あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

Extreme state

2016-06-08 23:20:19 | 日記
こんばんは。さっきまでシリアルキラーのネットサーフィンをしていて落ち込んでいましたが
ご飯を食べてお酒を飲んでレディオヘッドの新譜を聴いているうちに早くも元気になったあまねです。



できればやめたかった。でもやめられなかった。
 わたしには他に何の喜びも幸せもなかったのだ。



これは今まで何度か調べたことがあるが、今日もまた調べていたイギリスのシリアルキラーのデニス・ニルセンが逮捕された後に言った言葉です。
あまりに美しい言葉です。
楽しいことが殺人ではない人、幸せなものが殺人ではない人、すべて彼を非難する資格などない、そう思いました。
自分は楽しいこと幸せを感じることが殺人ではないからやってないだけではないか。
どうしてそんな人たちが彼を非難できうるのだろう。
彼はできるならば殺人をやめたかったんだ。
多くの人と同じような平凡な日常を送ってみたかったんだ。
平凡な日常のなかささやかな喜びを感じながら、お日さまの下で暮らしてみたかったんだ。
でもやめられなかった。
腐敗しきった匂いの充満する部屋で暮らし、赤黒いぬめついた血に手を染めながら喜びを感じて生きるしかなかった。
そこに太陽の光は決して射さない。射しても、光を光と感じることができない。
彼の人生は、人を殺めた瞬間から光を遮る真黒な膜に覆われてしまっているからだ。

彼を非難する人たちは想像することができるだろうか。
一番の楽しみ喜びが殺人でそれをやめたくてもやめられないこと。
もう二度と光の射す場所を生きることはできないその道が、どこまで続いているか、見えないことを。

彼はどこまでその道を歩まなくてはいけないのだろう。
たったひとりで。

そんな寂しい道を歩いている人間が今もたくさんいる。

ほとんどの人間が極限状態に置かれたら人を殺し、その肉を喰らうだろう。
ではこの世界で、目には見えない極限状態の中で殺人を犯して生きている人間の叫びは、なんて言われるかというと多くの人に「異常者」と言われる。

極限状態に生きてるちゅうてんのんに。異常者とか、殺人鬼とか、よく軽く言えるなと思うが、でもいつか気づくよ、極限状態に陥りさえすれば、彼と自分はそう変わりのない人間なんだと。

自分だって食べ物がなくなれば人を三日に一人は殺して解体して頭部を圧力鍋でぐつぐつ煮込みながら果ては鼻歌を歌っているかもしれない。
「うーんやっぱし人間の頭部はカレースープが一番美味いかな」とか言っているかもしれない。
「人間の内臓のモツ煮込みは最高だ」
「人間の脛肉はおでんに入れると格別なんだよな」
「人間の脳みそはわさび醤油で食べると意外と旨い」
「人間の指はそのまま焼いて食うと手羽先食ってるようでいい」
「人肉ステーキはやっぱし腹回り肉のミディアム・レアがいいね、脂乗ってるもんね」
「人肉ハンバーグは大根おろしとポン酢が美味い」
「人肉唐揚げはレモンをかけないよりはかけたほうがいい」
「人肉ハヤシライスにはトマトピューレを入れるのを忘れないでね」
「人肉ラーメンにニンニクはいらない、もし入れるなら、「にんにくにんにく(人肉ニンニク)」なんてことになるが、それでもいいのか、やめたほうがいい、それよりかは「にんにんにくにく」にしたほうがまだいい」

自分の出てるフェスの会場の舞台に肉を焼いている匂いが流れてきて「肉を焼いている匂いがしている。これが人間の肉を焼いている匂いであることを願うよ」と言ったのはザ・スミスのヴォーカル、モリッシーである。

自分は牛の肉も豚の肉も鶏の肉も肉食をやめてからは人肉にしか見えないので、ネットなどでも写真を見るたびに気持ちが悪くなる。

「アミ小さな宇宙人」の世界では「肉なんか食べないよ。考えただけではき気がする。罪のないかわいいニワトリやブタやウシを殺して食べるなんて!なんてざんこくなんだろう……」などと驚かれる。
つまり彼らにとっちゃ地球の動物の肉を食べる人は異常者に映ることだろう。

しかし多くの人は自分が異常者であるとは思わない。
何故なら彼らは多数派であり、少数派ではないからだ。

死刑に賛成する人のほうが多数派であれば、それが正常な考えだと思っている。
殺人者を異常者扱いする人間のほうが多ければ、それが正常な判断だと思っている。

でも誰もが極限状態に置かれたなら、考えは変わるのではないか。
宇宙人アミだって、考えは変わるかもしれない。
それは肉を食べなくても生きていけるから食べないだけだからだ。
人を殺さなくても生きていけるから殺さない。そりゃ殺さないだろう。
人を殺さなくても生きていける人間が殺さなくては生きていけなかった人間を非難するのは滑稽だ。
肉を食べなくても生きていける人が肉を食べなくては生きていけない人を気持ち悪がるのは滑稽だ。
滑稽なんだよ。
ガキなんだ。
あらゆる人々が、ガキなんだ。
俺を含めて。











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6ペンスの唄を歌おう

2016-06-08 00:12:58 | 空想コラム
「6ペンスの唄」

6ペンスの唄を歌おう
ポケットにはライ麦がいっぱい
24羽の黒ツグミ
パイの中で焼き込められた

パイを開けたらそのときに
歌い始めた小鳥たち
「なんて見事なこの料理
王様いかがなものでしょう?」

王様お倉で
金勘定
女王は広間で
パンにはちみつ

メイドは庭で
洗濯もの干し
黒ツグミが飛んできて
メイドの鼻をついばんだ


Sing a Song of Sixpence | Nursery Rhymes | By LittleBabyBum!




これはマザーグースの童謡です。
レディオヘッドの「Burn The Witch」の歌詞にこの「六ペンスの唄を歌おう」という歌詞が入っていて
この謎の深い唄を今から解読したいと思います。

マザーグースというと本当は怖いグリム童話のような残酷な歌をよく作っています。
たぶん小学校でかマザーグースの寺山修司訳の本を借りてきて、気に入ってしまい返さずにパクった思い出があります。
でも歌はすっかりさっぱり忘れてしまいました。

この「6ペンスの唄」も私は残酷な歌であるとみました。
なぜ残酷か、それは黒ツグミパイという料理が残酷な料理であることからもうかがえます。
これはただたんに黒ツグミの肉を入れたパイではなく、ブラックバード・パイという実際にあったと言われている黒ツグミを生きたままパイの中に入れて
そして客の前で切り開き、客を驚かせるというビックリ料理として出されていたようですね。
あんまりに残酷な料理です。パイの中といえど、ものすごく熱くなるはずです。





この唄は、残酷な仕打ちをされた黒ツグミがメイドに仕返しをするという歌であることがうかがえます。
しかしただそれだけではなく、暗号として使われている言葉がいくつかあると言われています。

*24羽の黒ツグミは24時間、王は太陽を、女王は月を表し、時間の運行を意味する唄という説。

この説が面白いなと私は思いました。
24時間というと一日、メイドは一日をパイに詰め、一日から報復をされるわけです。
太陽は見えない場所でお金を勘定し、月は広い間で甘い蜂蜜パンを喰らっています。
いったいどういうことなんでしょう。
太陽といえば太陽神、光をつかさどる神の象徴です。
一方、月は夜に太陽の光に反射して光ることのできる闇をつかさどる神の象徴と捉えることができましょう。

つまり光は見えない場所でお金を勘定しており、闇は広間で蜂蜜パン喰らってます。
お金とはなんでしょうか。光の神にとっての金とは、いったい何を表しているでしょうか。
わたすはこれは、カルマ(業)のことだと踏みました。
何故なら、カルマはよくお金に例えられるからです。
カルマを清算するとよく言いますし、聖書にもイエスの言った

「よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない
(マタイによる福音書5章26節)」

という言葉がある通りに、この言葉は最後の一番安い価値のお金(カルマ)を清算するまで、あなたは決してこの地上の次元以外で暮らすことはできない。という意味があると思っています。

つまり光の神は、カルマを誰にも見えない場所で勘定(計算)しています。
神が計算してくれているので、私たちはその計算通りに正確に借りた分を返すということができます。
神の勘定の御陰で借りていない分は返さなくともよいのです。

光の神が計算しているところは決して目にすることができないので、「王様お倉で金勘定」と歌われるわけです。
では闇の神が広い間で蜂蜜パン喰らっている。とは何を表しているのでしょう。
「お城の広間」で検索してみると、窓に囲まれているか、柱や絵画に囲まれてるみたいな場所の画像がいっぱい出てきます。
吹き抜けにしてあったりして広間とは主に
ひろま【広間】
多くは客用・会合用の、広い室・座敷。
という場所なので、ごちゃごちゃ物が置かれていないさっぱりとした広い空間ということになります。

なんでそんな場所で闇の神はひとりで甘い蜂蜜パン食べてんの。
それは、今日は特別な日だからです。なぜ特別な日か後になればわかります。
闇の食事とはいったい何でしょうか?
闇は何を食べているんでしょうか。闇が必要なもの、それはもちろん、光です。
光があるおかげで、闇が闇でいられるからです。
なので闇はひとりで楽しく大好物の光を周りの窓から光が差し込む部屋で光を食べています。
闇にとって、光はとても甘く、ほっぺが落ちるほどの大好物なので、それは光にかざすときれいな黄金色に光る蜂蜜をたっぷりと塗ったパンに例えられました。





それなのにメイドはそんなことは露知らず、王様がきっと喜んでくださると思っている黒ツグミのパイ(一日)をせっせと焼き上げています。
6ペンス銀貨は正しくはわかりませんが当時16世紀で職人の一日の賃金に当たる4700円ほどの価値があったのかもしれません。
一日の報酬の唄を歌おう。ということなのでしょう。
6ペンスの唄を歌いながらポケットにライ麦をたくさん詰め込んで。
ライ麦は寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境にも耐性がある強い穀物です。
ポケットとは昔では物を計量する大きめの袋のことを言ったそうです。
ポケットにいっぱいのライ麦粉さえあれば、一日の食事は十分賄えるでしょう。

焼きあがったパイを開けた途端、24羽の黒ツグミ(一日)は歌い始めました。
小鳥たちはパイの中で焼かれたにも関わらずぐったりともしておらず元気なようです。
おかしな話パイの中であつあつの熱さに耐えながら黒ツグミたちは歌うのです。





黒ツグミたち「王様の前にお出しするのになんとも打ってつけの御馳走ではありませんか?」



日本の黒鶫

さて、このパイは何で作ったかというと24羽の黒ツグミたちと、ポケットに詰め込んであったライ麦粉で焼き上げたのでしょう。
24羽の黒ツグミ(24時間)と、一日を賄うに足りるライ麦粉で作りました。
これはメイド(作り手)にとってとっても大事なものたちです。
もしかしたらば、このパイを王様に届けてしまえば、自分の今日一日の食物はなくなってしまうかもしれないのです。
しかしメイドは王様に喜んでもらいたい一心で自分の食べる分の大事なライ麦粉で作り、そこに自分のさらに大事な一日を投与しました。

メイドは一日のすべてを注ぎ込み、一日中このパイを作っていたということになります。
それだけメイドにとって王様とは大切で愛する存在なわけですね。
王様が大好きで大好きで仕方ないのです。
しかも今ならば女王様は広間で蜂蜜パンを食べていることを実はメイドはこっそりと覗いて知っていたので、今ならこの特製のパイを王様だけに存分に味わっていただけるだろうと思い、急いで必死に作りました。

しかしなんということだろう。パイが焼き上がり早速王様のところへ持って食べていただこうと思って王様を探したら、王様の姿がどこにも見当たらない。
王様はそのときメイドに見つからない場所に隠れてしまったのです。

メイドは悲しんで、涙を落としながら洗濯物を庭に干しに行きました。
一日は過ぎて、夜中でしたが仕方なく、暗い中洗濯物を干していました。
するとあろうことか、そこへ黒ツグミが飛んできて、メイドの鼻をついばんでもぎとってしまいました。
鼻をもぎ取られたら、そりゃ痛い、否、痛いどころの話ではない。
うっぎょーとメイドは叫び、転がりまくりました。





「ついばむ」とはくちばしで突く、といった可愛いものではなく、
ついば‐む
【啄む】
鳥がくちばしでつついて食べる。
という意味なので、これは鼻ごと持っていかれたというような表現に近いと思われます。

メイドは悪意はなかったものの、こっぴどい復讐を黒ツグミから返されてしまったわけです。
一日を費やして、一日の食料で作り上げた一日から報復をされました。
何故なのでしょうか?
それは王様が知っています。

その一日とは、黒ツグミのパイに例えられたとおりに、カルマの種を撒く、ということでした。
メイドが生きたこの一日は、カルマの種を撒くためにあり、一日の食糧であるライ麦はメイドが生きるために必要な、つまりこの一日を生きるために、種を撒くのに必要なものです。
そして一日を生き、一日に必要な種を撒き、焼きあがった黒ツグミのパイはそのカルマそのものです。
種を撒いた後は、実って刈り取るのを待つだけです。
メイドはそのカルマを王様に召し上がっていただこうと思いましたが、王様はもうすでに召し上がっておられるのです。
王様はすべてを知っているので、メイドがどんな一日を生き、どのような種を撒いたかをご存知です。
知っているからそれを正確に算出できるのです。





そして王様が出した結果の通り、メイドは自分で蒔いた一日の種を早くも刈り取ることができました。
パイの中で焼かれた黒ツグミたちは何もメイドに報復をしに行ったわけではなかったのです。
ただ王様の命令によって、王様の出した結果によって、メイドが実った実をしっかりと刈り取られるようにと使命を受けて、メイドの鼻をついばんだのです。

そしてその一日の成果に女王様もしっかりと実は関わっていました。
女王様はメイドの成果のため、メイドに覗かれる場所であえて蜂蜜パンを食べていたのです。
パンとはイエスのからだに例えられるように、なくてはならないもの、絶対に必要なものの例えです。
女王様はただ好物をこっそり食べていたわけではなく、メイドの成果を成功させるために王様とタッグを組んでいたのです。
女王様がひとりで蜂蜜パンを食べているのをメイドが発見しなければ、メイドは王様だけに食べてもらいたい黒ツグミのパイをがんばって焼くことはなかったからです。

24時間(黒ツグミのパイ、カルマ)がなければ人間は生きていくことができません。
また光(王様)と闇(女王様)もなくては生きていくことはできません。
生きることとは、カルマの種を撒いて、それを刈り取る作業の繰り返しであるということがこの歌からも見えてくるようです。

ちなみに後世の人が付け足したといわれる別バージョンではあのあとに唄はこう続くそうです。


国王お抱えの医者が呼ばれ
彼女の鼻を縫い合わす
それは見事な腕前で
縫い目がどこかわからない


でもまたまた別バージョンでは、またもや鼻はもぎ取られるそう。
メイドの一番の喜びが王様に喜んでもらえる黒ツグミのパイを焼くことだった場合、これはなかなかやめられませんでしょうね。

最初に残酷な歌であると書きましたが、私の辞書にある「残酷」は「救いのある残酷」なので救いの大いにあるお話として解読させていただきました。