僕が初めて日蓮聖人のご霊跡を意識したのは今から四半世紀も前、鎌倉をプラプラ歩いていた時でした。
何気ない小町大路の道ばたにありました。
(昔はもっと質素だったんですよ!)
お寺でもない、建物も何もない、ただの道ばた・・・
でもここが宗門にとって、あまりに、あまりに、意味のある道ばたなんです。
日蓮聖人という方を説明するには、この場所をおいて他にないのではないでしょうか?
「日蓮大士辻説法之霊跡」
この場所は、鶴岡八幡宮の参道・段葛から一本裏に入った小町大路ですが、鎌倉時代には武士の屋敷と商家町が混在した地域で、なおかつ当時の政治の中心であった鎌倉幕府・鶴岡八幡宮にもほど近い、絶妙な場所だったのです。
この辻説法跡には多くの石碑、法塔が整然と立っています。
僕が20年前に見た時よりもずっと、キレイに整備されています。
「国諫再興碑」
日蓮聖人が鎌倉にお入りになった頃、世の中は干ばつ、飢饉、疫病などが続き、「世も末」の様相を呈していたようです。
お釈迦様が入滅後、500年間は正しい仏法が行われる「正法」の時代が続くが、そのあときちんと修行が行われない限り、悟りを開く人が出ない「像法」の時代が来て、そのあと教えしか残らない「末法」の時代を経て、最終的には教えも残らない「法滅」になるという思想
「末法思想」
が世の中を支配していました。
また、当時大陸を席巻していた蒙古からも、「属国になるだろ?おい!」という国書が届き、幕府も混乱していた時代でした。
日蓮聖人はこの道ばたで、法華経の教えを熱心に説き、他宗と、それと結びつく幕府を痛烈に批判し続けました。
まさにこんな感じのアングルで説法を続けたのでしょうか。
いや、日蓮聖人のことだから道に出て演説していたはず!!
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
日蓮聖人の教えに伸るか反るかで日本の存亡は決まるのだ、という意味だと思います。
そろそろ五十路になろうかという僕にとって「辻説法」というと、昔、銀座・数寄屋橋で続けられていた右翼・愛国党の赤尾敏氏の辻説法姿が思い起こされます。
華やかなバブル最盛期の銀座の目抜き通りで、日の丸を掲げた街宣車の前で、国の凋落について激しく批判する老人の姿は、今でも頭の片隅から離れません。
僕自身、思想的に右も左もない方だと思っています。
しかし自分のことばかりで国の将来なんか興味のない聴衆の前で、とにかく国を憂いて道ばたで説法をされた日蓮聖人の姿は、もしかしたらあの数寄屋橋での老右翼の姿のようだったのではないかと想像してしまうのです。
この激しい辻説法が原因で、日蓮聖人は幾多の辛い法難に遭ってしまいましたが、同時に多くの信徒、後に日蓮聖人を支える檀越達、宗門の基礎となったお弟子さん達が日蓮聖人の教えに賛同し、帰依を誓ったのです。
お寺でもない、建物もない、ただの道ばたは、実は「最高峰のご霊跡」だったのです。