子の正嫡(本妻から生まれた子)が絶えず、火は今日まで不滅であるとの「千年家(せんねんや)」の伝説なども残されています。
桓武天皇への遣唐大使藤原葛野麻呂による帰朝報告は七月一日に行われており、伝教大師を含めた一行は、六月下旬までに上京したとみられています。伝教大師は上表文において、二百三十部四百六十巻の経論類を持ち帰ったこと、金字の『法華経』七巻、金字金剛般若経、金字菩薩戒経、金字観無量寿経、「天台大師霊応図」一張、さらには天台山で入手した仏具類を桓武天皇に進上したことを述べています。
そこでの経論類とは「台州に向いて求得せる法門、都合一百二十八部三百四十五巻、越府に向いて本を取り写し取りし経ならびに念誦法門部、都合一百二部一百一十五巻」を指します。
桓武天皇は天台の教えを広めるために、和気弘世に勅が下り、奈良の七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)の分として七通の書写が命じられました。十年近い歳月をかけて弘仁六年(八一五)に完成し、すでに桓武天皇は崩御しており、この法文の摩訶止観に、金字の題を揮毫したのは嵯峨天皇によってでした。
しかし、病に伏した桓武天皇が望んだのは密教の修法の方でした。田村晃祐編の『最澄辞典』によれば「天皇は延暦二十四年(八〇五)春から病にかかり最澄が唐に滞在中に、まだ僧の資格も得ていなかった最澄の弟子円澄に紫宸殿(ししんでん)で五仏頂法(仏の好相のうち不見頂相などといわれるような、仏体のうちでも最尊の仏頂を仏格化し、強力な威力と、理法を具備するものとみる、一字金輪仏頂、白傘蓋仏頂、高仏頂、勝仏頂、光聚仏頂の五仏を指す)を修せしめたりしていたが、最澄が帰朝すると早速高雄山寺に灌頂壇(かんちょうだん)を築かせ、仏像や大曼荼羅を画かせ、九月一日、七日と灌頂を修せしめ、灌頂を受けた八人の僧には伝法公験(仏法の証明書)が朝廷から与えられ、また、九月十七日には官中で毘盧遮那法を修した」のです。
伝教大師による新伝の真言密教は和気弘世と縁のある高雄山寺で行われ、灌頂の受者として選ばれたのは、道証、修円、勤操、正能、正秀、広円らでした。天台における本格的な密教は慈覚大師よってもたらされたとしても、密教は新たに日本に伝えたという伝教大師の功績は大なるものがあったのです。伝教大師と論争を繰り広げた法相宗の僧徳一の師ともいわれており、修円もその受者の一人であったとみられています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます