—写真は伝教大師最澄—
伝教大師(最澄)の入唐の目的は天台の教えを日本に伝えることでしたが、帰国後は密教の普及に力を割かれることになります。弘法大師(空海)も伝教大師(最澄)と同じ遣唐使に便して留学をしましたが、伝教大師(最澄)よりも一年遅れて帰国しました。この差が密教の世界で大きな意味を持つことになるのです。弘法大師(空海)は長期間の滞在が許される留学僧でしたが、伝教大師(最澄)は期間が限定された還学僧としての入唐だっただけに、後れを取ったと言われても仕方がありません。
弘法大師(空海)との密な交際が始まる以前の延暦二十五年(八〇六)正月三日、毎年所定の得度者の各宗派別定員について、新たに提案を上奏したのでした。
それを受けて「太政官符治部省から年料度の数、並びに、学業を分かち定むべきこと」とという文書が出されました。ただし、天台宗法華宗の学業は、一人は「大日如来」もう一人は「摩訶止観」を読むことが定められたのです。桓武天皇が病気であったこともあり、密教手法の担い手としても、伝教大師(最澄)に期待が集まったのです。
弘法大師(空海)は日本の真言宗の開祖ですが、延暦二十三年(八〇四)に伝教大師(最澄)の一行と共に唐に渡り、長安青龍寺で、恵果から胎蔵界と金剛界の灌頂、並びに伝法阿闍梨位に即位する灌頂まで受けたのでした。唐の永貞元年(八〇五)十二月十五日、其の恵果の入滅を送った後の翌年八月、越州から明州に出て、帰国の途に就き、十月には筑紫に到着。当初の予定より早かったために、大同二年(八〇七)ないし三年には、大宰府に滞在していたといわれます。
恵果阿闍梨に関しては『岩波仏教辞典』では詳しく取り上げており、唐の密教のトップであったとみられています。
「恵果 けいか746―805 中国長安の東の照応で生まれる。俗姓は馬。はじめ曇貞につき、のち不空に師事して主として金剛頂経系の密教を授かり、また善無畏(ぜんむい)の弟子玄超から大日系と蘇悉地経系の密教受けた。金剛頂経の密教の大日経系の総合社と目され、金剛界と胎蔵界との両部曼荼羅の中国的な改変にも関与したと思われる。『十八契印』とか『秘蔵記』など密教の実習法の関する著作が恵果に帰せられるが翻訳はない。住坊である長安の青龍寺には、中国のみならず東アジア各地から弟子が集まった。空海は最晩年の弟子で、金剛界・胎蔵の両部密教を授かり恵果の滅後、碑銘を撰した。それは空海の『性霊集しょうりょうしゅう』巻2に収められている。真言宗の付法(ふほう)、伝持の第7祖」
本流の密教を学んだ弘法大師(空海)に対して、伝教大師(最澄)は礼を尽くし、弘仁三年十二月十五日に弘法大師(空海)から金剛界の灌頂を授けられましたが、胎蔵界のためには別の日を選ぶ必要があったにもかかわらず、一方的に誤解したともいわれます。
自らを愚といって恥じぬ伝教大師(最澄)は、自分の弟子を次々と弘法大師(空海)のいる高雄山寺に送り込みました。円澄、泰範、賢栄らですが、それは思い通りに進むことはありませんでした。とくに泰範をめぐってでした。もともとは元興寺の僧でしたが、病に伏した伝教大師(最澄)が「山寺総別当は泰範師、文書司を兼ね」と決めていただけに、弘法大師(空海)のもとへ去ったことによる衝撃は大きいものがありました。さらに、法門の借覧も弘法大師(空海)が『理趣釈経』を断ったことで、両者の関係は決定的となります。「秘蔵の奥旨は文を得るを尊しとせず」と弘法大師が拒絶の手紙を書いてきたからです。伝教大師(最澄)と弘法大師(空海)との違いは顕教か密教化の違いでもありますが、天台の密教は台密と呼ばれるように、その後、同じく中国に渡った慈覚大師円仁らの力で、独自の展開を遂げることになったのです。
合掌
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