「花はたださく、ただひたすらに」と、
国語教諭の発言問題
<花はたださく、ただひたすらに-の世界>
まず、
① 花はさく、ただひたすらに -上5音、下7音
② 花はたださく、ひたすらに -上7音、下5音
③ 花はたださく、ただひたすらに -上7音、下7音
この三つを比較してもらいたい。
三つとも日本語の伝統的な音数比率で構成されているが、
「ただ」という強調の意味をもつ副詞の用法が異なり、
その用法によって微妙な違いを生み出している。
①では-ひたすらに-を修飾強調、
②では-さく-を修飾強調、
③では-さく-と-ひたすらに-の両者を修飾強調するのに、-ただ-を繰り返し用いている。
①の五七調と②の七五調の場合、なんとなくおさまりがよいように感じられはしないか。
要するに「。」でおわる感じがするはずである。もちろん三者とも連用止めだから、完全なおさまり「。」ではなく、ずっと続いていくような余情はそこはかとなくあるのだが。
③の場合、ただの畳重ねがくどい感もあるが、おさまり感を希薄にして、それだけに余情を強める効果を持たせているといえる。
要約すれば、①②に比べて、③は-ただ-の繰り返しによって余情を強めているのだ、ということになる。
①②③ともに鑑賞とすれば、
だれかれに干渉されようがされまいが、時の移ろいのなかで、花は花として、ただ、ひたすらに、咲くのだ、それが花の宿命といえばそうだろうし、役割といえばそれもそうだろうし、花は花として自分の命を生きるのだ、ただ、ひたすらに。さらに、自分自身に照らせば、そんな花のように、人としての自分もまた、おのが生きる道を運命のようにして生きようよ、ただ、ひたすらに。
と、そんなところだろうが、
③では余情をさらに強めているのだから、花が花として生きるという覚悟にある、意志と情感のバランスが、情感により傾く。
私は、花が花として生きる覚悟-と言った、覚悟とはつねに意志と感情の両面から彩られているものだ。その意志と感情は、どちらが優越するでもなく、過不足なく折り合っている。どちらかが過剰になると、そこに凝りがたが生じるというもの。
情感により傾く、情感により訴えることは、意志よりも情感により彩られ、謳いあげたことになる。他方、情感が強くなることは、より濡れることでもあり、執着もまた強くなることである。
③の相田みつをの表現は、そういう特徴をもっている。
この表現を、深いと見るかどうかは、個々人の観方に委ねられる。
唯、ここで私見を述べれば、相田みつをの世界は、ここでも見たように情感性により傾斜する。その詩句の内容はといえば、つねに人生訓の域をでるものではない。人生訓的世界をより情感性を強めて表現しているのが彼の詩といわれる世界であり、その詩句が書の造型として一般に流布されているのが「相田みつをの世界」である。
人生訓的世界が新しい様式性をもって華々しく登場し、世にあまねく受け容れられてきた、というのが私の受けとめ方だ。それ以上でも以下でもない。
<国語教諭の発言に関して>
さて、書初めの宿題として、女子生徒から「花はたださく、ただひたすらに」を提出されたとき、件の国語教諭は、なぜ「やくざの世界の人たちが使うような言葉だ」と感じ、女子生徒にそんな反応をしたのか。
先に記したように、この言葉の「ただ」が繰り返し挿入されたことによる、情感により訴えかけた表現に、その謳いあげられ方に、感情の過剰な濡れを感じたろうし、過剰な執着を感じたろう。そのことが、任侠とか、義理と人情とか、やくざ世界の美学に通じるものと見てとってしまうことは、あながち飛躍とはいえないだろう、というのが私の思うところだ。
そこへ、さらに、この中三になる女子生徒が、普段からこの教師にどう見えていたか、どう見られていたかという事情が加担するのである。
これはもう私の推測の域を出ないことでしかないのだが、
中学三年生といえば、もう半分大人だ。しかも女子生徒だから、身体はもう成長期の盛りはすぎてすでに大人のそれだろう。仮に、今時の中三の女子生徒として、普段から彼女がやや派手目のタイプに属するとしたら、その要素が加担して国語教諭の「やくざ世界」の連想を生み出しかねない危険を孕んでいる、とみるのは飛躍しすぎているだろうか。
53歳にもなる分別盛りの国語教諭が、「とんでもない発言をした」という背景をできるだけリアルに捉えていこうするなら、私には少なくともそれくらいのことは言えそうだと思えるのだが。
国語教諭の発言問題
<花はたださく、ただひたすらに-の世界>
まず、
① 花はさく、ただひたすらに -上5音、下7音
② 花はたださく、ひたすらに -上7音、下5音
③ 花はたださく、ただひたすらに -上7音、下7音
この三つを比較してもらいたい。
三つとも日本語の伝統的な音数比率で構成されているが、
「ただ」という強調の意味をもつ副詞の用法が異なり、
その用法によって微妙な違いを生み出している。
①では-ひたすらに-を修飾強調、
②では-さく-を修飾強調、
③では-さく-と-ひたすらに-の両者を修飾強調するのに、-ただ-を繰り返し用いている。
①の五七調と②の七五調の場合、なんとなくおさまりがよいように感じられはしないか。
要するに「。」でおわる感じがするはずである。もちろん三者とも連用止めだから、完全なおさまり「。」ではなく、ずっと続いていくような余情はそこはかとなくあるのだが。
③の場合、ただの畳重ねがくどい感もあるが、おさまり感を希薄にして、それだけに余情を強める効果を持たせているといえる。
要約すれば、①②に比べて、③は-ただ-の繰り返しによって余情を強めているのだ、ということになる。
①②③ともに鑑賞とすれば、
だれかれに干渉されようがされまいが、時の移ろいのなかで、花は花として、ただ、ひたすらに、咲くのだ、それが花の宿命といえばそうだろうし、役割といえばそれもそうだろうし、花は花として自分の命を生きるのだ、ただ、ひたすらに。さらに、自分自身に照らせば、そんな花のように、人としての自分もまた、おのが生きる道を運命のようにして生きようよ、ただ、ひたすらに。
と、そんなところだろうが、
③では余情をさらに強めているのだから、花が花として生きるという覚悟にある、意志と情感のバランスが、情感により傾く。
私は、花が花として生きる覚悟-と言った、覚悟とはつねに意志と感情の両面から彩られているものだ。その意志と感情は、どちらが優越するでもなく、過不足なく折り合っている。どちらかが過剰になると、そこに凝りがたが生じるというもの。
情感により傾く、情感により訴えることは、意志よりも情感により彩られ、謳いあげたことになる。他方、情感が強くなることは、より濡れることでもあり、執着もまた強くなることである。
③の相田みつをの表現は、そういう特徴をもっている。
この表現を、深いと見るかどうかは、個々人の観方に委ねられる。
唯、ここで私見を述べれば、相田みつをの世界は、ここでも見たように情感性により傾斜する。その詩句の内容はといえば、つねに人生訓の域をでるものではない。人生訓的世界をより情感性を強めて表現しているのが彼の詩といわれる世界であり、その詩句が書の造型として一般に流布されているのが「相田みつをの世界」である。
人生訓的世界が新しい様式性をもって華々しく登場し、世にあまねく受け容れられてきた、というのが私の受けとめ方だ。それ以上でも以下でもない。
<国語教諭の発言に関して>
さて、書初めの宿題として、女子生徒から「花はたださく、ただひたすらに」を提出されたとき、件の国語教諭は、なぜ「やくざの世界の人たちが使うような言葉だ」と感じ、女子生徒にそんな反応をしたのか。
先に記したように、この言葉の「ただ」が繰り返し挿入されたことによる、情感により訴えかけた表現に、その謳いあげられ方に、感情の過剰な濡れを感じたろうし、過剰な執着を感じたろう。そのことが、任侠とか、義理と人情とか、やくざ世界の美学に通じるものと見てとってしまうことは、あながち飛躍とはいえないだろう、というのが私の思うところだ。
そこへ、さらに、この中三になる女子生徒が、普段からこの教師にどう見えていたか、どう見られていたかという事情が加担するのである。
これはもう私の推測の域を出ないことでしかないのだが、
中学三年生といえば、もう半分大人だ。しかも女子生徒だから、身体はもう成長期の盛りはすぎてすでに大人のそれだろう。仮に、今時の中三の女子生徒として、普段から彼女がやや派手目のタイプに属するとしたら、その要素が加担して国語教諭の「やくざ世界」の連想を生み出しかねない危険を孕んでいる、とみるのは飛躍しすぎているだろうか。
53歳にもなる分別盛りの国語教諭が、「とんでもない発言をした」という背景をできるだけリアルに捉えていこうするなら、私には少なくともそれくらいのことは言えそうだと思えるのだが。