―表象の森―「一致する不一致」
D.E.テサウロの長い題名をもった著書「神聖なるアリストテレスの原則によって解説せられたる‥アリストテレスの望遠鏡、あるいは機智鋭い文章作法の理念」-1645-
<discordia concors> 一致する不一致
「鋭い明察にめぐまれた者は、おのずと凡人とは区別される。彼はまず切り離し、しかるのちに結び会わせるのである」
「真の詩人とは、もっともかけはなれた関係にあるものをたがいに結びつける才のあるものである」
ルネッサンス―古典時代の崇高な様式化から新しい「マニエリスム的」表現に向かう決定的で生命力の横溢した移行は、老ミケランジェロの作品にいたってようやくひとつの精神史的な事件となる。
曰く「絵は手で描くのではない、頭で描くのだ」。
システィーナ礼拝堂の「最後の審判-1541-」、パオリーナ礼拝堂の「パウロの改宗-1545-」および「ペテロの磔刑-1550-」
、あるいは彼の晩年の諸素描をみればよい。この老ミケランジェロのやむにやまれぬ表現への衝動によって、静止的な調和概念とその合理的な収斂技術は木端微塵に砕けさり、その劇的情景を生む躍動、人目を驚かす奇抜な構図による衝撃作用は、一朝にして自然の模倣者たちを俗物的存在へと貶めてしまうのだ。
―G.R.ホッケ「迷宮としての世界-上-」岩波文庫より
Photo/ミケランジェロ「パウロの改宗-1545-」
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-183
7月11日、4時前に起きた、掃除して湯に入つて、朝課諷経してゐるうちに、やうやく夜が明けた。
すなほでない自分を見た、同時に自分の乞食根性を知つた。‥‥
今日はどうやらお天気らしいので近在を行乞するつもりだつたが、どうしたわけか-酒どころか煙草すらのめないのに-痔がわるくて休んだ、コツコツ三八九復活刊行の仕事をやつた。-略-
夜は妙青寺の真道長老を訪ねて暫時閑談、雪舟庭の暗さから青蟇の呼びかけるのはよかつた、蛍もちらほら光る、すべてがしづかにおちついてゐる。
正法眼蔵啓迪を借りて戻る、これはありがたい本であり、同時におもしろい本である-よい意味で-。
また不眠だ、すこし真面目に考へだすと、いつも眠れなくなる、眠れなくなるやうな真面目は嘘だ、少なくとも第二義第三義的だ。
しかし不眠のおかげで、千鳥の声をたんまり聴くことができた。
どこかそこらで地虫もないてゐる、一声を長くひいてはをりをりなく、夏の底の秋を告げるやうだ。
※表題句の外、2句を記す
Photo/妙青禅寺境内の渡り廊下-’11.04.30
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