山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

みごもつてよろめいてこほろぎかよ

2004-12-04 17:38:03 | 文化・芸術
災害支援の超勤手当、
2日間で最高8万5千円 大阪市


あいた口が塞がらない!
またしてもお前か-大阪市よ。
度を越したお役人天国よ。


もう、ほんとうに、いい加減にしてくれないか。
WTCも
ATCも
大阪ドームも
クリスタ長堀も
債務引受を地裁に申し立てたんじゃないのか?
すべて市民負担へと、ツケを廻そうとしているってのに。
財政破綻の深刻さは、もう全国トップになろうというのに。
一体、何をやってるんだよー。
大阪百年の計と、御堂筋を整備して、
名市長と称された関一(せきはじめ)の孫と、
鳴り物入りで登場した筈の、関淳一殿よ。
こんなことしてていいのかよ。
これじゃ、
大阪再生、関西復権など、
うたかたの露と消えちまうよー。
どうにかしろよぉー。

月も水底に旅空がある

2004-12-04 09:35:37 | 文化・芸術
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いまひとつ堕ちむとするや阿呆鳥‐記

あれからもう15年の歳月が流れた。
私が呼びかけて集まった十数名で編成した、
日中交流現代舞踊の旅。
天安門事件直前の緊迫した情勢のなか、
いかにも慌しい訪中の旅だった。


<現代舞踊の訪中交流記>

‐6月4日、流血の日曜日‐
天安門広場に集結した民主化要求を掲げる学生や市民に向かって、人民解放軍という名の同胞たちが狙撃と蹂躙をくりかえし、世界を震撼させた日
 その2週間前、連日百万人をこえる学生や市民に沸きかえり、天安門前広場が最大の盛りあがりを見せていたゴルバチョフ訪中の数日間と相前後して、ぼくらの中国への旅がはじまる。


‐5月19日、大阪を発って上海へ‐
民主化要求デモが南京路を埋めつくしていた。
 私たち一行(中国評劇交流祭出演のため訪中の現代舞踊家12名)は上海雑技団を観るため南京路にさしかかっていた。魯迅公園前のホテルを一時間前に出た車からやっと解放されて、道路いっぱいにひろがったデモ隊の流れを見ていた。
 雑技団の大きな劇場の中は外国人観光客があふれ、なかでもアメリカ海軍の兵士たちが五、六百人はいたろうか、缶ビール片手にパンダたちの出番を待っているのが喧噪した雰囲気をかもしだす。外の騒ぎからは隔絶された奇妙に退嬰的な空間がそこにはあった。たしかに上海の雑技はみごとなアクロバットだ。だがぼくらはなぜか疲れをおぼえた。見知らぬ土地へやってきた異邦人の境遇がそうさせるのかもしれない。二部三時間のプログラムにとても耐えられそうもないので、中盤のパンダの芸を見てから失礼して外に出る。
 夜の九時ちかく、通りにはもうデモ隊の姿はなかったが、行き交う人は多い。近代化が急速に進む中国の、その先端を走る上海ならではのファッショナブルなアベックの姿も多い。ホテルへ戻って、十時きっかり国際問題研究所の燓氏がロビーに現れた。大阪話劇人社の柳川清さんに紹介してもらった人だ。急な申し出にもかかわらず彼の親切なはからいで、上海人民芸術劇院の人たちと稽古交流の機会が得られる。明日の午後だ。さっそくメンバーに集合をかけて打ち合わせ。朝はホテルのホールを急遽借りうけて練習、そして午後は人民芸術劇院へ訪問となる。予定の観光はカットされた。


‐20日、北京では戒厳令がしかれた‐
 その日の午後、上海人民芸術劇院の人たちは、熱いまなざしでぼくらの踊りをみつめていた。
 二十数名の若い劇団員は「月祭り」という民話風な創作劇の稽古に汗を流していた。因習にとらわれた村の掟を破る若い男女の恋物語だが、恋ゆえの掟破りか、掟ゆえに悲しくも激しい恋が生まれるのか。いずれにしろ制度からの逸脱であり、厳しい掟へのプロテストであり、ひとりの若者の自由と尊厳をかけた孤独な闘いが描き出されようとしていた。女性演出家の指示で稽古が一段落。出迎えてくれたベテランの女優張引棣がぼくらを若い劇団員たちに紹介してくれる。
 さあ、ぼくらの作品をこの清新な若者たちに観てもらおう。ゆるやかなスロープがつくられた稽古場の高くなった所に彼らが座る。そこが客席だ。半分ほどの平らな部分が舞台、足場も悪く、少々狭いが贅沢は言えない。ぼくらはまず二つの作品を演じた。浜口慶子のソロ「優しさをください」、つづいて長川堂郁子と飯柴啓子のデュエット「洗礼の鏡」。その間約十五分ほど、私は喰い入るようにみつめる彼らの真剣なまなざしを追いつづけていた。五月の明るい光がさしこむ異国の部屋で、照明や衣装もない素のままのぼくらの踊りが展開されている。踊り手の熱い息づかいをそのまま呼吸しながら観つづける見知らぬ若い芸術家たちが、ぼくらの眼の前にいる。ソロが終わって拍手が沸いた。デュエットが始まると、さらに静まりかえった緊張がつづく。この時だ、私には予測を超えた事態が起こっていた。女優張引棣の瞳が潤んだように熱く燃えて、凝視しつづける真摯な表情は鮮やかに紅潮しているだ。激しいものが彼女をとらえて離さないのか、こんなにも僅かな出会いのなかでこれほど激している彼女に、私は驚いていた。私にとっても貴重な事件となりうる経験だ。


‐新しい出会いがここにひとつ生まれていた‐
ホーと解き放たれたような一瞬とともに強い拍手が響く。演出の女史は私の方へ駆け寄ってきて、もっと見たい、みせられるものはもうないか、と言葉の通じない私に、大きな身振りでせきたてるようにはなしかけていた。心の準備をしていなかったぼくらは予定外の群舞をひとつだけ見せることにした。私の「道成寺縁起」終盤の群舞。踊り手10人が立ち上がって着替えに走る。彼女らが現れると、親しさを込めた拍手で迎える彼ら。今度は初めて見るような緊張感に縛られていない。すでに彼らにとってぼくらは遠来の友だった、なにかが通じ合った者同士が、新しい共有の事件をまえに胸をときめかせながら待っている。烈しいロック調の曲にのって五分余りが一気呵成に過ぎた。熱っぽい拍手と嬌声をあげながら。踊り手の一人一人に握手を求めてくる。とりわけ動きの振りをあれやこれやと模倣に興じる者たちもいて、私は本当にびっくりしてしまった。
 ぼくらの踊りが劇場で演じられるより、稽古場でのほうが強く体験され、深い理解をえられる場合がある。私自身、師の神沢の作品を舞台で観るよりも、学園前の稽古場でなんの装飾もなく生地のままに観る場合のほうが、感銘を受ける度合がいつも大きい。また、大槻能楽堂で何回か拝見させてもらった素のままの稽古能が、面と装束につつまれた幽玄の美を現出させたどの能よりも、能楽の様式性とその美学の奥義に私自身よく触れえたと思った経験がある。この上海芸術劇院の若い劇団員たちとの幸福な邂逅も、劇場の舞台でななく、直に触れあえる彼らの稽古場であったからこそ衝迫力のある出会いとなったのではなかったか。
 短いが稀に味わう幸福な時間を経験した。言葉が通じ合わない者たちの、ハンデを超えた原型的な出会いが生まれていた。出会い、それは新しい出会いだった。ひとりの人間の、その人生でかけがえのない出会いが、だれでも二つや三つあるものだ。この日、この出会いは私にとってその貴重なものとなった。
 人は共時の体験のなかに、自分自身の内側からもっとも見たいものを見る。共有の出会いというものがあるのではない。共時の体験のなかに共にあって、互いに新しい発見が生まれる。それぞれが新しい自己の可能性と出会う。実体のない虚像などではなく、実体験に根ざした幻想を見ているのだ。女優張引棣はぼくらの踊りに彼女自身の見るべきもの、彼女の心の奥底で見たいと願われているものを見ていたのだ。他の若い団員たちもそうだったかもしれない。彼らもまた彼ら自身の見たいと望むものを見ていたにちがいない。そして私もそうだ。この彼らとの邂逅に、おのれの見るべきものを見いだしたと思っている。それは私の向後の人生を少なからず転換しうる出来事かもしれない。私には女優張引棣や彼らの燃えるような視線が忘れられないものとなった。


‐その日の夜、上海から瀋陽へ‐
 中国の日暮れは長い。もう八時をまわろうかというのに薄暮とはいえまだ明るかった。瀋陽到着が十時過ぎ。人民広場前の遼寧賓館にたどりついたのは十二時頃だ。
 翌朝、瀋陽評劇院長らと旧交を暖めつつ、公演の打ち合わせ。昼食の時間までに清朝開祖の故宮を見た。ヌルハチやホァンタイチゆかりの宮殿と名高い女真族八騎軍の遺跡。ホテルでの昼食後はフリータイム、各人思い思いに街を歩いた。つかのまのやすらぎのあと深夜おそくまで、ぼくらの上演場所、青年宮で舞台準備に立ち会う。予測はしていたものの、照明も音響も設備は古く、劇場というにはちょっと気の引ける代物だ。仕込には瀋陽評劇院のスタッフたちが数名、汗とほこりにまみれながら働いてくれた。午前二時過ぎやっと解放されてホテルへ戻る。さて、それから照明の仕込図を見ながらプランニングを試みる。五時近くまでかかったがまだできあがらない。明日に残してひと眠りする。
 22日、午前十一時からリハーサル。午後二時から公演という運びだが、リハで細かくアカリ合わせをする時間がない。ぼくらの作品を初めて見る異国の照明スタッフにすべてを託すしかない。直前までかかって準備をしたプラン表を渡して、あとは君の感覚でやってくれ、と。
 午後二時、客席の壁には線香がたかれ、会場にほのかな薫りがたちこめる。三百人ばかりの一般市民と文化・評劇関係者ら。
 舞台は7つの作品のあいだにナレーションを加えながら進行する。解説は私、私のあとをついで通訳の李敬敏女史が中国語で客席に語りかける。初めて見るであろうモダンダンスに戸惑いと直截な反応が交錯しながら、ひとつ、ふたつと演じられていく。踊るぼくらには思いのほかゆとりが感じられた。冷静に、客席の反応を確かめながら、大切なものを丁寧にそっと差し出すというふうに。ぼくらにはすでに上海の経験があった。それがぼくら異邦人の外国での公演という緊張の金縛りから救ってくれていた。
 演目のすべてが終わって関係者らが舞台へ上がってくる。ぼくらは解放感に満ちた快い汗を流していた。終わったという虚脱と安堵に包まれてもいた。この瀋陽の彼らはぼくらの表現になにを見ただろうか、ある手ごたえが彼らの胸のなかに落ちただろうか、などと自問してみる。上海の人民芸術劇院の若い友人たちが、自身の見たいものを見たように、この彼らもまたそうであったにちがいない。南京路を埋めた学生や市民らのデモ隊が不意に私の脳裏に浮かぶ。ぼくらの舞台を見た市民らが、上海や北京で、そしてこの瀋陽で起ちあがった学生や市民らと、どこかでしっかりとつながっていることを、関係者らの賛辞と歓迎の言葉を受けながら、私は秘かに願っていた。
 彼らのあいだにはなんの隔たりがあろうか。北京の天安門広場に集まった学生や市民ら、そして人民解放軍の銃撃の前に倒れていった若い命と、ぼくらの直に出会ったこの数少ない中国の人たちのあいだに、いささかの隔たりもないのだ。彼らはみな、おのれ自身の真摯なまなざしのうちに、見たいものを見つづけているではないか。彼らは私のなかで、親しく手をつなぎあってるではないか。私は、彼らのあいだに同じものを見いだし、見つづけようとしていた。


‐乾杯!‐
 評劇関係者らと交流の夕食会が催された。中国式もてなしの乾杯が何回もくりかえされる。ぼくらも数日間の緊張の糸をゆるめてなんども応じる。
 夜になってから評劇を観賞、たっぷり2時間半の古典的な舞台だった。疲れた身体に鞭打って観る者、とうとう眠りこんでしまう者に、各場の移りをしっかりカメラにおさめる者。12名の訪中団が重い役目を終えて、ほっとしながらの観劇だった。
 翌早朝、瀋陽空港から、空路北京へ。1日早い帰国組と別れて、戒厳令で市内に入れぬぼくら7人は、天安門広場に心ひかれながら、万里の長城へ。翌日は郊外にあふれた観光客に混じりながら渭和園を巡る。市中心部へはとうとう足を踏み入れずに北京を発った。
 再見! 上海、瀋陽、北京、そして中国。

  1989.6.20     

    <四方館T.H記>