「東身延」として有名な本覚寺の門前に、滑川にかかる夷堂橋があります。
小町大路はここでクランク状に曲がっています。
夷堂橋を挟んで本覚寺の反対側に、東に向かう通りがあります。
妙本寺の参道です。
大きなお題目の法塔がありますね~
唱題随喜・・・界?会?旧字体は難しいな~
ご霊窟がここにもあるのかな?
参道の脇にひっそりと帝釈様が見守って下さっています。
総門です。
大きな寺院だけあって、門だけでも小さめのお寺の屋根くらいあります。
由緒がありました。
ここは比企一族が住む谷戸であったことから「比企ケ谷」と呼ばれています。
源頼朝の重臣であった比企一族は、権力闘争の末に北条一族によって滅ぼされてしまいました。
日蓮聖人がお生まれになる19年も前のことでした。
この事件の時にまだ幼少で京都にいたために生き延びることができた比企家の人がいました。
比企大学三郎能本公でした。
京都で学問を究め、学問で生計を立てていたインテリの方のようです。
鎌倉で辻説法をしている日蓮聖人に出会い、帰依しました。
日蓮聖人が立正安国論を書かれた時、その校正をしたのが比企大学三郎能本公のようです。
「比企大學三良能基本行院日学上人舊地」
「舊」は「旧」と同じ意味みたいですよ!
一族をこの比企ケ谷で滅ぼされた比企大学三郎能本公は、「比企の菩提を弔ってくれるのは日蓮聖人しかいない」と決心し、比企一族の屋敷跡を寄進しました。
ここに法華堂を建てたのが妙本寺のはじまりのようです。
総門の右手には八角形のお堂・・・いや、これは比企谷幼稚園です!
か・・・かっこいい!!!
「ここ、おれが通ってた幼稚園!」って言ってみたい~!
境内に入ると両側に深い森!
空気が変わります。
門が見えてきたぞ!
比企ケ谷の紋が輝いています。
二天門です。
左右に持国天と多聞天を祀っています。
まずは日蓮聖人像に合掌。
数々の法難に遭う以前の、若さ溢れる表情だと思います。
でもね・・・
どうですか!この左手!!
血管が浮き上がっています。
力の入り方が違います。
右手も!
辻説法中なんでしょうかね。
発起人の方々、制作に携わった方々の熱意が伝わる銅像です。
本堂です。
手前の屋根のカーブがあまりにキレイ・・・見事です。
瓦一枚一枚に比企ケ谷マーク
これって比企家の家紋なのかな?
歴代ご住職の御廟を参拝しました。
歴代墓誌(皆さん長寿ですね!)を見ると
開山 日蓮大聖人
二祖 日朗聖人
三世 日輪聖人
と刻まれていました。
・・・ん?どこかで見たことがあるぞ・・・?
そうだ!池上本門寺の御廟!
日蓮聖人の御遺命で、ここ比企ケ谷と池上の両山は一人の住職が兼務することになっていたため、開山、二祖、三世・・・と両山とも同じお名前なんですね!
(昭和16年に両山一首制は廃止)
で、法性寺にあるのが両山の奥の院です。
いろいろつながってきました!
ご霊跡めぐりの醍醐味です。
見どころ満載の妙本寺ですが、大将格を紹介していませんでした!
祖師堂です。
わたくし事ですが、若い頃から鎌倉に来たら必ずお参りに来ていた、大、大、大好きなお堂です。
回廊で小一時間ボーっとしたり・・・
見事な細工を見上げたり・・・!
何よりも惹かれるのがこのセクシーな屋根
色気すら感じます・・・
いや、失礼。ここお寺だった(笑)
でもホント、古いからにじみ出す味わいがあります。
時間がクオリティを作るんですね!
この裏側にご霊窟がありました。
何となく悲しげな空気を感じました。
一族が皆殺しにされた場所でもあるので、画像はありません。
蛇苦止堂です。
比企一族が北条一族により滅ぼされた「比企の乱」から50年ほど後、北条政村の娘が何かに憑依されて蛇のようにのたうち回り苦しみ、
「自分は讃岐局だ。蛇に生まれ変わり、比企谷の土の中で苦しみもがいている。」
と語ったそうです。・・・こ、こわ~っ!
讃岐局(二代将軍 頼家の側室)の弟にあたる比企能本公は、日蓮聖人に救いを求めたそうです。日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏させ、「蛇苦止明神」と名付けて祀ったそうです。
蛇苦止堂の境内に井戸がありました。
蛇苦止の井です。
比企一族滅亡の時に、讃岐局が家宝を抱いてこの井戸に身を投げたそうです。
怨霊を封印しているのでしょうか、井戸の正面に板に書いた御曼荼羅がありました。
とても、とても悲しい空気を感じた井戸でした。
妙本寺境内をじっくり見て回るほど、比企一族の無念と、それをきちんと供養しようと努めた比企能本公と日蓮聖人を感じ取ることができます。
比企一族のお墓です。
改めて日蓮聖人に手厚く弔われたのでしょうね。合掌。
周囲は杉林。訪れたのは3月。
当然、真っ黄色の花粉満載(笑)
花粉症の方はご注意!