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―四方のたより― エッ!? 三枝が文枝襲名
上方落語の定席小屋として天満の繁昌亭を成功させ、現在も上方落語協会の会長を務める桂三枝が、文枝襲名をするという報道に、我が耳を疑う思いがよぎった。
上方落語の大名跡を襲名といった形容が躍るが、60年代末から一躍マスコミの寵児となり半世紀近くも君臨しつづけるかたわら、創作落語なる独自の話芸世界を創りあげ、落語家としても押しも押されぬ名題となった「三枝」を、由緒ある名跡とはいえいまさらなぜ「文枝」に改めなければならないのか、どうにも首を傾げざるをえないものがつきまとう。
角界でいえばあの大鵬が一代年寄大鵬であるように、三枝はどこまでも三枝でよいではないか。だいいち三枝が六代目文枝となって、ならばいったい三枝の名跡を襲うに足る者がはたしてありうるのか。いまの上方落語会界を見渡して、六代目文枝の候補なら三枝以外にも居ないわけではなかろうが、三枝を託せる者など居るはずがないではないか、というのが門外漢からみたニユートラルな感覚だ。
門外漢とは世間さまというものの眼、圧倒的なひろがりをもつ大衆というものの幻想だ。その幻想のうちに半世紀近くもあざやかに存在しつづけた「三枝」を消滅させてしまってまで文枝襲名を為そうという、そんな愚を犯す上方落語界とは、いったいなにさま、いかほどの伝統芸能の殿堂だというのだろう。
嘗て露の五郎が、晩年になって露の五郎兵衛を名乗ったのなんざ、粋人の洒落っ気ですむだろうが、この襲名話、業界臭芬々として、こちとら門外漢には嫌な気が先に立つ。
だが、それにしても、三枝も三枝だねェ、重い立場に座りつづけて、とうとう彼もヤキがまわったか。
<日暦詩句>-36
「風にしたためて」 川崎洋
眼がさめると少年は
ろうたけた藤色に透けていた
そんな物語りの始まりのような
或る涼しい朝に
風にしたためて
いくつかの山や川を越えて
村を越えて
白い柵の向こうで栗毛の馬が
悪戯な子に麦藁帽子を噛まされて
大変迷惑千万な
そんな風景をずんずん越えて
せきれいのように越えて
とある家の
くるみ色に明るい窓をくぐって
あのやさしく美しかった人へ
こうして
かぜにしたためて
-川崎洋詩集-S43-より
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Photo/’93刊の「教科書の詩を読み返す」
川崎洋-1930年、東京生れ。’44年に福岡へ疎開。西南学院英文科に学ぶも父の急死により’51年中退。上京し、土工や日雇労務者、警備員、通訳などを経て、放送作家となる。
1953年茨木のり子らと詩誌「櫂」を創刊。詩集「はくちょう-‘55」「木の考え方-‘64」「川崎弘詩集-‘63」。「ビスケットの空キカン-‘87」など。
1971年には文化放送のラジオドラマ「ジャンボ・アフリカ」の脚本で、放送作家として初めて芸術選奨文部大臣賞を受けた。日本語の美しさを表現することをライフワークとし、全国各地の方言採集にも力を注いだ。’04年没。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-184
7月12日、雨、降つたり降らなかつたりだが、小月行乞はオヂヤンになつた、これでいよいよ空の空になつた。
啓迪を読みつづける、元古仏の貴族的気凛に低頭する。‥‥
ありがたい品物が到來した、それはありがたいよりも、私にはむしろもつたいないものだつた、―敬治君の贈物、謄写器が到來したのである、それは敬治君の友情そのものだつた、―私はこれによつてこれから日々の米塩をかせきだすのである。
今夜も千鳥がなく、虫がなく。‥‥
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Photo/「川棚温泉開基」の看板が掛かつた三恵寺のお堂
※表題句の外、1句を記す
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