左上から時計回り:「穂高山」大正10(1921)年、「動物園 於ほばたん あうむ」大正15年、「駒ヶ岳山頂より」昭和3年、「劔山の朝」大正15年
2月28日(日)山の神が行きたいといっていた東京都美術館「没後70年吉田博展」へ赴いた。山の神がそれを言い出すまで、吉田博をまったく知らなかった。吉田博(1876-1950)は福岡県久留米市出身の洋画家であり、版画家でもある。風景画の第一人者として洋画で成功していたが、関東大震災で被災。それを機に自らと仲間の絵や版画をもってアメリカに渡り営業に勤しんだところ、版画が予想外に好評を博し、なんと49歳で版画にのめり込むことになった。
特筆すべきは、日本の山岳会黎明期である大正時代に精力的に日本アルプスに登って、その山の趣を写し取り、最初は油彩、そして版画という表現に移行したことだ。とくに版画は、いかにも日本らしい、繊細な線と中間色を巧みに使い、濃淡で微妙な光の表現も試みている。もちろん絵画ではなく版画なので、その表現のために何度も刷り上げる。浮世絵は10回くらい版木をもとに刷るようだが、吉田は数十回はやっていたようだ。
この時代の登山家といえば、このブログでもとり上げた田部重治(たなべじゅうじ、1884-1972)や日本山岳会会長も務めた小暮理太郎(1873-1944)がいる。彼らの山行記録を読むと、驚くことが多い。日本アルプスは、今のように登山道は整備されていないから、ガイドが必要だし、天気予報ははずれまくる。泊まるとなれば、やたらと重い帆布のテントや米などをかつぎ上げなければならない。いわば探検であり、別の見方をすれば、お金と時間のかかるブルジョアの遊びだった。
この版画家吉田博もその一員だったわけで、養子に入った家がそこそこの資産家だったのだろうし、若くして油彩で成功を収めたからこその登山といえる。その余裕が美しいものを美しく表現する落ち着いた心もちを醸成したのだろう。
この回顧展では、山岳風景の版画ばかりではなく、瀬戸内海の帆船(元祖ウォーホルともいうべき、刷り色を変えた帆船がいくつもある)や、インドや中国の写生旅行で生まれた異国情緒あふれる版画の展示もある。どれも一見の価値ありだ。
3月28日(日)まで。