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映画「グスコーブドリの伝記」の感想

2012年07月13日 | 日記

今週観てきました。元になった漫画は小さい頃から何度か読み返しており、原作小説にも目を通しています。観終えた後に感じたことは「もったいない」でした。

原作と漫画はブドリの生涯を淡々と描いた伝記らしい構成ですが、映画はファンタジー色が強くなっています。具体的に言うと「雨ニモマケズ」「銀河鉄道の夜」「火垂るの墓」「千と千尋の神隠し」「耳をすませば」が混じっています。

原作をそのまま映像化しても全国ロードショーのエンターテインメントとしては地味ですし、ファンタジー要素を増やして画面を華やかにすることの必要性は理解できます。しかし、改変部分が「原作を解釈して独自に再構成した」のではなく、「売れる要素を追加した」以外の意図が読み取れなかったのが残念でした。

また冒頭で先生が朗読する「雨ニモマケズ」の詩が後にブドリの決意に影響を与えることになりますが、「何もできなくても誰かのために何かしたい」という考えは、知識や技術を活かして人を救おうとするブドリとは微妙に合わない気がしました。ブドリを「でくのぼう」なんて言う人はまずいないでしょうし。この組み合わせにも「最近注目されているから」以外の理由が思い当たらなかったです。

ただし、原作に則したシーンは非常に丁寧に映像化されていて、里山の風景、イーハトーヴの街並み、機械類の描写などは凄く素敵だったので、原作を軽んじているとは感じませんでした。ちなみに同じ原作者・監督の「銀河鉄道の夜」から三角(正四面体)、雑貨屋のおじいさん、無線技士、「リンゴ」の姉弟(一瞬だったので他にもいたかも)が少し登場しています。

「映画化」としては納得いかないところがあったけど、「映像化」としては文句なしだったので映画の映像を思い浮かべながらもう一度原作を読みたいです。

下記が主な変更点です。ネタばれですので白い文字になっています。文章を選択して反転すれば読めます。

一番大きな変更点は、妹ネリの消息と人攫いの男の役どころです。原作ではネリは攫われた後、途中で捨てられますが、親切な牧場主に拾われその跡取り息子と結婚して幸せな家庭を築き再登場します。映画では人攫いの男は謎の存在で、度々ブドリの悪夢に現れます。

その夢の中でネリがサーカスで働かされているような描写がありますが、映画での現実世界では彼女はその後一切登場しません。幼いネリが空腹の果てに意識を失う場面も映画オリジナルであり、この男は終盤、自分の命と引き換えに火山を噴火させたいというブドリも連れて行くので、死神のようなものかもしれません。つまりネリは飢饉の時点で亡くなっているんですね。

妹が攫われてサーカスで働くシーンはこの物語の原型である「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」にあったそうですが、ネリとの再会は、妹を亡くした賢治氏自身のせめて物語の中だけでも、という思いが込められたシーンではないかと思っていたので複雑な気持ちになりました。

次に、飢饉の描写が長く執拗です。絵的に明るくなる里山のシーンまで開始から少なくとも30分以上は経過していたので、先の展開を知らないとかなり見るのが辛いかもしれません。ここは「読む」と「観る」との体感時間の違いによるものかもしれませんが。

窒素肥料を雨に混ぜて降らせる計画から、ブドリが勘違いから襲われ、入院先で成長したネリに会う流れは全てカットされ、星空を見上げるブドリと光る雲だけ少し映ります。科学的に無理があるとか、ネリの再登場につなげられないのでストーリー的にはカットしたものの、映像としては一番の見せ場なので入れたということでしょうか。

テグス工場はブドリの見た夢として登場し、実際には実家は改造されていません。シーン全体も非現実的なイメージになっています。帰る家が無くなる、厳しい雇い主の元で肉体労働から働き始めるというのは伝記としてリアルなエピソードで、ブドリの成長を演出する要素の一つでもあったので架空のものとしてしまったのは勿体なかったです。

このシーンに限らず、クーボー博士にノートを見せるシーンが短縮されたり、最終的に火山が魔法のような力で噴火するなど、ブドリが様々な経験を経て大きなものを救える程の優秀な科学者になったという裏付けの描写が全体的に弱くなっています。

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