2.SDGs が「蒸気ローラー」のように世界を破壊する
――政治に食い込む環境問題の欺瞞④:231204情報
昨日に引きつづき、「SDGsの本質とは何か?」ということについて、政策コンサルタントの室伏謙ー氏の解説を、許可を得て、引用いたします。
まるで何かの実行マニュアル
さて、その後、アジェンダ21の後継として、2000年9月の国連ミレニアムサミットにおいて国連ミレ 二アム宣言が採択され、それに基づき、2015年までに達成すべき8 の目標から成るミレニアム開発目標 (MDGs)が取りまとめられた。
その8つの目標とは、①貧困及び飢餓の撲滅、②普遍的な初等教育の実現、③ジェンダー平等と女性の地位向上の推進、④乳幼児死亡率の抑制、⑤妊産婦の健康の改善、⑥ HIV/エイズやマラリア等の病気との闘い、⑦環境の持続可能性の確保、及び⑧開発・成長のためのグ ローバルパートナーシップ、である。
いずれもこの下に幾つかのタ—ゲットが設けられており、その名が 示すように、SDGSの原型となったものである。この段階ではまだ、アジェンダ21を基礎として発展させた域を出ない、その範疇に収まるものであった。
そしてSDGsへとつながっていくわけであるが、そのSDGs 、公な説明によれば、2012年、リオ+20として知られる国連持続可 能な開発会議 (UN Conference on Sustainable Development Conference)の準備会合において、コロンビアがSDGs の概念を提案したことに始まると されている。
これが採用され、国連内で具体的な目標の検討が行われ、2015年 9月25日に、国連総会において「我々の世界を変革するー持続可能な開発のため の2030アジェンダ」(Transforming our world: the 2030 Agenda for Sustainable Development)として採択されるに至る。そこで掲げられた17の目標は以下のとおり(右下)。
MDGSの倍以上の目標数になり、 細かくなり、対象範囲も大きく広がっている。しかもこの下に169 のタ—ゲツトが置かれているのだから、目標というより何かの事業の実 行マニュアルのようなものだ。
これがために「SDGsを実現しよう」であるとか「SDGsを達成しよう」などという、まるでどこぞの社会主 義国家や共産主義国家のようなスローガンが我が国においては提唱され、流布しているのであろう。
本当の狙いは全世界の 価値観の統一にアリ!?
しかも、このSDGs、これ以外の目標というものは当然認められず容認されない。無論、これ以外の目 標によったとしても、掲げたとしても何か処罰されるわけではないが、国連で採択された国際的な約束事になってしまっている以上、ここから大きく逸脱することは難しい。
要するに一種の宗教の教義のようになってしまっているということである。 そのことは、これが事細かに記載された国連の公式文書に、生物的多様性 (biodiversity)という言葉は多用されているものの、多様性 (diversity)という言葉はほとんど使用されておらず、文化的多様性 (cultural diversity)という表現が 数カ所程度出てくる程度であること からも分かる。
こうしたところに、SDGsの本質がみて取れるのではないか。すなわち、SDGs が目指すものは、この宗教の教義的マニュアルにそった価値の平準化であるということである。
一つの価値によって、価値基準によって平準化し、統一する、まさにグローバリズムそのものであり、 冷戦終結後に唯一の超大国となった アメリカが目指したものである。
別の言い方をすれば、設計したとおりにすれば、社会も経済も上手くいくはずだという設計主義そのものであり、こちらはフランス革命時の革命勢力やかっての共産主義が目指したものである(その結末は、ご承知のとおり)。
歴史や伝統を無視する SDGsの欺瞞
SDGsだろうと何であろうと、価値中立的にはなりえない。何かの 価値観に基づいているのであるから、当然その価値観と相入れない価値観 との間ではコンフリクト(社会学上の紛争)が生じる。
しかし、SDGsからすれば、そうした相入れない価値観を、多様性 名の下に受容することはしないようである。
その地域がその国がその社会が歴史的に引き継ぎ、築き上げてきた習慣や慣習、伝統を、SDGsと相入れないことを理由として改めるべきとする。そうしたものが発展や成長を阻害しているとする。その典型的な例が、女性や子供の社会的在り方を巡るものであろう。
価値観を同じくすれば経済が発展して貧困問題や格差や不平等の問題も解決するはずだ、我が国にも、特に高所得・高学歴層に流れている考え方であるが、それを名目とした(米国等による)実質的な内政干渉や武力も用いた介入がもたらしたものは、更なる貧困と不平等であった。
しかし、その国や地域が置かれた環 境に応じて当然社会的あり方や役割 は変わってきて然るべきであるし、宗教的、伝統的に根付いたものであれば尚更安易に変えることなどできないし、すべきではない。その地域の制約条件を前提にした、まさに持続可能な発展・成長を考えるのであれば、その地の歴史や伝統に根ざした社会の在り方の方がむしろ相応しいとさえ言える。
ではSDGsの根底にある価値観はどこから来たのだろうか。当初提唱したのはコロンビアであるとしても、中南米の一小国が、世界的な価値の平準化、統一を目指す、画策するなどということは考えにくいし、 そもそもそんな国力はない。
したがってこのコロンビアが(おそらく)純粋な考えで提唱したSDGsを、自分たちにとって都合がいいように利用した国なり集団なり組織があると考えた方が自然なのではないか。TPPが当初は数カ国の小国による貿易協定から貿易超大国のアメリカも参加する(のちに不参加)メガ貿易協定となったのも、アメリカがTPPを自国のために利用することを考えた からであったことを想起すれば腑に落ちる。
問題は誰が、どの国なり勢力なりがSDGsを利用することを考えた のかであるが、それによって誰が得をするのかを想定してみれば、推測できよう。
例えばグローバル企業・ 多国籍企業が考えられるが、SDGsがこれだけ叫ばれるようになった現状においては、これを逆手に取って利用しようとする国や勢力が出てきてもおかしくない。
例えば、かつての米国や旧ソ連のように周辺国に自分たちにとって都合がいいように、 価値や制度、政策を押し付ける際に利用するということも考えられる。 現状ではその主な利用者たりうるのは中国あたりか。
SDGsの背後にある思惑 しっかり認識しておこう
このように考えていくと、SDGはかってIMFが多用した構造調整融資のようなものとも言えよう。もっとも、融資の条件として構造調整、構造改革を強要するほどの強制力は持たないので、緩やかな構造調整勧告とでも言った方がいいかもし れないが。
しかし問題は強制力はないものの、市民、とりわけ「意識が高い」とされる市民やリベラリズムに染まつたメディアなどがその実施・実現の必要性を声高に叫ぶので、やらざるを得ない状況に追い込まれてしまう、少なくとも考えているフリをしなければいけないといったことだろう。
少々長くなってきてしまったので、まとめると、SDGsとは多くの日本人が抱いているような綺麗なものでも理想的なものではなく、これまでの歴史的経緯の中で変節してきたものの延長線上にあるものであり、 現在では各国各社会の価値を平準化するための設計主義の実行マニュアルに堕してしまっており、これを利用して自分たちに都合のいい状況を作ろう、もっとあからさまに利益を誘導しようという連中に、ある種の目的に使われているものである、ということである。
(シリーズ 完)
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