あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

おれぼくわたし、上から見るか?下から見るか?横から見るか?

2016-06-25 18:54:43 | 空想コラム
上から目線の心理は何?態度に潜むその人の感情
面白いな、この記事。
自分の心理については考えずに相手の心理だけ考察している。
相手の心理を考察していくうちにそれは自分の心理であった。という気づきもなく終わっている。
上から目線で見られているように感じる。相手は実際上から目線で見てるかどうかもわからないわけだ。
わからないのになぜ相手は上から目線で見ているのか?を考察している。
「上から目線で見てるよね?」と言われたならこう返せばいい。
「いや見てないよ、なんで下から目線で見てるんだ?」と。
相手から見下されているように感じる。という心理は一体なんなのか?
それはずばり、自分が自分を見下しているからだ。
自分で自分を馬鹿だと思っている人間が、相手に向かって「馬鹿にしないでくれよ」と言ってるわけだ。
相手は「馬鹿になんかしてないよ」と返してくる。
「いいや、してるね。してないならそんな言い方はしない。もっと違う言い方になるはずだ」
「勝手に言ってろ。被害妄想。それに馬鹿な相手に上から目線で言ったところでなんになる?馬鹿より上ってそれ別に賢くないよ。むしろ上から目線するのは賢い相手にするもんじゃないのか?」
「じゃあ僕のことは本当は賢いと思ってるんだね?」(プライドが高い)(優越感に浸りたい)
「思ってないよ」
「じゃあやっぱり馬鹿だと思ってるんだ!」(相手と比べることでしか自分を評価できない)
「普通だろ。賢くも馬鹿でもない。平均値」
「くぅっ、やっぱり馬鹿にされてる気がするっ」(ちょっと自分に自信がない)(見下されることを恐れている)(正論で責められ言葉で詰まってしまうことを恐れている)(納得させられてしまうことを恐れている)

()内はさっきのURL先の上から目線で見ている人の心理を当てはめています。
どうでしょう?これはそのまま下から目線で相手を見上げている人の心理にぴったしです。
人間というのは自分の心理を通してでしか相手の心理を考えることができないということなのです。

だから自分の心理を知りたいと思うならば自分が見てる相手の心理を考察していくうちに、自分の心理を発見していくことができるというわけです。
自分が自信のないこと、反論することのできないことを言われた場合、相手の意見は最もだと思えた場合は、自分のことが嫌になります。言い返せない自分、間抜けな自分、馬鹿な自分、自分が恥ずかしい、悔しい、どう転んでも自分が間違ってると思える、まさに下から相手を見上げるように見てしまうため、「上から目線で俺を見るのはやめろ」となるのです。

かなり面白い独り芝居で茶番劇ですが、人間は誰しもがそうなのです。
この世に実は自分しかいないと言えます。

「自分はダメだ、ああ自分は愚かだ、自分は下らない、自分はつまらない人間だ」
そう思い続けると自分に対する評価はそっくりそのまま相手からの評価として感じられてきます。
一方「自分はすごい、ああ自分はカッコイイ、自分は賢い、自分は聖者的だな、いや、俺は、ネ申だ」
そう思い続けると自分に対する評価はもちろん相手も同じ評価を自分に下していると妄想できて馬鹿になります。
上から見すぎても下から見すぎてもなんだか魅力に欠ける人間だなあと私は感じます。
しかしその二つがいい感じにミックスされていたならどうでしょう?
「ああ俺はほんと馬鹿だけど、でも俺って賢いと思う、うーんみんなが全員馬鹿に見えるなあ、でも一番愚かなのは俺かもしれまい」
いい感じで一人の脳内世界で存分に懊悩していて微笑ましい限りです。
上から見たり下から見たりと大忙しですが、ま、そやって人間って成長していくんだろから、いいんじゃね?という感じですね。

しかしここに「ず~ん」とやってきました。「横から自分」です。
まるでラスボスのように「え?もう?」って時に早くも現れてHPが心配です。
おいーこんなことならエリクサー買いだめしとくんだったーと後悔してももう遅い。
自分の中の勇者、自分の中の魔法使い、自分の中の僧侶は瞬時にションベン漏らして近くの森の中へスッコンデしまいました。
くぅ~ん、僕は誰?此処は何処?記憶喪失の振りをして「横から自分」に軽く挨拶と全財産を渡しその場を自然と
通り過ぎようとしたその時、横から(さすが横から自分)「横から自分」に呼び止められました。
横から自分「おい」
自分「えっ、はいはいはいはい、なんでしょう?」(手をきりもみしながら)
横から自分「思うんだけどさ、やっぱ自然っていいね」
自分「え、うん、あはい、自然、わかります、自然はいいなあ」
横から自分「思うんだけども、お酒って美味しいからやめられないんだね」
自分「そ、そうだね(なんか話がとびとびっ)」
横から自分「ワニってさ、怖いけど、可愛いね」
自分「わ、わに?あの?水の中で暮らす背中にとげとげの?あーはいはいはい、確かに、言えてる」
横から自分「いま、このときを、ぼくは、かんじてるよね」
自分「うん、感じてる、それがどうかしたの?」
横から自分「いや、別にどうもしない、ただ感じてるよなと思ったの」
自分「あのぉ……横から自分って何がどう横なの?」
横から自分「まあそのまま、真ん中ってことだよね上と下の真ん中、中間、空間でいう中心部分、水平線上的にやってくる自分という意味ではない」
自分「水平線上的にやってくる自分を想像してしまったじゃないか」
横から自分「やってくるという表現がたしかに可笑しかった、元からいるものだよ」
自分「元から存在している横から自分ってどういう心理なの?」
横から自分「いろいろ考えはするけど、特に何も決めないから、最高な解放がそこにあるという感じだね」
自分「考えることって解放において必要なの?考えるほど縛られそうだけどな」
横から自分「自分、だから、考えることは解放の自分であり、自分の解放だから」
自分「でも解放というのを意識すると解放ではない自分も生まれそうだけど?」
横から自分「解放でなくなると横から自分ではなくなるだけで、何も問題はないよ」
自分「ふむん、いま、ぼくは、横から自分?」
横から自分「横から自分だよ、この境地に入れば自然と鼓動は休まるから意識するといい」
自分「わかったよっ。ありがとう横から自分」
そう言った瞬間、横から自分はチャリンッと音を立てて一つのコインに変身して床に転がった。
やったっ、このコインでどの夢を買おうかな。
横から自分はそう言うと深い森の奥へとひとり進んでいったのであった。



「横から自分の冒険」続く……






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芸能界に幻想す歓声の残響を君は聞いたか?

2016-06-25 16:47:57 | コラム

最初のうちは記者に対して苛立ちを感じたが、最後まで読むと切実さを感じられた。
誰かを苦しめなくてはならない商売で真っ先に思いつくのはと殺(屠畜)業者である。
そしてコメントを読むとまたもや苛立ちを感じた。
これはまるで肉を食べながらと殺(屠畜)業者を嫌悪している人間の心理によく似ている。
霜降り肉はカロリーの高い穀物ばかりを与えて牛をメタボにし、病気にさせて苦しめさせて作られる。
メタボが進んで盲目になる牛もいる。
霜降り肉を買う人間が多いので業者は霜降り肉を作るが、ほかの牛肉は食べるが霜降り肉は食べない、残酷だからやめろと言って
批判されているのと同じような立場にこの記者はいる。

記事も同じで、それを求めない人ばかりならそんな記事を書くための記者もおのずと消えていく。
読む人間が多いためにそれが商売になるから、どんなに批判されても食っていくために書かねばならない。
牛に霜降りにされるのはあんまりつらいからやめてくれと目で訴えられようが、自分も商売がかかってるんだと言い聞かせたい気持ちはわかる。
相手の命を取るか、自分の命を取るか、という状況にこの記者が立たされていないとは言えない。
それくらい、何か尋常でない切実さを読むにつれて感じられたのである。
大恥をかいてでも自己弁護に尽きる記事を書かねばならなかったこの記者に自分は同情を覚える。

不祥事のゴシップと命がかかっている今回の取材を一緒にするなというコメントが多く見受けられた。
でもどれも自分は命がかかっていると思う。
不倫などのちょっとした過ちであってもそれをこぞって非難されたら精神を病んで自殺しかねない。
不祥事をしたのだから仕方ないとするならそれこそ恐ろしい考え方だ。
薬物で逮捕されたらもう二度と芸能界へは戻ってくるなというコメントも別の記事で多かったが
それは「死ね」と言ってるのと変わりない。
顔が知れているのだから、普通の仕事でやっていけるとは思えない。

芸能人に対して世間は必要以上に厳しい、これは昔からなのだろうか?


芸能とは元々は神と交わるための行いで「原初的な共同体の祈り(祭祀)や感謝(祭礼)における呪術的儀式が芸能の原点」であった。
しかしそこに権力者が現れ社会に身分が生まれ「神と交わる役割は、独特の人格と能力のある人が果たしていた人間」は
「神や仏の前で歌い、踊り、舞い、演技する」ことで権力者を楽しませる一つの職業となった。
一方で民間の祈祷師は村落のなかで祈祷や占いをやっていて
「こうして芸能は、権力に抱えられて洗練されていくものと、庶民の生活に密着した土俗的なものとに分かれて」いったという。

朝廷貴族にそうやって利用されながら「室町時代に観阿弥・世阿弥の親子が能を舞台芸術として完成」させた。
「世阿弥が書いた『風姿花伝』という芸術論には、神や仏に捧げるものでありながら、
大衆的な娯楽としても人々を楽しませなければならないと苦悩する有様が書かれて」いる。

貴族に愛される一方で賤民出身の芸能者たちは「当時の貴族から『乞食所行』と呼ばれて」いた。
社会的分業が進んでいくと「室町時代には、かつてのような宗教的な役割は否定され、
物を生産しないで各地を流浪する芸人で、社会的にも卑しいとされてしまった」。
大衆にもてはやされるために『生まれた芸能で代表的なものが「歌舞伎」や「人形浄瑠璃」「説教芝居」』だという。

「日本の三大芸能はすべて低い身分におとしめられた人々のなかから、自主的かつ創造的に生まれた」
歌舞伎は「原点は底辺に生きる人たちが最先端のファッションに身を包んで反体制を表現した芸能だった」。
「三大芸能のほかにも、大道芸や門付芸、見せ物芸など数多くの芸能があり、人通りの多い道端や寺社の境内、お祭りなどで演じられていました。
人々はそうした芸能を楽しみつつも、各地を転々としながら暮らす遊芸民たちを『その日暮らしの漂白民』として差別的に見ていました」。

元々あった神を乗り移らせるという特殊な才能に合わせて、差別され続け苦労してきたことで
他にはない芸に秀でた素晴らしい才能が生まれていったのであろう。
人々から差別されながらも人々を喜ばせて稼ぐという商売は見世物小屋などが海外でもあるから日本に限ったことではない。


芸能は芸術という表現の一つであって世間の考え方や非難に負けていては到底やっていけない仕事というか、役目のようなものであるわけだ。
権力と世間に負けるなら芸能は向いていないということになる。
これは世間の求める執拗な取材もまた世間であるから、それを拒んでいては芸能はやっていけないだろう。
それこそ何をされても言われてもパンク精神のように自らの価値観すらぶっ壊しながらやっていかなければ続けられないだろう。
芸能界というのは昔も今もとてつもなく過酷な世界だ。

そして芸能に生きる人間は差別されながらも尊敬され、その才能を差別する人間たちから高く評価されて生き残ってきた。
つまり差別しながらもどこか人間離れした才能に人々は憧憬を抱いて不祥事などは起こしはしない
今でいう世俗の人とは違う「意識の高い人たち」というイメージと願望のようなものを抱いていた。
言わば、都合のいい幻想である。
普段から理解するに難しい奇妙な絵を描く画家や、よくはわからないがすごいと思える詩を書いている詩人が不倫、薬物などの不祥事を起こそうが
「ああ違う世界に生きている芸術家だから、まあいろいろあるやろ」で済ませて特に気にしないが
芸能人が不祥事を起こすとむきになって非難する人が多い、または嫌悪を感じる人が多くないか?
これは芸能人というのが、昔から民衆の一番近くで芸をやり続けてきた人間たちだからではないだろうか?
大衆芸能、大衆芸術として人々の共感を呼ぶ芸をずっとやってきて
それに共感し続ける大衆の人情ありきで続いてきた世界である。

劇の中ではいかに観客の理解できる感情をもって物語を展開させていくかが重要であった。
その役者の中に人々はあらゆる自分を映しこんで引き込まれていく。
役者の演じる役は人間離れしすぎていては面白くない、
殺人者を演じても亡霊を演じても狐を演じてもそこには人間が大いに共感する人情があるから面白い。
人間の汚い部分、純粋な部分、人間の誰もが持つ潜在的な悲しみや恐怖など、それらを
異形の役でも表現して見事に演じ切る。
あらゆる存在を演じる役者は神々しい反面とても人間らしい存在なのである。
観るものはその役者を通して醜い自分や自分の純粋さに気づかされたりする。
「どんな自分をも演じてくれる存在」としていつも期待して次の素晴らしい演技を待ち望んでいる。

しかしそんな役者が劇の最中ではなく実生活で何か不祥事を起こすと
とたんに「どんな自分をも演じてくれる存在」として神々しい幻想を抱いていたその幻想がもろくもぶち壊されてしまう。
すると人々は不祥事を起こした醜い自分の姿をその演じていない役者に見る。
その役者がそれを演じているのではなく演じていないことによって、その姿を目の当たりにする自分の本質であるかのように見せつけられてしまう。
今までずっと自分を映しこんできた役者の不祥事は、まるで自分の冒した恥ずかしい不祥事であるかのように錯覚してしまう。
それは観客が都合のいい幻想を役者に見続けてきたからである。
「自分のどんな姿をも演じてくれていた存在」の本当の姿とは神々しい世俗離れした存在であるのだと。
「自分の本当の姿」に対する幻想を観客は役者を通して無意識にも抱き続けていた。
これは役者に限らずともテレビに映るような人たちすべてに言える、日々目にする人たちへの幻想を視聴者は気づかぬうちに胸に温めているのではないか。
よく目にする人ほど、自分をよく映しこんで見ていることだろう。
「ああ、あの人のあの部分って嫌だなあ」「あの人は誠実そうだな」あらゆる自分を投影しながら人々は芸能人たちを目で追っている。

人々はいい幻想を見たいのである。心地の良い幻想を。
そのための芸能であると常に無意識に思っている。
そして誰かが不祥事を起こした、となれば「自分とは関係のない存在」として都合よく自分と切り離したい願望を持っている。
それは相手に映しこんだ自分自身の「負の部分」を自分のものではないと思い込みたいため切り離そうとする心理である。
だから必要以上に不祥事を起こした芸能人をこぞって叩く。
そしてもう二度と自分の目の前に現れて自分に「嫌な自分」を見せないでくれと頼むのである。
不快だからと、嫌な自分を目にするのは。
もう幻想は壊れて、戻せなくなったから、もう戻ってこなくていいよ、と言うのである。

芸能人とは幻想を抱かれてなんぼの商売である。アイドルなんかも薄っぺらい幻想しか抱かれていない。
幻想を抱くために、幻想以外は見せるな。というのが多くの観客の本心なのだろう。

それがゆえにスルーされただけで刺殺そうと考える人間もでてきてしまうのである。
薄っぺらい幻想しか抱かせないアイドル業界は直ちにアイドルの命が大切なのならば在り方を変えなくてはならない。
普段からアイドルの汚い本音などを見せなくてはならない。アイドルも普通の人間なんだと。
普段から「ハゲたおっさんほんまキモイよな」などの本音をTwitterやらで呟かせていれば観客は都合のいい幻想はやめて
人間対人間としてアイドルと関わっていくことができるだろう。

商業に人間を利用しているのが芸能界であれば、人間の心理を利用しているのがマスコミであり
芸能人を利用して都合のいい幻想を抱きたいのが視聴者である。

自分がこの「芸能人を利用して都合のいい幻想を抱きたいのが視聴者」たちの
「肉を食べながら屠畜業者を嫌悪する心理」なるコメントに対してイラッと来たのは
その発言が「かつて肉を食べていながら完全には消え失せない屠畜業者の人たちへの無意識の嫌悪」
と同じものとして自分の中に同じくある「自分の心理に対しての嫌悪の投影」であるからだ。
で、ああまた投影心理で自分はイラッとしてるぞと気づいた瞬間苛立ちは消えた。
苛立ちから恥ずかしさに変わった。

ゴシップにほんの少しでも興味を持ってしまう人間はマスコミの行いを非難する資格はないし
またマスコミに嫌悪を抱くということが自分の中にある醜さをマスコミに映して嫌悪や苛立ちを感じる投影心理であるということに
気づかない人は多いが、気づけばそんなことでいちいち苛立ってストレスを抱えて病気を招くこともなくなるわけである。

また、「人の不幸は蜜の味」とはよく言ったもので、「人間は本当のところで人間の幸福よりかは不幸を望んでいる」
というテーマはこの記事の前の記事のテーマと繋がっており、そこで説いた通り、「人間は幸福よりも苦痛が必要である」という一つの結論と繋がる。

幸福ばっかりでは人間はアホのままであって大した喜びも感じられないから、成長するに不可欠な不幸(苦悩)が人に訪れることを人は密やかに望んでいる。
幸福の次に訪れるであろう不幸を見越して人間の幸福を大いに人は喜ぶことができるのである。
これは何もひねくれた考えではなく、人間とは不幸があって、ようやく幸福を感じられるようにできておるので致し方あるまい。
イエスも
  今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。



  今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
  あなたがたは飢えるようになる。
  今笑っている人々は、不幸である、
   あなたがたは悲しみ泣くようになる。


ルカによる福音書6章21,25節
と言っているこれは人間の生きる自然法則なのです。

だから本当に人の幸福を願うならば、安易に幸福を喜ぶのではなく、どんな苦難にも耐えうる強さが与えられますように。
と祈るのが私はいいと思うのである。


海老蔵を見ているとまるでうちの父を見ているような気持ちになる。
母が乳がんで闘病した二年もの期間、幼い私と兄を抱え父がどのような想いで生きていたか。
大きな試練に耐えながら演じた海老蔵の渾身の演技を観たかったなと思う。







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苦痛を自ら求めよ

2016-06-25 02:57:06 | コラム
残虐映像に慣れきってしまった我々の課題 ―映画『シリア・モナムール』にみる残虐映像の受け取り方―

素直でとても良い記事だ。
なんでこういう記事をコメント付きにしないでどうでもいい記事をコメント付きにしてるんだ。

これは結局、人間が幸せでいるとどのような深刻な問題が起きてくるかを言っている。
幸せでいる人間は本当のところで、感情の奥底から悲劇を悲劇として感じることができないのではないか。
例えばかつて鬱病だった人間は鬱病の苦しみに心から共感することはできない。
それは過去の苦しみであって、今の苦しみではないからだ。
過去の苦しみを思い出そうとしても今が楽な時ならその苦しみを呼び戻すことさえできない。

今、苦しくない人間は知らない他者の苦しみを自分の苦しみとして感じることが難しい。
それは他者の痛みも自分の鏡でしかないからだ。
いくら過去が苦しみの連続にあったとしても過去の鏡を今見ることはできない。
今幸せにある人間、今楽である人間は他者の悲劇は遠いところの悲劇としてでしか感じ取れないのは無理もないだろう。
遠い場所の悲劇に心の深い部分で共感するには、普段からの消えることのないような苦しみや悲しみや痛みといった感情や感覚がどうしても必要になってくる。

しかし日本は平和な国と言うのはおかしいのではないか。戦争や紛争やテロがなくとも1日に70人自殺している世界でも異様な不幸な国だからだ。
日本といえば真っ先に過労死、自殺大国と言われる国は平和な国では決してない。
日本が平和な国と言えること自体が、日本にある苦しみですら見えていない幸せで楽な生活を送り続けることによって平和ボケしてしまった状態にあると言える。
それも一つの悲劇的な状況だ。

この記者のように他者の苦しみを遠いところに感じてそれに嘆くというのは正常な感覚だと思う。
楽なところにいる苦しみ、幸せでいることの苦しみを感じられたらあとは自分の求めるまま苦しみを求めてそれを人は手にするようになるだろう。
毎日のように逃げ場のない苦しみの中にいたら遠い場所の苦しみも現実的に感じられるようになってくる。
自分の苦しみに間違いなく蓄積されて消えることのない苦しみとして受け入れられるようになってくる。
日本はまだ精神障害や精神病を負のものでしかないと思いたがる人は多いかもしれないが、苦しみの中に居続けることでしか感じ取れない、見えてこない大事な面、また喜びがあるということが解るなら、価値観、人生観というものは大きく変化して苦痛に耐えやすくなる。

幸せ、快さ、楽なものを欲求するのは生物の本能だが、同時に生きていく苦痛に耐えるための苦痛を自ら求めるのも生物の本能ではないかと感じている。
生物がほとんど過酷な状況に生きていることからもよく理解できる。
人間の問題とは苦痛に生き続けることよりもむしろ苦痛から離れ過ぎて生きることにあるように私は思う。

現にこの地球は人間たちの快楽ばかりを貪る考え方から滅びへと今向かっている。
地球を持続させるには、人間が喜びと同じだけの苦痛を自ら求めようとしだすことが必要となってくる。
楽で生き続けたいという考えがあらゆる問題を生み出す。
なんでもバランスが大事で、バランスの取れた世界が平和な世界と言える。
楽ばかりが在り続ける世界、それは平和ではなく、狂った世界である。
一方、耐え切れない苦痛を他者に与え続けている世界もまた狂った世界だ。

その肉を口に入れる前にどのような耐え難い苦痛がその肉の元であった生物に与えられていたか、罪悪感に打ちのめされ肉を口にするのに苦痛でならないほどの自分の苦痛が人間は必要なのである。
自分が何かに耐え難い苦痛を間接的にも与えているのに誰かの苦痛に嘆くことがどれほど滑稽であるか。
どれほど悲劇的な有様であるか。
日本にも悲劇は起こり続けている。
バランスの取れた平和など、まだどこにもない。
どこもかしこも、まだ狂い続けている。










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